朝比奈部長と呼ばれた話
放課後のグラウンド。
新体制になってから、まだ数日。
陸上部の空気は、少しだけ変わっていた。
三年生がいない。
それだけで、声の響き方も、並び方も、どこか違う。
「……」
朝比奈恒一は、グラウンドの端に立っていた。
部長。
そう呼ばれる立場になった。
ただ、まだ、あまり実感はない。
「朝比奈部長!」
声がした。
振り向く。
白石ひよりが立っていた。
陸上部の一年生。
少し緊張した顔で、こちらを見ている。
「どうした」
「……あの」
ひよりは少しだけ視線を下げる。
「部長に、なったんですよね」
「ああ」
「すごいです」
「……そうなのか」
恒一は少し考える。
すごい。
そう言われても、まだよく分からない。
「まだ、実感はない」
「でも」
ひよりが、小さく笑う。
「朝比奈先輩らしい気もします」
「俺らしい?」
「はい」
「ちゃんと考えてくれるところとか」
「……」
恒一は黙った。
少しだけ、胸の奥に残る言葉だった。
「そうか」
「はい」
ひよりは、少しだけ安心したように笑う。
でも、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ違和感もあった。
朝比奈先輩は優しい、ちゃんと見てくれる。
けれど、どこかまだ遠い。
そんな気がしていた。
「練習、始まるぞ」
「あ、はい」
ひよりが小さく頭を下げて走っていく。
恒一は、その背中を見る。
「……」
部長。
自分らしい。
その言葉が、少しだけ不思議だった。
■練習後、二年A組。
帰宅するため、恒一が一度教室に戻ると、基樹が机に座っていた。
彩音も近くで鞄を整理している。
「遅かったな」
基樹が言う。
「部活だから」
「そりゃそうか」
彩音が顔を上げる。
「朝比奈部長、お疲れ」
「……慣れないな」
「呼ばれた?」
「ああ」
恒一は少し考える。
「白石に言われた」
「ひよりちゃんに?」
「すごいとも言われた」
「へえ」
彩音が楽しそうに目を細める。
「よかったじゃん」
「朝比奈先輩らしいとも言われた」
「ちゃんと見てるね、ひよりちゃん」
「そうなのか」
「うん」
彩音は笑う。
「恒一がちゃんと考える人だって、分かってるんじゃない?」
「……」
恒一は少し黙る。
それから。
「俺も」
「ちゃんと変わらないといけないのかもしれない」
基樹が止まった。
「急にまともなこと言うな」
「まともなのか」
「まともすぎて怖い」
彩音が小さく笑う。
「でも、そのあと絶対変な方向行くよね」
「行かない」
「行く」
基樹と彩音が同時に言った。
「……」
恒一は少し不満そうに黙った。
「それで」
彩音が楽しそうに聞く。
「部長としてはどう?」
「まだ分からない」
「だろうな」
基樹が言う。
「ただ」
恒一は少し考える。
「真田が最近、よく俺を見ている」
「……」
基樹の顔が、嫌な予感を受信した顔になった。
「それ、部長として見てるんじゃねえの?」
「そうかもしれない」
「そうだろ」
「でも」
恒一は真面目な顔で続ける。
「違うかもしれない」
「何が」
「距離が縮まっているのかもしれない」
基樹が頭を抱えた。
「出たよ」
「出た?」
「恋愛を分かってきたと思ってる恒一が一番怖いんだよ」
彩音は肩を震わせていた。
「ふふっ……」
「いいじゃん」
「よくない」
基樹が即答する。
「こいつ、自信持ち始めると絶対ズレる」
「ズレない」
「ズレる」
「まだ何もしてない」
「何かする前から不安なんだよ」
彩音が楽しそうに言う。
「でも、巴も見てるのは本当かもね」
「彩音」
基樹が低い声を出す。
「煽るな」
「煽ってないよ」
「嘘つけ」
「ちょっとしか」
「また認めたな」
恒一は少し考える。
部長。
副部長。
見る。
見られる。
話す機会が増える。
これは、たぶん。
「距離が縮まっている」
「声に出すな!」
基樹のツッコミが飛んだ。
彩音はとうとう笑った。
「朝比奈部長、前向きだね」
「前向きなのは悪いことじゃないだろ」
「悪くないよ」
彩音は笑ったまま言う。
「ただ、慎重にね」
「慎重に」
恒一はうなずく。
「分かった」
基樹が深くため息を吐く。
「分かってない顔してる……」
■翌日の放課後、グラウンド。
巴は女子部員にフォームを見せながら、ちらりと恒一の方を見た。
朝比奈恒一。
部長。
正直、まだ慣れない。
でも、部員を見る時の目は、前より少し違っていた。
走る時も。
指示を出す時も。
妙に真面目で。
妙に不器用で。
でも、ちゃんと見ている。
「……」
巴は小さく息を吐く。
(部長、か)
少しだけ。
前より違って見える。
そう思った。
ただ、それを口に出すつもりはなかった。
「真田副部長?」
女子部員に呼ばれて、巴は前を見る。
「ああ、続けよう」
練習が再開する。
新体制になって。
まだ何も慣れていない。
けれど、朝比奈恒一は、部長と呼ばれるたびに少しだけ考え。周囲は、そのたびに少しだけ不安?になった。




