距離の取り方が変だった話
放課後、グラウンド。
新体制にも、少しずつ慣れてきた。
少しずつ。
本当に、少しずつ。
「朝比奈」
真田巴が声をかけた。
朝比奈恒一は、ちょうど一年生のフォームを見ていたところだった。
「真田副部長」
「……」
巴は止まった。
少しだけ。
「今、なんて?」
「真田副部長」
「……副部長?」
「ああ」
恒一は真面目な顔だった。
ふざけている様子はない。
だから余計に分からない。
「急に何?」
「役職上、適切な呼び方だと思った」
「適切」
「部長と副部長だからな」
「昨日まで普通に真田だっただろ」
「昨日までは昨日までだ」
「……」
巴は少し眉を寄せる。
何かが変だ。
ものすごく変だ。
けれど、本人はいたって真面目。
そこが一番厄介だった。
「朝比奈!」
「なんだ」
「普通に呼べ」
「いいのか」
「いいに決まってるだろ」
「分かった。真田」
「……」
戻った。
戻ったけれど。
なんだろう。
微妙に納得できない。
そこへ、佐藤忠一が書類を持って近づいてきた。
「朝比奈、今日の練習メニュー確認だけど」
「ああ」
佐藤は巴を見る。
「真田さんも、女子側の確認お願いします」
「ああ」
巴がうなずく。
恒一は一歩、横にずれた。
「……」
巴はその動きを見た。
一歩。
ほんの一歩。
けれど、明らかに距離を取った。
「朝比奈」
「なんだ」
「今、下がったか」
「下がった」
「なんで」
「近かったから」
「……近かったか?」
巴は佐藤を見る。
佐藤は即座に視線を逸らした。
「佐藤」
「俺に振らないでください」
「近かったか?」
「……近いと言えば近いですし、普通と言えば普通です」
「どっちだ」
「副部長としては普通です。青春としては知りません」
「青春?」
「忘れてください」
佐藤は胃のあたりを押さえた。
新体制になってから、佐藤は少しだけ胃が痛い。理由は、まだよく分かっていない。
ただ、朝比奈と真田が並ぶたびに、なぜか空気が面倒くさくなる。
それだけは分かっていた。
「朝比奈」
佐藤がため息をつく。
「とりあえず、練習中に急に横移動しないでくれ。部員が不安になる」
「そうか」
「そうだ」
「分かった」
恒一はうなずく。
そして、また巴から半歩離れた。
「分かってないだろ」
佐藤の声が低くなった。
巴も同じことを思った。
練習が始まった。
恒一は部長として、部員を見る。
一年生の走り。
二年生の疲れ。
全体の流れ。
そこは変わらない。
むしろ、前よりちゃんと見ている。
「白石」
「はい」
「二本目、少し肩に力が入ってる」
「え、あ、はい」
「急がなくていい。最初の三歩だけ丁寧に」
「はい」
白石ひよりが、少し緊張しながらもう一度スタート位置に戻る。
その様子を見て、巴は少しだけ感心した。
朝比奈は、ちゃんと見ている。
部長としては。悪くない。
ただ。
「真田」
恒一が声をかける。
「女子側、フォーム確認を頼む」
「ああ」
巴が近づく。
恒一が一歩下がる。
「……」
「……」
「朝比奈」
「なんだ」
「毎回下がるな」
「無意識だった」
「嘘だろ」
「嘘はよくない」
「なら意識してるだろ」
「……少し」
巴は、じっと恒一を見る。
「なんでだ」
「……」
恒一は少し黙った。
兄との約束。
父の言葉。
祖父の言葉。
言えない。
言ってはいけない。
「今は」
恒一は言葉を選ぶ。
「適切な距離を保つべきだと思っている」
「またそれか」
「また?」
「前も似たようなことしただろ」
「……」
恒一は黙った。
言われてみれば、そうかもしれない。
でも今回は違う。
逃げているわけではない。
前に進むためだ。
恒一はそう思っている。
「真田」
「なんだ」
「必要なことだ」
「……誰にとって」
巴の声が、少し低くなった。
「俺にとって」
「……」
「たぶん、真田にとっても」
巴は眉を寄せた。
分からない。
まったく分からない。
でも、何かがあるのは分かる。
恒一の目は、逃げている目ではなかった。
だから余計に、腹が立つ。
「勝手に決めるな」
短く言った。
「……悪い」
恒一は素直に謝った。
素直に謝る。
そこはいつも通り。
なのに、距離だけは戻らない。
巴は少しだけ口を開きかけて、やめた。
「練習、見る」
「ああ」
二人は、それぞれの場所に戻った。
少し離れた場所で、佐藤はその様子を見ていた。
「……」
胃が痛い。
理由は分からない。
でも痛い。
「佐藤先輩、大丈夫ですか?」
一年生に聞かれる。
「大丈夫だ」
「顔色悪いです」
「副部長だからな」
「副部長って顔色悪くなる役職なんですか?」
「たぶん、うちだけだ」
佐藤は小さく息を吐いた。
朝比奈は真面目だ。
真田さんも真面目だ。
二人とも真面目なのに、なぜか並ぶと面倒になる。
佐藤には、それが全く分からなかった。
ただ、ひとつだけ分かる。
佐々木先輩、あなたが言った「佐藤が整える」は、思っていたより範囲が広いです。
心の中で、そう報告した。
練習後。
巴はタオルで汗を拭きながら、グラウンドの端に立っていた。恒一は部員の記録を確認している。
少し離れている。
本当に、少し。
でも、前より遠い。
「……」
巴は、なんとなくそれが気に入らなかった。はっきり怒るほどではない。問い詰めるほどでもない。
ただ、変だ。
気持ち悪いくらい、変だ。
「真田さん」
佐藤が声をかける。
「今日の女子側の確認、助かりました」
「ああ」
「……その」
「なんだ」
「朝比奈と、何かありました?」
「私が聞きたい」
即答だった。
佐藤は黙った。
「……そうですか」
「佐藤」
「はい」
「朝比奈、変だと思わないか」
「思います」
即答だった。
「ただ、朝比奈はだいたい変なので、今回がどの程度の変なのか判断できません」
「……」
巴は少しだけ笑いそうになった。
でも、笑えなかった。
「そうか」
「はい」
佐藤は真面目にうなずく。
「俺の方でも、少し見ておきます」
「頼む」
「副部長なので」
「……佐藤も副部長だな」
「忘れないでください。俺が一番忘れたいです」
今度は、少しだけ笑えた。
ほんの少しだけ。
帰り道。
巴は一人で歩いていた。
朝比奈は、また距離を間違えている。
ただ、前と違って今回は、逃げているようには見えなかった。
だから余計に、理由が分からなかった。




