27、涙
放課後の教室には、誰もいなかった。
窓の外では、夕日がゆっくりと沈んでいる。
セシリアは机に向かったまま、動かなかった。
目の前には開いたノート。
右手にはペン。
けれど、何度書こうとしても、文字はうまく形にならない。
「……っ」
指先が震えた。
ペン先が紙の上を滑り、線が大きく曲がる。
セシリアは慌てて手を止めた。
「……もう一回」
握り直す。
今度こそ、とペンを走らせる。
けれど――。
また、文字が歪んだ。
「…………」
セシリアはしばらくノートを見つめた。
そして、そっとペンを置いた。
身体中が痛い。
最近は戦いばかりだった。
傷が治りきる前に、また戦場へ向かう。
周囲から向けられる期待も、日に日に重くなっていく。
勇者だから。
世界を救う存在だから。
強くなければならない。
負けてはいけない。
誰かを守らなければならない。
そんな言葉が、頭の中を何度も何度も巡っていた。
「……大丈夫」
誰もいない教室で、セシリアは小さく呟いた。
「私は……大丈夫だから」
返事はない。
当然だった。
ここには誰もいない。
セシリアは両手を膝の上に置いた。
震えを止めようと、ぎゅっと握りしめる。
「大丈夫……」
もう一度。
「大丈夫だから……」
その声が、少しだけ震えた。
その時だった。
カチャリ。
扉が開いた。
「……セシリア?」
「――っ!」
セシリアの肩が跳ねた。
振り向く。
そこに立っていたのは、シトだった。
「シ、シト……?」
「まだ残ってたんだね」
いつもと変わらない声。
いつもと変わらない顔。
シトは教室の中へ入ると、机の上に置かれた資料を手に取った。
けれど。
ちらり。
その視線が、セシリアへ向く。
「……どうしたの?」
「え?」
「顔色、悪いよ」
「そ、そうかな?」
セシリアは笑った。
口元だけを、無理やり持ち上げる。
「ちょっと疲れてるだけ。大丈夫」
「本当に?」
「うん」
シトは黙った。
セシリアも黙る。
静かな部室に、時計の音だけが響いた。
カチ。
カチ。
セシリアは俯いた。
「……大丈夫だから」
今度は、さっきより小さな声だった。
シトがゆっくり近づいてくる。
「セシリア」
「……なに?」
「無理しなくていいよ」
「……」
その一言で。
セシリアの目が揺れた。
「……無理なんて、してないよ」
「そっか」
「うん」
「じゃあ――」
シトはセシリアの隣に立った。
「少しくらい、休んでもいいんじゃないかな」
「…………」
セシリアは俯いたまま、唇を噛んだ。
「……休んだら」
声が震える。
「休んだら……みんなが死んじゃうかもしれない」
シトの表情がわずかに変わった。
「私がもっと強くならないと……」
「……うん」
「私が守らないと……」
「うん」
「だから……」
ぽたっ。
ノートの上に、一滴の雫が落ちた。
「……あ」
セシリアが目を見開く。
慌てて袖で拭う。
「ご、ごめん。今の……違うから」
もう一滴。
「違う……」
さらに一滴。
「私……泣いてなんか……」
「セシリア」
「……っ」
シトは何も言わなかった。
ただ、セシリアの前に立つ。
そして。
そっと、その身体を抱きしめた。
「……え?」
セシリアの身体が固まる。
「シ、シト……?」
返事はない。
代わりに、背中をゆっくり撫でる手があった。
その温もりに触れた瞬間。
「……っ」
セシリアの指が、シトの制服を掴んだ。
「……う……」
声が漏れる。
「……うぅ……」
もう、止められなかった。
セシリアはシトの胸元に顔を埋めた。
両手で制服を握りしめる。
「……怖い」
小さな声だった。
「うん」
「私……怖いよ……」
シトは何も言わず、背中を撫で続ける。
「また……誰か死んだら……」
「……うん」
「私が……守れなかったら……」
「うん」
「私……勇者なのに……」
声が震える。
「全然、強くない……」
セシリアの肩が大きく揺れた。
「私……誰も守れない……」
シトの制服に涙が染みていく。
「……情けないよ……」
「そんなことないよ」
「あるよ……!」
セシリアが顔を上げた。
涙で濡れた瞳が、シトを見つめる。
「だって……怖いんだもん……!」
握った拳が震えている。
「戦うのも怖い……誰かが死ぬのも怖い……私まで死ぬのも怖い……!」
声が途切れる。
「なのに……みんな私を勇者って呼ぶ……」
「……」
「強くなれって……世界を救えって……」
また涙が落ちる。
「私……どうしたらいいの……?」
シトはセシリアの頭に手を置いた。
「大丈夫だよ」
「……本当に?」
「うん」
「……私が、こんなに弱くても?」
「それでも」
シトは静かに答えた。
「僕はセシリアの味方だよ」
「……シト」
「世界中が君を責めても」
その手が、もう一度セシリアの頭を撫でる。
「僕だけは、君の味方だから」
「…………」
「だから今くらい、泣いていい」
セシリアは何も言わなかった。
ただ、もう一度シトの胸元に顔を埋めた。
「……うん」
小さく頷く。
「……ごめん」
「謝らなくていいよ」
「……ありがとう」
「うん」
夕暮れの部室に、セシリアの泣き声だけが響いていた。
しばらくして。
その声は、少しずつ小さくなっていった。
セシリアは目を閉じたまま、シトの服を握っている。
その手は、まだ離れない。
「……シト」
「なに?」
「……ずっと、そばにいてね」
「……ああ」
シトは微笑んだ。
「ずっと、そばにいるよ」
窓の外では、夕日が沈んでいく。
そして二人のいる教室室もまた、ゆっくりと夜の色に染まっていった。
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