部長報告に行った話
週末、真田道場。
「失礼します」
門をくぐると、すぐに真紀子さんが顔を出した。
「あら、朝比奈さん」
いつも通り、丁寧でやわらかい声。
でも、なぜか少しだけ楽しそうだった。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
真紀子さんが微笑む。
「今日は巴、少し出ているんです」
「そうなんですか」
「剣道の方で、少し用事がありまして」
「なるほど」
恒一はうなずいた。
少しだけ残念な気もした。
でも、今日は報告もあった。
「あの」
「はい」
「陸上部の部長になりました」
真紀子さんの目が、少しだけ丸くなる。
「まあ」
心から嬉しそうに笑った。
「巴から聞いてましたけど、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「朝比奈さんなら、きっとちゃんと見られるでしょうね」
「……そうでしょうか」
「ええ」
即答だった。
そこへ、奥から祖母が顔を出す。
「おや、来たね」
「こんにちは」
「部長になったんだって?」
「はい」
「えらいじゃないか」
祖母は楽しそうに笑う。
「巴も副部長なんだろう?」
「はい」
「ふふ」
祖母が、意味ありげに目を細める。
「二人で支えるんだねぇ」
「いえ」
恒一は少し考える。
「佐藤もいます」
「佐藤?」
「もう一人の副部長です」
「そうかい」
祖母は笑った。
「でも、巴も一緒なんだろう?」
「はい」
「なら、賑やかになるねぇ」
賑やか。
そうなるのだろうか。
恒一には、まだよく分からなかった。
そのあと、恒一は道場に通された。
巴はいない。
いつもより、少し広く感じる。
畳の匂い。
木の床の冷たさ。
壁に掛けられた竹刀や防具。
それらを見ていると、奥から祖父が現れた。
「来たか」
「はい」
背筋の伸びた老人だった。
声は静か、でも体の奥に響くような圧がある。
「部長になったそうだな」
「はい」
「では、少し見てやる」
「……え?」
「でも俺は、剣道部じゃ……」
「動け」
説明は、それだけだった。
そこから始まったのは、軽い確認のはずだった。
足運び。
姿勢。
重心。
踏み込み。
「遅い」
「はい」
「足だけで動くな」
「はい」
「目線が泳ぐ」
「はい」
軽い確認のはずだった。
少なくとも、恒一はそう思っていた。
でも、十分ほどで息が上がった。
「……っ」
「悪くはない」
祖父が言う。
「ただ、芯がまだ弱い」
「芯」
「体も、心もだ」
「……はい」
祖父は、恒一をじっと見る。
「お主は、真面目だな」
「そうでしょうか」
「真面目すぎる」
そう言われて、恒一は少し考えた。
褒められているのか。
注意されているのか。
分からなかった。
「まあよい」
祖父は背を向ける。
「今日はここまでだ」
「ありがとうございました」
恒一が頭を下げる。
その後祖父が少しだけ振り返った。
「あとで少し話す」
「はい」
静かな声だった。
でも、断れる感じではなかった。
鍛錬のあとは、台所だった。
「朝比奈さん」
真紀子さんが、当然のようにエプロンを差し出す。
「今日は煮物をお願いできますか?」
「分かりました」
恒一は自然に袖をまくった。
祖母が横で楽しそうに笑う。
「もう馴染んでるねぇ」
「そうでしょうか」
「馴染んでるよ」
鍋。
包丁。
まな板。
出汁の匂い。
道場で息を切らしたあとに、台所で料理をする。
普通に考えれば、変な流れだった。
でも、恒一にとっては不思議と落ち着いた。
「部長さんは忙しくなりそうですね」
真紀子さんが言う。
「まだ実感はありません」
「そういうものかもしれませんね」
「はい」
「巴も、うまくやれるといいのですけれど」
「真田なら大丈夫だと思います」
恒一は迷わず言った。
真紀子さんが、少しだけ目を細める。
「そう言っていただけると、嬉しいです」
「実際、真田はすごいので」
「ふふ」
祖母が笑う。
「本人が聞いたら、変な顔をしそうだねぇ」
「そうでしょうか」
「するよ」
台所に、小さな笑い声が広がった。
普通だった。
穏やかで、温かくて。
恒一は、今日もいつも通り、真田家に受け入れられているのだと思っていた。
途中までは。
料理がひと段落した頃。
「朝比奈」
低い声がした。
振り向くと、巴の父が立っていた。
腕を組んでいる。
