5. レオニスの日常
まだ薄暗いその玄関に一人の男がいた。
屈んで靴紐を結び直す、その背中を見つけ、白い息を吐きながら、ギシギシと床を鳴らして駆け寄る。
その気配に気づき、男は振り向いた。
「父さま、もう行っちゃうの?」
幼子は覚束ない足取りで立ち止まり、指先をいじる。
「レオニス〜ごめんよ〜」
「今日も畑? いつ帰ってくる……?」
「ようやく雪が溶けてきたからね。父様はこれからしばらく忙しいんだ……」
寂しそうに目で訴えるレオニスの両手を、何回りも大きな手が包み込む。
レオニスは満足げに笑い、照れくさそうに下唇を噛んでは、包まれた手に視線を落とした。
「あのね、次の種まきは、わたしもやっていい?」
「もちろんいいとも! うれしいなあ! 父様、レオニスが転んでも大丈夫なくらい、ふわふわの土にするよ!」
抱き上げられたレオニスがキャッキャッと笑う。
父様が手を振る。
前を向いて歩き始める。
少し進んでは、振り向いて、こちらに手を振る。
また歩き始める。
それは、姿が見えなくなるまで続いていた。
少し待てば兄様が起きてきて、母様と三人で朝食を摂る。
兄様が学校へ行き、母様が父様の手伝いに畑へ向かえば、家に残るのは私一人だった。
必然的にルカと話したい気持ちは増えていく。
しかし、この頃のルカは忙しい時期らしい。
狩りの途中に話しかけて怒らせてしまって以来、私が起きたときと寝る前に話しかけるのが暗黙のルールとなった。
朝と夜のこの時間が私の楽しみだったのだ。
それが今朝はちゃんと話すことができなかった。
今晩はさぞかし面白い話をしてくれるのだろう。
そう考えて、拗ねたい気持ちをじっと堪えた。
鳥はチュンチュンと鳴き、遠くからも牛の声がする。
退屈だった。
ダイニングの戸棚を引いて、そっと白樺の樹皮を一枚取り出す。
一枚ならきっとバレないだろう。
小脇に白樺、反対の手に戸棚から借りた小さなナイフを持って、椅子によじ登った。
描くものはいつも同じ、あの日あの空間で見たライゴンの姿。
まだルカしか描いたことがなかったが、私の手は飽きることなんて知らないようだった。
飛ぶのに失敗したとルカから聞けば、顔を泥だらけにしたルカを描く。
狩りが成功したとルカから聞けば、小鳥を前に喜ぶルカを描く。
カリカリと白樺を削る音だけが響いている。
小鳥の歌さえこの部屋には立ち入ることができない。
気がつくと、体が前のめりになっていた。
少し痛くなった背中を伸ばして、ゆっくり息を吐く。
そこには、森を駆ける小さなライゴンの姿があった。
ふと、以前、ルカが私の絵を見てみたいと言ってくれたことを思い出した。
いつか、見せられたらいいな。
再び、白樺の上をナイフが走る。
ライゴンの絵の隅に、またライゴンを描いた。
蝶と遊ぶライゴン。
木登りをするライゴン。
木の実を食べるライゴン。
恋しい気持ちは増すばかり。
ちっとも面白くなかった。
「――こらっ!ダメでしょレオニス!ナイフなんて持ち出して!」
ふいに、握っていたナイフが抜かれる。
手遅れだとわかっていながら、私は慌ててルカを隠した。
「絵を描いてたの?」
畑から戻った母様が白樺を覆う小さな手をそっと押す。
観念した私はその弱い力に身を任せた。
「まあ……レオニスは絵が上手ね。見たものをそのまま写したみたい」
一度見た景色は、いつでも頭の中から取り出せる。
神だった頃から変わらない、私の力の一つだ。
本当はルカに絵を人に見られないようにしろと言いつけられていたが、この頃描くしかやることがなくなり、今日、ついに母様に見つかってしまった。
「これは誰にも見せない方がいい?」
目を伏せた私の視線を追うように、横から母様がじっと私を見つめる。
「……うん」
「分かった。じゃあ、母様も誰にも見せない」
そう返すと母様は向かいの椅子を引いて、腰掛けた。
「レオニスはライゴンが好きなのね。どこで知ったの?」
肩がビクッと跳ねる。
母様は優しい。
けれど、素直な父様や兄様とは違う。
何を考えているのか、私にはよくわからなかった。
「レオニスはライゴンって知ってる? それとも偶然これを描いたの?」
思考がぐるぐると渦巻く中で、私はその言葉に嬉々として飛びついた。
「う、うん! 夢で見たの! それで、かわいいなって…!」
「ふーん、不思議ね。どんな夢?」
母様は頬杖をついて、じっと、私の顔を見つめている。
「えっと……おぼえてない……」
「そう」
母様はそれ以上、何も聞かなかった。
今は、ただ私の描いたライゴンを眺めている。
「……かわいいね」
母様が笑った。
「えへへ、そうなの。すごくかわいいの」
褒められて気分がいい。
指が自然と白樺を撫でていた。
「ねえ、レオニス。ライゴンは好き?」
「うん、好き」
「ライゴンのこと、もっと知りたくない?」
耳が、ピクリと前へ向いた気がした。
白樺のライゴンを映していた瞳が、ゆるゆると上っていく。
「そろそろ文字の勉強を始めましょうか。本はいいわよ。本を読めば、知りたいことが何でも分かるようになるの」
見透かされているようだった。
「わからないことや知りたいこと、レオニスはある?」
しかし、恐ろしい気持ちを好奇心が押しのける。
「いっぱい……ある!」
「それじゃあ、お昼のあとにさっそく始めましょうか」
そう言って、母様は立ち上がる。
「手伝ってくれる?」
「うん!」
キッチンへと歩くその背中を足早に追った。




