19、天災
夜だった。
王国北方。
険しい山々に囲まれたその地には、王国を守るための巨大な要塞群が築かれている。
高くそびえる城壁。
いくつもの見張り塔。
分厚い門と、数え切れないほどの兵士たち。
そこは、王国でも屈指の防衛拠点だった。
「……寒いな」
城壁の上で、ひとりの兵士が両手を擦った。
「交代まであと少しだ。もう少し我慢しろ」
「ああ。今日は特に冷える――」
そのときだった。
兵士が、ふと空を見上げた。
「……ん?」
夜空に浮かんでいた星が、一つ消えた。
また一つ。
そして――。
「……なんだ?」
星が消えている。
いや。
違う。
星が消えたのではない。
夜空そのものが、何かに覆われていた。
「お、おい……」
隣にいた兵士が震える指を空へ向ける。
「空が……おかしいぞ」
上空の空間が歪んでいた。
まるで巨大な何かに握り潰されているかのように、夜空がぐにゃりとねじれている。
その中心から、赤黒い光が滲み出していた。
「な……」
誰かが息を呑む。
次の瞬間。
空いっぱいに、巨大な魔法陣が浮かび上がった。
「――魔法陣だ!」
「こんな規模の魔法陣、見たことがないぞ!」
「警報を鳴らせ!」
けたたましい鐘の音が、要塞中に響き渡った。
眠っていた兵士たちが飛び起きる。
武器を手に取り、次々と城壁へ駆け上がってくる。
「敵襲か!?」
「どこだ! 敵はどこにいる!」
「上だ!」
叫び声が重なる。
だが、そこに敵軍はいなかった。
いるのは――ひとりだけ。
巨大な魔法陣の中心。
そこに、少年が浮かんでいた。
漆黒の衣が、夜風に揺れている。
黒い髪が風に流れる。
少年は何も言わず、眼下の要塞を見下ろしていた。
「……あれは……人間なのか?」
兵士の誰かが呟いた。
答える者はいない。
少年の姿を見ているだけで、喉が張り付くようだった。
逃げろ。
本能が、そう叫んでいる。
けれど。
足が動かなかった。
少年――シトは、ゆっくりと口を開いた。
「これより、次の段階へ移行する」
低い声だった。
それだけだった。
シトが右手を上げる。
すると、空に浮かぶ巨大な魔法陣がゆっくりと回転を始めた。
赤黒い光が一点へ集まっていく。
空気が震えた。
ゴゴゴゴゴ……。
地面まで揺れ始める。
「な、なんだ……!」
「魔法障壁を展開しろ!」
「急げ!」
兵士たちが一斉に魔法を発動する。
幾重もの光の壁が、要塞の上空へ展開された。
「これだけ重ねれば止められる!」
「撃て!」
誰かが叫んだ。
しかし。
シトはただ、右手を振り下ろした。
「――終わりだ」
次の瞬間。
空が、落ちた。
巨大な光の奔流が、天から地上へ叩きつけられる。
轟音。
閃光。
そして――。
要塞が消えた。
分厚い城壁が、まるで砂で作られた模型のように崩れ落ちる。
兵舎が消える。
塔が消える。
訓練場も、門も、何もかも。
光に触れた場所から、形を失っていく。
「う、うわあああああっ!」
誰かの叫び声が響いた。
それすらも、次の瞬間には光の中へ消えた。
轟音が止む。
風が止む。
静寂が戻ってきた。
そこには、もう要塞はなかった。
巨大なすり鉢状の大地だけが残されている。
かつて数千人の兵士が暮らしていた場所。
王国北方を守っていた鉄壁の要塞。
そのすべてが、一瞬で消滅していた。
シトは空中から地上を見下ろす。
表情は変わらない。
ただ、静かに右手を開いた。
淡い光が掌に灯る。
すると。
何もない空間から、小さな光がいくつも浮かび上がった。
無数の光が、空へ吸い寄せられていく。
シトはそれを黙って見つめていた。
「……これでいい」
小さく呟く。
最後の光が掌へ消えた。
シトはゆっくりと背を向ける。
漆黒の衣が、風に大きくなびいた。
そのまま、夜の闇へ歩いていく。
誰も追わない。
追える者など、もう残ってはいなかった。
少年の姿が闇へ溶けていく。
あとに残されたのは――。
王国北方を守っていた要塞の跡と、巨大な破壊の爪痕だけだった。
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