08、恐怖
朝霧の残る王都は、いつもより静かだった。
廊下を歩く生徒たちの声も小さい。
「……昨日の街、本当に……」
「数千人だって」
「魔王が……一晩で?」
誰かが口にするたび、会話はそこで途切れた。
教室の扉を開ける。
夕暮れの光が差し込む室内。その窓際に、ひとりの少女が座っていた。
「……セシリア?」
返事はない。
近づくと、彼女の足元に聖剣が転がっていた。
鞘から抜かれることもなく、ただ冷たい床の上に横たわっている。
セシリアは膝を抱えたまま、窓の外を見ていた。
銀色の髪は乱れ、目元は赤く腫れている。
「セシリア」
「……シト?」
ゆっくりと顔が上がった。
その瞬間、ぽろり、と涙が落ちた。
「……来たんだ」
「うん」
僕は彼女の前まで歩き、しゃがみ込んだ。
「昨日のこと、聞いたよ」
セシリアの唇が震えた。
「……ひどいよ」
両手で制服の裾を握りしめる。
「街が……なくなったんだって」
「……うん」
「人も、いっぱい……」
声が途切れた。
セシリアは両腕で自分の身体を抱きしめる。
「みんな、言ってるの」
「何を?」
「次は王都だって……」
彼女の指が震えた。
「早く勇者が魔王を倒さないと、次は私たちが殺されるって……」
「……」
「街を歩いてても、みんな私を見るの」
セシリアが顔を上げる。
「助けて、って」
そして、すぐに俯いた。
「でも……私、何もできない」
床に置かれた聖剣へ手を伸ばす。
柄を握る。
「聖剣だって……」
力を込める。
「昨日から、ずっと……」
聖剣は沈黙したままだった。
セシリアは手を離した。
「何も答えてくれない」
「……セシリア」
「私、勇者なのに」
彼女の肩が大きく揺れた。
「みんなが殺されてるのに……何もできないよ……」
僕はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと手を伸ばす。
「……こっちにおいで」
「え……?」
僕は彼女の肩を引き寄せた。
小さな身体が胸元に収まる。
「シト……」
「大丈夫」
「でも……」
「大丈夫だから」
背中に手を回す。
「もう、頑張らなくていいよ」
セシリアの手が、僕の制服を掴んだ。
「……私、怖い」
「うん」
「魔王と戦いたくない」
「うん」
「死にたくない……」
「死なせないよ」
「でも、私が逃げたら……みんなが……」
「君が全部背負う必要なんてない」
「……でも私は勇者だから」
「勇者である前に、セシリアだろ?」
彼女の指が止まった。
「……」
「僕の前では、無理しなくていい」
しばらくして、胸元から小さな声が聞こえた。
「……シト」
「ん?」
「シトまで、いなくならないで」
「いなくならないよ」
「本当に?」
「うん」
「……絶対?」
「絶対」
セシリアは僕の制服を握ったまま、小さく頷いた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
背中をゆっくり撫でる。
窓の外から、風が吹き込んできた。
銀髪が揺れる。
やがて、セシリアの肩から少しずつ力が抜けていった。
「……温かい」
「そう?」
「うん」
彼女は顔を上げた。
赤くなった目で、僕を見る。
「シトがいると……大丈夫な気がする」
「なら、ずっといるよ」
「……うん」
セシリアは小さく笑った。
「私、もう少し頑張ってみる」
「頑張らなくてもいいんだけどね」
「それでも、勇者だから」
そう言って、彼女は床の聖剣を拾い上げた。
今度は震える手で、しっかりと鞘を握る。
「帰ろう、シト」
「うん」
二人で教室を出る。
廊下の角で、セシリアが振り返った。
「じゃあ、また明日」
「また明日」
手を振る。
セシリアの姿が階段の向こうへ消えていく。
僕はその場に立ったまま、制服のポケットへ手を入れた。
指先に硬い感触が触れる。
魔剣の欠片。
握り込む。
掌に赤い線が走った。
「……まだ足りない」
誰もいない廊下で、声が落ちる。
窓の外には、夜の王都が広がっていた。
灯りの数だけ、人がいる。
家がある。
明日を待つ者がいる。
僕は窓へ近づいた。
「もっと、怖がらせないと」
誰にも届かない声。
「君が僕のところへ逃げてくるまで」
指の間から、血が一滴落ちた。
「――次は、どこにしようか」
夜の帳が、王都を覆っていく。
その夜。
姿なき魔王は、再び動き始めた。
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