13、帰還
夜の冷気が、部屋のカーテンを揺らしていた。
セシリアは入口を閉じると、その場で一度立ち止まった。
足が重い。
一歩進むたび、身体のあちこちから鈍い痛みが返ってくる。
「……っ」
簡易ベッドまでたどり着くと、崩れ落ちるように腰を下ろした。
泥のついた手を見る。
乾いた血が、指の間にこびりついていた。
セシリアはそれを見つめたまま、ぎゅっと拳を握る。
昼間の光景が、何度も頭をよぎる。
漆黒の外套。
自分より遥かに大きな身体。
振り下ろされた拳。
何をしても届かなかった。
「……私が、勇者なのに」
呟いた声は、誰に届くこともなく消えた。
肋骨のあたりを押さえる。
ズキリ、と痛んだ。
セシリアは唇を噛み、俯いた。
そのとき――。
コン、コン。
「……っ」
部屋の入口が、二度叩かれた。
「セシリア。僕だけど」
聞き慣れた声だった。
「……シト、くん?」
「入ってもいいかな?」
「……うん」
入口の布が持ち上がる。
現れたシトは、小さな木箱と包帯、それから湯の入った桶を抱えていた。
「怪我、見せて」
「大丈夫よ。これくらい……」
「大丈夫な人は、そんな顔しないよ」
「……どんな顔よ」
「今にも泣きそうな顔」
「泣かないわ」
「そっか」
シトはそれ以上言わなかった。
木箱を床に置き、桶を隣へ置く。
そしてセシリアの前に片膝をついた。
「少し触るね」
「え?」
シトの手が、頬に触れた。
温かい。
セシリアの肩が、ほんの少し下がった。
「泥がついてる」
「……ごめん」
「謝らなくていいよ」
濡らした布で、頬についた泥を拭っていく。
「痛かったら言って」
「……ん」
「ここは?」
「平気」
「じゃあ、ここ」
「……ちょっと痛い」
「ごめん。もう少しだけ」
シトの指が、傷の周りを丁寧に拭っていく。
セシリアは黙ってその顔を見つめていた。
しばらくして――。
「……怖かった」
ぽつり、と声が落ちた。
シトの手が止まる。
「怖かったの……」
セシリアは俯いた。
「何もできなかった。剣を握っても、魔法を使っても……あの人には届かなかった」
「……うん」
「みんな倒されて……私も、地面に叩きつけられて……」
声が震える。
「私、勇者なのに」
シトは答えなかった。
代わりに、セシリアの肩へ手を置いた。
「……怖かったね」
「……っ」
「一人で、よく帰ってきたよ」
その言葉を聞いた瞬間。
セシリアの目から、涙が落ちた。
「……シトくん」
「うん」
「私……もう、嫌」
次の瞬間、セシリアはシトの胸元に顔を埋めた。
「もう、あんなのと戦いたくない……!」
制服を掴む指に力が入る。
「勝てない……私じゃ、勝てないよ……!」
「うん」
シトは拒まなかった。
背中に腕を回し、ゆっくりと撫でる。
「今は、それでいいよ」
「……でも……」
「今日は何も考えなくていい」
「私、また戦わなくちゃ……」
「明日のことは、明日考えよう」
セシリアは顔を上げた。
「……明日も?」
「うん」
「怖くても?」
「うん」
「私が……また逃げたくなっても?」
シトは少しだけ笑った。
「そのときは、僕がそばにいる」
「……ずっと?」
「ずっと」
「……本当に?」
「約束する」
シトはセシリアの手を取った。
小さな手を、両手で包む。
「君が怖いなら、怖いって言っていい」
「……」
「一人で抱えなくていいよ」
セシリアは黙ったまま、シトの手を握り返した。
「……離れないで」
「うん」
「絶対に?」
「ああ」
シトは静かに頷いた。
セシリアはその言葉を確かめるように、もう一度シトの袖を掴む。
「……よかった」
「少し眠れそう?」
「……分からない」
「じゃあ、眠れるまでここにいるよ」
「……いいの?」
「もちろん」
シトはベッドの脇に腰を下ろした。
セシリアは横になる。
それでも袖は離さない。
「シトくん」
「なに?」
「……手、握ってて」
「分かった」
シトが手を握る。
セシリアは目を閉じた。
外では風が鳴っている。
テントを揺らす音が、何度も響いた。
けれど、今度は身体を起こそうとはしなかった。
握られた手だけを、確かめるように握り返す。
「……シトくん」
「うん」
「明日も……いてね」
「ああ」
その返事を聞いて、セシリアの瞼がゆっくりと閉じていく。
やがて寝息が聞こえ始めても、指はシトの手を離さなかった。
シトは眠った少女を見つめる。
そして――。
「……ごめんね」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
握った手に、ほんの少しだけ力を込める。
「もう、君を一人にはしないから」
夜の風が、テントの布を大きく揺らした。
二人の影だけが、淡いランタンの明かりの中に並んでいた。
変更後です。