相変わらず、圧が強い。
「少し話がある」
「はい」
恒一はうなずいた。
別室。
向かい合って座る。
父はしばらく黙っていた。
沈黙が重い。
「部長になったそうだな」
「はい」
「巴が副部長だそうだな」
「はい」
「距離が近くなるな」
「……」
恒一は少し考える。
「役職上、話す機会は増えると思います」
父の眉がわずかに動いた。
「そこだ」
「そこ」
「必要以上巴に近づくな!」
低い声だった。
「巴は、昔から勝負事に真っ直ぐすぎる」
「はい」
「その分、余計なものに引っ張られることもある」
「……」
「部長なら、分かるな」
分かる。
そう言えるほど、恒一はまだ部長ではない。
でも、父の言葉が軽いものではないことは分かった。
「……必要以上に、近づかないようにします」
父は短くうなずいた。
「それでいい」
その言葉で、話は終わった。
部屋を出て帰ろうとすると、今度は廊下で以前会ったことのある、青年に声をかけられた。
「朝比奈くん」
「はい」
巴の兄だった。
父よりは柔らかい顔をしている。
でも、目だけは、妙に鋭かった。
「少しだけ、いいかな?」
「はい」
庭の見える縁側。
兄は笑っていた。
笑っているのに、逃げ場がない感じがした。
「部長、おめでとう」
「ありがとうございます」
「巴も副部長になったんだってね」
「はい」
「うちの妹、分かりにくいだろ」
「……そうですね」
否定できなかった。
兄は苦笑する。
「でも、変に期待させるのはやめてほしい」
「期待」
「近づいたり、離れたり」
一拍。
「そういうの、あいつ意外と効くから」
「……」
恒一は黙る。
その言葉は、少しだけ胸に引っかかった。
「だから、少し距離を取ってくれる?」
「距離?」
「うん」
兄は軽く言う。
でも、目は笑っていなかった。
「部長と副部長として、ちゃんとした距離」
「……分かりました」
「あと」
兄が少しだけ声を落とす。
「この話、巴には言わないでほしい」
「なぜですか」
「言ったら、あいつたぶん俺たちに怒るから」
「……」
「君、真面目そうだし」
兄は笑う。
「約束できるよね?」
約束。
その言葉が出た時点で、恒一は軽く扱えなかった。
「……分かりました」
「ありがとう」
兄は満足そうに笑った。
軽い、けれど。
恒一の中では、これが重い約束になった。
最後に呼ばれたのは、祖父だった。
道場の奥。
先ほど鍛錬した場所に、祖父は静かに座っていた。
「座れ」
「はい」
恒一は正座する。
「お主は、強くなりたいのか」
「はい」
迷わず答えた。
「なぜ」
「真田は、強い人が好きだと聞いたので」
祖父は、少しだけ目を細めた。
「そうか」
「ならば覚えておけ」
「はい」
「恋に夢中になっているうちは、強くなれん」
「……」
「目の前の相手ばかり見ていては、自分の足元が崩れる」
静かな声だった。
父のような圧ではない。
兄のような笑顔でもない。
ただ、言葉が重かった。
「巴は強い男が好きだ」
「はい!」
「だが、ただ近くにいる男を強いとは思わん」
「……」
「本気なら、まず己を鍛えろ」
恒一は黙って聞いた。
その言葉は、胸の奥に深く沈んだ。
「近づきたいなら、焦るな」
「焦らない」
「浮つくな」
「はい!」
「見られる前に、見るに足る男になれ」
「……はい」
祖父は、それ以上何も言わなかった。
ただ静かに、恒一を見ていた。
恒一は深く頭を下げる。
「ありがとうございました」
帰り道。
夕方の道を、恒一は一人で歩いていた。
真田巴とは、一度も会わなかった。
それでも。
今日聞いた言葉は、頭の中に残っていた。
必要以上に近づくな。
距離を取れ。
この話は巴には言わない。
恋に夢中では強くなれない。
巴は強い男が好きだ。
「……」
恒一は足を止める。
父に言われた。
兄と約束した。
祖父に教えられた。
別々の言葉だった。
けれど、恒一の中では、ひとつの形になっていく。
真田に近づきたいなら。
今は、近づいてはいけない。
強くなる。
部長としても。
男としても。
ちゃんと見られるだけの自分になる。
それまでは。
「……距離を取る」
小さく呟く。
それは逃げではない。
むしろ、前に進むための選択だと。
恒一は、そう思った。
その日、恒一は真田巴と一度も話していない。
それなのに、彼女との距離の取り方だけが、勝手に決まってしまった。




