38、シト
(嘘だ)
セシリアは、何度も心の中で繰り返した。
(嘘……嘘だよ)
目の前にいる人が、シトであるはずがない。
そんなはずはない。
だってシトは――。
放課後の教室で笑っていた。
『今日もお疲れ様』
そう言ってくれた。
怖くなった夜には、何も言わず隣にいてくれた。
頭を撫でてくれた。
手を握ってくれた。
自分が勇者でいられなくなりそうなときも、
『セシリアはセシリアだよ』
そう言ってくれた。
その人が。
どうして。
「……シト」
声が出た。
けれど、返事はない。
セシリアの手には、まだ聖剣が握られていた。
その刃はシトの胸を貫いている。
「……私が?」
指先が震える。
「私が……シトを?」
頭の中で、何かが崩れていく。
魔王を倒した。
世界を救った。
ずっとそう思っていた。
仲間を奪われた。
何もかも奪われた。
だから、この男だけは許さない。
そう思って戦った。
憎んだ。
殺すと決めた。
そのはずだった。
なのに。
「違う……」
セシリアは首を横に振った。
「違うよ……」
目の前の人は、憎かった魔王ではない。
自分を救ってくれたシトだった。
「私が殺したかったのは……あなたじゃない……」
聖剣から手を離そうとした。
指が動かない。
握ったまま固まっている。
「どうして……」
視界が滲んだ。
「どうして、こんなこと……」
涙が落ちる。
一滴。
二滴。
それだけでは止まらなかった。
「シト……!」
セシリアは聖剣を抜き、崩れ落ちるシトの身体を抱きしめた。
温かい。
まだ温かい。
「ねえ……起きてよ」
肩を揺する。
「いつものように笑ってよ……」
返事はない。
「私のこと、セシリアって呼んでよ……」
返事はない。
「また頭を撫でてよ……」
声が震える。
「お願いだから……」
シトの手が動いた。
ほんの少しだけ。
その指先が、セシリアの頬に触れる。
「……っ」
涙がさらに溢れた。
この手を知っている。
何度も自分を安心させてくれた手だ。
その手が、今は弱々しく頬に触れている。
「シト……」
頬に触れた指が、ゆっくり動く。
「……泣かないで、セシリア」
その声を聞いた瞬間、セシリアは首を激しく横に振った。
「無理だよ……!」
抱きしめる腕に力を込める。
「無理だよ、そんなの……!」
シトの身体が腕の中で小さく揺れた。
「あなたがいないのに……」
言葉が続かない。
喉が痛い。
息が苦しい。
胸の奥が締めつけられて、何も考えられない。
「私……これからどうすればいいの……?」
返事はない。
「勇者なんて……もうどうでもいい……」
それでも、シトは笑っていた。
昔と変わらない、優しい笑顔。
「……僕の……」
シトの唇が動く。
「大切な……人……」
「……え?」
その言葉を最後に。
シトの腕から力が抜けた。
「シト?」
頬に触れていた手が落ちる。
「シト……?」
セシリアは、その手を両手で握った。
冷たい。
「嫌……」
何度握っても、温度は戻らない。
「嫌だよ……」
胸に耳を当てる。
何も聞こえない。
「シト……」
セシリアはその身体を抱きしめた。
「逝かないで……」
涙がシトの服を濡らす。
「私を一人にしないで……」
返事はない。
どれだけ名前を呼んでも。
どれだけ身体を揺らしても。
シトは目を開けなかった。
セシリアは顔を上げられなかった。
ただ、抱きしめる。
もう二度と離したくない。
そう思った。
なのに。
腕の中にいる人は、少しずつ冷たくなっていく。
そのときだった。
ポトリ。
小さな音がした。
シトの黒い外套。
そのポケットから、一冊の古い手帳が床へ落ちていた。
セシリアは涙で濡れた顔を上げた。
震える手を伸ばす。
手帳を拾う。
表紙は擦り切れていた。
何度も開かれた跡がある。
「……これ」
シトのものだ。
指が震える。
開いていいのか分からない。
それでも。
今のセシリアには、それ以外にシトへ繋がるものがなかった。
ゆっくりと表紙を開く。
最初のページ。
そこには、見慣れた文字が並んでいた。
『勇者の君へ』
その一行を見た瞬間。
セシリアの呼吸が止まった。
涙が、また一滴落ちた。
そして彼女は、震える指で次のページをめくった。
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