10、出陣
王都の広場には、朝靄が立ち込めていた。
まだ陽は低い。
白い息を吐く騎士たち。その周囲を取り囲むように、数え切れないほどの民衆が集まっている。
「勇者様……」
「どうか、魔王を……」
昨日、最前線の要塞都市が一夜にして消えた。
その報せは、すでに王都中を駆け巡っている。
いつもなら出陣する騎士たちへ送られる歓声も、今日はない。
聞こえるのは、祈る声と、すすり泣きだけだった。
その中心に、一人の少女が立っている。
純白の軍服。
腰には、まだ力を解放していない聖剣。
銀色の髪が朝風に揺れ、碧い瞳がまっすぐ前を向いていた。
「勇者様……!」
「お願いします!」
セシリアは、ゆっくりと頭を下げる。
「はい」
顔を上げた。
「行ってきます」
その声は、広場の端まで届いた。
僕は人混みから少し離れた場所に立っていた。
「……セシリア」
小さく名前を呼ぶ。
その声が聞こえたのか。
彼女が振り返った。
碧い瞳が、僕を見つける。
「あっ……」
セシリアは一瞬だけ目を丸くした。
そして、騎士たちへ小さく手を振る。
「少しだけ待っててください」
「勇者様?」
「すぐ戻ります!」
白い軍服の裾を揺らしながら、彼女が駆けてくる。
やがて、僕の前で足を止めた。
「……シト」
「おはよう、セシリア」
「来てくれたんだ」
「うん。見送りくらいはね」
僕が笑うと、セシリアは目を細めた。
「そっか」
彼女は腰の聖剣へ手を置く。
指先が、わずかに震えていた。
「ねえ、シト」
「うん?」
「私ね」
セシリアは聖剣の柄を握ったまま、俯いた。
「……怖い」
僕は何も言わない。
「昨日の要塞都市の話を聞いたときね。手が、ずっと震えてたの」
セシリアが自分の手を見る。
そして、ぎゅっと握り込んだ。
「みんなは、魔王は怪物だって言ってる」
「……うん」
「私たちが何人集まっても勝てないかもしれないって」
そこで一度、言葉が止まった。
セシリアは顔を上げる。
「でも、行くよ」
「……」
「だって」
彼女は広場を振り返った。
そこには、大勢の人がいる。
泣いている子供。
祈る老人。
胸元で手を組む母親。
セシリアは、その一人一人を目で追った。
「みんな、私を見てるから」
そして、僕へ向き直る。
「私が逃げたら、誰がこの人たちを守るの?」
「セシリア……」
「大丈夫」
彼女は笑った。
少しだけ唇が震えている。
「私、勇者だから」
僕は返事をしなかった。
セシリアはそんな僕を見て、今度は少しだけ恥ずかしそうに笑う。
「……なんてね」
「無理してない?」
「してない!」
「本当に?」
「……」
セシリアが目を逸らす。
「……ちょっとだけ」
「やっぱり」
「だって怖いものは怖いよ」
頬を膨らませる。
「でも、行く」
「うん」
「絶対に帰ってくる」
「うん」
「約束だからね」
「約束?」
僕が首を傾げると、セシリアが目を丸くした。
「忘れたの?」
「いや」
「この前言ったじゃん」
セシリアは指を一本立てた。
「戦いが終わったら、二人で遠くの街に行く」
「……うん」
「美味しいパン屋さんを探す」
「うん」
「いっぱい食べる」
「それはセシリアだけじゃない?」
「シトも食べるの!」
「はいはい」
セシリアは満足そうに頷いた。
「じゃあ、決まり」
そして、ポケットから小さな袋を取り出した。
「これ」
「?」
僕の手を取る。
その掌に、小さな御守りが乗った。
「私が作ったの」
「……これを?」
「うん」
白い布に、不器用な刺繍が施されている。
「ちょっと曲がってるけど……」
「……」
「笑ったら怒るからね?」
「笑ってないよ」
「ほんと?」
「ほんと」
僕は御守りを握った。
「ありがとう。大切にする」
「うん」
セシリアは笑った。
「じゃあ、行ってくるね」
「ああ」
僕は手を伸ばした。
銀色の髪を、そっと撫でる。
「行っておいで」
「……うん!」
セシリアが一歩、後ろへ下がった。
「シト!」
「ん?」
「帰ってきたら――」
彼女は指を立てる。
「パン屋さんだからね!」
「分かったよ」
「絶対だから!」
「約束する」
「……えへへ」
セシリアは笑った。
そして、くるりと背を向ける。
「勇者様! 出発のお時間です!」
「はい!」
騎士たちの列へ戻っていく。
白い背中。
揺れる銀髪。
その先に、大門がある。
出撃の角笛が鳴った。
――ブォォォォン。
騎士たちが一斉に歩き出す。
「勇者様!」
「どうかご無事で!」
民衆から声が上がった。
セシリアは振り返らない。
ただ、一度だけ右手を高く掲げた。
その手が、朝靄の向こうへ消えていく。
僕は、その場に立ったままだった。
誰もいなくなった広場で、握りしめた御守りを見る。
「……」
口元から、笑みが消えた。
黒い瞳が細くなる。
僕は御守りを制服のポケットへしまった。
「……待っていてくれ」
誰もいない路地裏へ歩き出す。
朝日とは反対側。
光の届かない場所へ。
「すぐに追いつく」
足を止める。
「君が向かう、その先で」
僕は黒い外套を羽織った。
フードを深く被る。
「――魔王として」
王都の鐘が鳴った。
勇者が出陣した。
ならば。
魔王もまた、動き出す。
変更後です




