18、決意
深夜。
部屋には、紙をめくる音すらなかった。
窓の外では秋の風が木々を揺らしている。
カタ、カタ、と。
古びたガラス戸が、一定の間隔で鳴っていた。
机の上に置かれた魔導ランプだけが、薄暗い部屋を照らしている。
その明かりの下で、シトは自分の手を見つめていた。
指先が、わずかに震えている。
「……」
脳裏から離れない。
ついさっきまで、ここにいた少女の姿が。
セシリア。
勇者と呼ばれる少女。
けれど――
今の彼女は、勇者なんて呼べる姿ではなかった。
「ただいま……」
扉が開く。
シトが顔を上げた。
「セシリア」
そこに立っていた少女は、ひどく小さく見えた。
服は泥だらけ。
頬には擦り傷。
腕にも、脚にも、いくつもの打撲がある。
そして何より――
両手。
剣を握り続けたせいで、手のひらの皮が剥がれていた。
赤い血が、指の間から滲んでいる。
「……えへへ」
セシリアが困ったように笑った。
「また、失敗しちゃった」
「座って」
「でも――」
「座って」
今度は、少しだけ強い声だった。
「……うん」
セシリアが椅子に腰を下ろす。
シトは棚から薬瓶と包帯を取り出した。
そして彼女の前に膝をつく。
「手、出して」
「自分でやるよ」
「駄目」
「でも……」
「動かないで」
シトはセシリアの手を取った。
小さい。
そして、冷たい。
それなのに、手のひらだけは熱を持っていた。
「こんなになるまで握ってたの?」
「……うん」
「痛かっただろ」
「ちょっとだけ」
「嘘」
「……ちょっとだけ」
「同じじゃないか」
シトは小さく息を吐いた。
綿棒に薬を染み込ませる。
そして傷口に触れた。
「っ……!」
セシリアの肩が跳ねた。
「ご、ごめん」
「謝らなくていい」
「でも……」
「僕がやるって言ったから」
シトは手を止めない。
傷口を一つずつ、丁寧に治療していく。
セシリアは痛みに耐えるように唇を噛んでいた。
「……シト」
「なに?」
「私、強くなれるかな」
「なれるよ」
即答だった。
セシリアが目を丸くする。
「……本当に?」
「うん」
「聖剣も抜けないのに?」
「それと強くなることは別だよ」
「でも、勇者なのに……」
シトの手が止まった。
「勇者だから、強くならなきゃいけない?」
「……」
「誰かにそう言われた?」
「……みんな、そう思ってる」
セシリアは俯いた。
「私が強くなれば、みんなが安心するから」
「セシリア」
「だから……頑張らないと」
また剣を握ろうとする。
その手を、シトが掴んだ。
「今日はもう終わり」
「でも――」
「終わり」
「……うん」
セシリアは素直に頷いた。
シトは包帯を巻いていく。
最後に結び目を作る。
「できた」
「ありがとう」
セシリアが両手を胸の前に持ち上げた。
白い包帯に包まれた手。
それを見て、少女は小さく笑う。
「これなら、明日はもっと頑張れるね」
「……」
シトは何も言わなかった。
「シト?」
「……いや」
視線を落とす。
握りしめた拳に、爪が食い込んだ。
こんな姿にしたのは誰だ。
答えは分かっている。
自分だ。
魔王として。
彼女の前に立つために。
そのために、彼女を追い詰めた。
もっと強く。
もっと必死に。
いつか自分を倒せるほどに。
その結果が――これだ。
「……やめようかな」
ぽつり。
「え?」
「何でもない」
今なら、まだ間に合う。
全部やめてしまえばいい。
魔王になる必要もない。
セシリアを戦わせる必要もない。
二人で逃げればいい。
どこか遠くへ。
誰も勇者なんて呼ばない場所へ。
そこで、ただの少年と少女として生きればいい。
「シト?」
「……」
「どうしたの?」
セシリアが顔を覗き込んでくる。
その目には、何の疑いもない。
自分を信じ切った目だった。
シトは目を閉じた。
そして――
拳を開く。
「……何でもないよ」
笑った。
「君は、ちゃんと強くなってる」
「本当?」
「本当」
「じゃあ……もっと頑張る」
「うん」
それしか言えなかった。
セシリアは嬉しそうに笑う。
「おやすみ、シト」
「おやすみ、セシリア」
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていく。
やがて、完全に聞こえなくなった。
静寂。
シトは一人、椅子に座った。
そして――
ゆっくりと立ち上がる。
「……決めた」
もう、迷わない。
自分が悪者になればいい。
嫌われてもいい。
憎まれてもいい。
世界中から敵だと言われても構わない。
「僕が、手を汚そう」
窓の外を見る。
暗い夜空に、月が浮かんでいた。
「君が最後に笑えるなら――」
シトは、自分の手を強く握った。
「僕は、世界の敵になる」
その言葉だけが、静かな部屋からに残った。
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