4. 森の家族
暖かな夕暮れは穏やかに頬を掠め、それに反して体はどんどん冷えていく。
人間の一人が木を登り始める。
大きな体は、いとも容易く一つ目の枝に辿り着いた。
ここにいてはいけない。
では、どこに行けば?
人間がこちらに手を伸ばす。
慌てて次の枝に上がる。
上に登ったところでダメだ。
人間がまた更に距離を詰めてくる。
顔を上げて、次の枝を探す。
ふと、木の枝が、隣の木の枝と重なっていることに気がついた。
枝を蹴って、飛ぶ。
もっと真面目に翼を動かす練習をしておけば良かったと後悔するための時間も今はどこにもない。
隣の木の枝を掴む。
掴めた。
けれど、身体を引き上げるには力が足りない。
爪が枝を捉えたまま、身体だけがずるりと落ちていく。
ゆっくり、じっくりと前足が枝から引き剥がされていく。
最後の爪が剥がれ、その一つ下の枝に腰を強く打つ。
体を裏返し、その枝に食らいついた。
腰に鈍い痛みが広がり、
爪がズキズキと痛む。
もう蹴られた痛みのことなんて記憶にない。
――安堵したのも束の間、地上にいた人間の指先が足の爪にほんの一瞬触れる。
人間が、その場から跳ね上がっただけだ。
そうだ、それがどうした。
その程度で捕まることはない。
だというのに、今すぐにでも触れられた爪を引っこ抜いてしまいたいほどの恐怖に襲われている。
毒のようだった。
爪の先から全身へと恐怖が回り始める。
留まれば一人が登り始め、別の木に移ればまた下の人間たちが着いてくる。
策なんてない。
ただ少しでも、この命が鼓動を続けられるように。
ふと、人間の数が足りないことに気がつく。
一人は先ほどの木から降りている最中。
では下に人間が五人いるはずだった。
数えるまでもない。
三人だ。
気配を察知して右側を振り向く。
右側にある別の木の上に人間が立っている。
次は左。
大きな五本の指が、すぐ目の前で開いている。
――走ることしか頭になかった。
前なんかもうまともに見えちゃいない。
枝の先まで駆けていき、別の木めがけて飛ぶ。
飛んだところで届く距離には見えなかった。
しかし、それは足を止める理由にはならない。
足を乗せた枝が音を立てて弾け飛ぶ。
重みに耐えられなかったわけではないことはわかった。
枝が、下から跳ね上げられたのだ。
何か、下から攻撃を受けた。
わけもわからないまま、真下にいた一人の頭の上に滑り落ちた。
硬い頭が腹にぶつかり、ヒュッ…と呼吸が変になる。
落ちまいと立てた爪の鋭さに、そいつは俺を放り投げた。
着地した体が跳ねる。
これまでこの森で感じてきた土の柔らかさなんて嘘のようだった。
受け身を取れず、脇腹から再度着地。
飛び起きて走った。
とにかく走った。
途中、前足が絡まって転ぶ。
止まって体勢を整えることもせず、もたつく足を繰り返し前に出し続ける。
それから、ようやく少し落ち着けるようになったのは、草むらに飛び込んでから。
六人の人間は、相変わらず大きな袋を持って俺を探している。
なのに、姿が見えない。
それはきっと、向こうからも俺の姿が見えていないということだ。
ガサリガサリとあらゆる方向から聞こえる音だけを頼りに距離を離す。
どれほどの時が流れただろう。
もしかしたらそれほど経ってはいないのかもしれない。
体感では、もう日が沈んでいてもおかしくないと思えるほど長い時間のように感じられた。
六人もいるものだから、今、自分が何人の動きを追っているのかまでは理解ができていなかった。
誘導されていたのだろうか。
音のしない場所に人間が立っていた。
これまでに感じたことのない感覚。
腰に鋭く響く激痛。
先ほど枝に打ったときのそれとも違う。
後ろ足が、前足が、宙を掻く。
野太い歓声を、逆さの世界からただ呆然と聞いていた。
不意に、耳元にカサリと音が触れた。
先ほどの袋だ。
尻尾を掴まれ、宙ぶらりんな俺を別の人間が袋に詰めようとしている。
これで終わる。
自分が終わる。
最期の抵抗だった。
がむしゃらに四本の足で暴れる。
頭が包まれる。
光が見えない。
暗いのに、下の方、いや、上なのか、まだ光が見える。
どうにかしてその光に縋りたくて、救われたかった。
袋の内側を搔くが、手応えはない。
それでも、のたうつ四肢は止まらない。
意味を成さない悲鳴が口から溢れ出る。
掴まれた尻尾が抜けそうだ。
袋の中で頭を押さえつけられて息が吸えない。
厚い野次が鼓膜を刺して痛い。
バサッ。
「……っ!」
バサッ。
春の音だ。
バサッ!
春風に、体はようやく体温を取り戻す。
バサッ!
袋の音も、野次も、もう聞こえない。
バサッ……!! バサッ……!!!
パキパキパキパキッ。
大きな足が、土の上の細い枝葉を押しつぶす。
強く、それでいて優しい、低い咆哮が周囲を包み込んだ。
そうだ、さっきあの子を助ける時も、本当はこんな風にかっこよく吠えてみせたかったんだ。
視界は未だ暗く、何も見えない。
大きな手が尻尾を離れる。
人間たちは逃げ出すようだ。
体が地へ落ちる。
袋の口が柔らかく浮いた。
隙間から覗くパパの顔は、今にも泣き出してしまいそうだった。
――ぐしゃり。
柔らかな感触に包まれて目を覚ます。
俺の顔をじっと覗き込んでいたのは、俺が助けたあの小さな魔獣だった。
「あっ! 起きました!」
その子が誰かを呼ぶ。
大きな木の根元にたくさんの葉っぱ。
けれど、そのどれもに見覚えがない。
ここは……知らない場所だ。
体を起こそうとして、上半身が力なく崩れ落ちる。
痛い。
体中のあちこちがミシミシと音を立てるようだった。
胸が押しつぶされて、鼓動が自分へ返ってくる。
遠くから家族の足音が、呼吸が聴こえる。
その全てが、俺が生きていることを知らしめていた。




