16、料理
放課後の鐘が鳴った。
夕暮れの校舎を、生徒たちが足早に駆けていく。
「――疲れた……」
廊下の端を歩くセシリアの足取りは重かった。
俯いたまま、一歩。
また一歩。
誰かとすれ違うたび、セシリアは小さく頭を下げる。
「……」
返ってくる視線から逃げるように、足を速めた。
やがて、見慣れた扉の前にたどり着く。
セシリアは一度だけ息を整えた。
そして、そっと扉を開ける。
「おかえり、セシリア」
聞き慣れた声がした。
「……シト」
調理室の中には、温かな湯気が漂っている。
コンロの前に立っていたシトが振り返った。
エプロン姿で、木べらを片手に持っている。
「遅かったね」
「……うん」
「今日はずいぶん静かだね」
「……そう?」
セシリアは靴を脱いだ。
そのまま椅子へ向かおうとして――
ふらり、と身体が揺れた。
「おっと」
シトがすぐに近づく。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
「その台詞、今日は何回目?」
「……知らない」
セシリアは顔を逸らした。
シトは少しだけ眉を下げる。
そして、何も言わずにセシリアの頭へ手を置いた。
ぽん。
「……」
セシリアの肩が小さく跳ねる。
「よしよし」
「子供じゃないんだけど」
「知ってるよ」
「ならやめて」
「嫌?」
「……嫌とは言ってない」
シトの手が、もう一度セシリアの髪を撫でた。
セシリアは何も言わなかった。
ただ、俯いたまま動かなくなる。
「……今日も大変だった?」
「……うん」
「そっか」
それだけだった。
詳しく聞こうとはしない。
セシリアは唇を噛んだ。
「……シト」
「うん?」
「私……」
声が震える。
「……ごめん」
「何が?」
「……分からない」
セシリアの瞳から、一粒の涙が落ちた。
シトは驚いた様子もなく、その涙を指先で拭った。
「謝らなくていいよ」
「でも……」
「今日はもう、頑張ったんでしょ?」
「……」
「なら、それで十分」
セシリアは顔を上げた。
シトはいつものように笑っていた。
「……ずるい」
「何が?」
「そういうこと言うの」
「褒め言葉として受け取っておくね」
「褒めてない」
そう言いながら、セシリアの口元がほんの少し緩んだ。
シトはそれを見て、満足そうに頷く。
「よし。少し元気になった」
「なってない」
「じゃあ、これを食べればもっと元気になるよ」
シトが鍋の蓋を開ける。
ふわっ、と湯気が立ち上った。
「……いい匂い」
「今日はシチュー」
「シチュー?」
「それとパン」
テーブルには、焼きたてのパンと温かなシチューが並べられていた。
セシリアは椅子に座る。
「……私の好きなやつ?」
「そう」
「覚えてたの?」
「もちろん」
「……そっか」
セシリアはスプーンを手に取った。
すくったシチューを、恐る恐る口へ運ぶ。
「……」
ぱく。
数秒、無言。
「どう?」
セシリアはもう一口食べた。
「……美味しい」
「本当?」
「うん」
もう一口。
今度はさっきより大きい。
「……美味しい」
「二回言った」
「大事なことだから」
「そっか」
セシリアは黙々と食べ始めた。
スプーンが皿に当たる音だけが、静かな調理室に響く。
シトは向かいの席に座り、温かいお茶を一口飲んだ。
「ゆっくりでいいよ」
「……うん」
「誰も取らないから」
「分かってる」
「パンもあるよ」
「分かってるってば」
セシリアはパンを一つ取った。
「……これも美味しい」
「それ、焼いたばっかりだからね」
「シト」
「うん?」
「……ありがとう」
シトは少しだけ目を細めた。
「どういたしまして」
セシリアはシチューを食べる。
パンを食べる。
そして、またシチューを食べる。
さっきまで俯いていた顔は、いつの間にか少しだけ上を向いていた。
「……ねえ、シト」
「何?」
「明日も作ってくれる?」
「もちろん」
「……毎日?」
「毎日?」
「……駄目?」
「いいよ」
「本当?」
「その代わり」
シトが人差し指を立てる。
「ちゃんと食べに来ること」
「……分かった」
「約束ね」
「うん」
セシリアは小さく頷いた。
そして、残ったシチューを一口すくう。
「……明日も来る」
「待ってるよ」
窓の外では、夕日がゆっくりと沈んでいく。
今日一日、セシリアの周りにあった冷たいものは、今だけは扉の向こう側だった。
目の前にあるのは、温かな料理と。
それを作ってくれた少年だけ。
「……美味しい」
今度の声は、さっきより少しだけ明るかった。
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