39、勇者の君へ
冷たい石畳に、血が広がっていた。
私はその上に座り込んだまま、シトの身体を抱きしめていた。
「……シト」
呼んでも返事はない。
肩を揺らしても、目を開けない。
さっきまでそこにあった温もりが、少しずつ消えていく。
「……嘘だよね」
返ってくるのは、静寂だけだった。
そのときだった。
カタン、と小さな音がした。
足元を見る。
一冊の古びた手帳が、血に濡れた石畳の上に落ちていた。
「……これ」
見覚えがある。
シトが、いつも大切そうに持っていたものだ。
私は震える手を伸ばした。
血で滑る指で、手帳を拾い上げる。
表紙は擦り切れていた。
何度も開いたのだろう。
角は丸くなり、ページの端には無数の跡が残っている。
私は震える指で、最初のページを開いた。
そこには――シトの文字があった。
『勇者の君へ』
たったそれだけの言葉で、胸が締め付けられた。
私はページをめくった。
『これを読んだら、君はきっと僕を憎むだろう』
指が止まる。
『もしかしたら、僕のしたことを知って、絶望するかもしれない』
次のページ。
『それでも、僕はこれを残さなければならない』
文字は、ところどころ乱れていた。
『僕はあの日、魔王になった』
息が止まった。
『勇者だったのに』
『世界を救わなければならないはずだったのに』
『どうして』
『どうして、どうして、どうして――』
そこだけ、何度も何度も書き直されていた。
私は唇を噛んだ。
「……シト」
ページをめくる。
そこには、私の知らない彼がいた。
『魔王は、聖剣でしか殺せない』
『そして、王国が隠している呪いのシステムがある』
『未解放の聖剣で魔王を討てば、勇者は次の魔王になる』
手が震えた。
私は聖剣を見た。
血に濡れた刃。
今まで何度も握ってきた剣。
『君が魔王になる未来だけは、どうしても受け入れられなかった』
「……え?」
さらにページをめくる。
『だから、僕が魔王になる』
『君が僕を殺せるようにする』
胸の奥で、何かが崩れた。
『君が本気で僕を憎まなければ、聖剣は本当の力を発揮しない』
『だから僕は、君を絶望に堕とす』
『君を傷つける』
『君に憎まれる』
『世界中から憎まれる魔王になる』
私はページを握りしめた。
「……違う」
そんなことのために。
あの日、私を突き放したのも。
戦場で何度も追い詰めたのも。
私が泣いても、何も言わなかったのも。
全部。
『君に憎まれ、君の刃に貫かれて死ぬこと』
『それが、僕が選んだ唯一の救済への道だ』
視界が滲んだ。
『許してくれ、セシリア』
『君を一人にする僕を』
『君に、こんな残酷な役割を背負わせる僕を』
文字が涙で歪む。
『僕はただ、君に生きていてほしかった』
『それだけが、僕のすべてだった』
「……っ」
声が出なかった。
私は日記を胸に押しつけた。
シトの匂いがする気がした。
いつもの放課後。
くだらない話をして。
一緒に笑って。
私が泣いたときには、何も言わず隣にいてくれた。
あの時間さえも。
全部、私を生かすためだった。
「……馬鹿」
涙が頬を伝う。
「馬鹿だよ、シト……」
どうして。
どうして一人で決めたの。
どうして私に何も言ってくれなかったの。
どうして――。
私は聖剣を見つめた。
その刃には、シトの血が付いている。
私が刺した。
私の手で。
「……私が」
唇が震えた。
「私が、殺したんだ……」
日記を握る手に力が入る。
頭の中が真っ白になる。
このまま、私も――。
そんな考えが浮かんだ。
けれど。
私は日記を強く抱きしめた。
「……駄目」
小さな声だった。
「それだけは……駄目」
シトは何のために死んだ。
私が生きるため。
私が魔王にならないため。
私が、この先を歩くため。
それなのに。
私まで命を投げ出したら。
「シトが……全部、無駄にしちゃう」
私は涙を拭った。
立ち上がろうとする。
足が震えた。
一度、膝をついた。
それでも、もう一度立ち上がる。
血に濡れた聖剣を拾う。
両手で握る。
「……私は、生きる」
震える声だった。
それでも、今度ははっきりと言った。
「あなたが残してくれた、この世界で」
日記を胸に抱く。
「あなたが守ろうとしたものを、私が守る」
もう一度、シトを見る。
眠っているような顔だった。
「あなたのことを、誰も知らなくてもいい」
涙がこぼれる。
「魔王として憎まれてもいい。世界があなたを怪物だと言ってもいい」
私は聖剣を握り直した。
「私は知ってる」
声が震える。
それでも、目は逸らさなかった。
「あなたが誰だったのか」
シト。
私を救ってくれた人。
私に生きてほしいと願った人。
そして――私が、この手で殺した人。
「だから私は、逃げない」
ゆっくりと立ち上がる。
「あなたが私にくれた命を、私自身の手で終わらせたりしない」
涙を拭う。
「あなたの分まで、生きる」
冷たい風が吹き抜けた。
銀髪が揺れる。
私は日記を胸にしまい、血に染まった聖剣を握りしめた。
「……それが、私にできることだから」
もう、シトはいない。
もう、あの日々には戻れない。
それでも。
彼が命を懸けて残した明日だけは、私が捨てるわけにはいかなかった。
「行こう、シト」
誰もいない玉座の間で、私は小さく呟いた。
「私が、あなたの生きた証を残すから」
そして私は、一歩を踏み出した。
まだ少し続きます
変更後です




