3. 森の人間
[さっきね、父様が――]
レオの話を聞きながら、俺は巣の外を眺めていた。
くすぐる春風にパタパタと耳を揺らして抵抗する。
これまで、家族みんなで森を散歩することはあった。
しかし、親の目もある以上、あまり自由に動き回ることができなかったのだ。
木の上に見えた赤い鳥はどんな声で鳴くのだろうか。
崖に生えていた小さくて黒い花はどんな形をしていたのだろうか。
俺はもうすっかり、この世界の虜になっていた。
[……聞いてる?]
ああ。
……いや。
……すまん。
[ルカ、楽しそうだね]
今日は、待ちに待った自由行動の日だからな。
パパから出された条件は、子供たち全員がそれぞれ狩りに成功したとき、自由行動の許可が下りるというものだった。
それはもう張り切って突っ走った。
結局、俺だけ達成できず、兄弟たちから文句を言われ続けることになる。
それが先日、ようやく小鳥を狩ることに成功したのだ。
食べる勇気までは出ず、獲物自体は兄弟に譲ったのだが……。
[ふーん]
悪いな。
[いいよ別に。夜にまた声をかけるから、その時にルカの冒険のお話聞かせてね]
おうよ!
――――――――――――――――
巣から足を踏み出す。
両親の元へ駆け寄る兄弟たちをよそに、足を止め、出てきた巣を振り返った。
五年の間に俺たち家族は何度も何度も住処を変えてきた。
どうせなら初めての家から冒険を始めたかった気持ちもあるが、ここも随分馴染んできたな。
案外、慣れてしまえばどこも家だ。
「……ルカ!お母さんが大事な話するって」
感慨深さに浸っていた俺を兄弟が急かす。
「今行く!」
――――――――――――――――
「いい?よく聞くのよ?」
両親から聞かされた注意点は全部で五つ。
遠くに行き過ぎないこと。
お腹が空いたら拾い食いせず、帰ってくること。
他の魔獣にちょっかいをかけないこと。
――人間を見たら逃げること。見つかったらすぐ母さんか父さんを呼びなさい。いいわね?
この世界の人間とは、そんなにも野蛮なんだろうか。
レオから聞いた話とは、どうにも噛み合わない。
ちなみに最後の一つは、「楽しんでくること」だった。
たとえもふもふじゃなかったとしても、俺はこの人たちのことがかなり好きだ。
――ライゴンの子供たち、その背中がゆっくりと遠ざかっていく。
その姿を両親は静かに見送っていた。
「本当に大丈夫なのかしら。もう少し鍛えてからにするべきだったんじゃない?」
「お前は心配性だな」
「だって……あなたは怖くないの? 特にルカは他の兄弟たちに比べて体も小さいし、鳥を狩ってきたのだって一度きりだもの」
「……怖いさ」
父親は黙って、子供たちの消えた方向を真っ直ぐと見つめている。
「でも、あいつなら大丈夫だ。俺が育てたんだから。」
―――――――――――――――
いつもの散歩コースから外れて歩いて行くと、早速、気になっていた花を見つける。
覗き込んでみたが、大して煌びやかな花ではなかった。
それでも俺の心は震えていた。
もっとだ。
もっといろんなものを見たい。
俺の足は止まることなんて知らないみたいだった。
どれほど歩いただろうか。
見渡してみると、景色はかなり変わっていた。
ここはママが言っていた、“遠く”に当たるのではなかろうか。
体の方向を戻したところで、二つの耳が勢いよく後ろを向く。
遠くから小さく聞こえる、聞き慣れない鳴き声。
見慣れない、大きな二足歩行の足跡。
鼻腔を突く、ツンとした獣臭さとは違った臭い。
それなのに、どこか懐かしさすら感じる。
……四本の足はその方向へと向いていた。
その先で見たものは、ツルツルの体に短毛の頭、背筋が真っ直ぐ伸びた二足歩行。
実に五年ぶりに見る、人間の姿だった。
いや、今は同種ではないが。
久々に確認した人の姿に何か安心感のようなものを覚えると同時に、想像以上に自分の体が小さいということを自覚した。
隣に立って並んだとして、俺の背丈は股下あたりだろうか。
その人間は、何かに大きな袋を被せようとしていた。
目を凝らす。
小さな魔獣だ。
魔獣が人間に襲われている。
湧きかけた好奇心を恐怖が押さえつける。
そう、それでいい。
それこそが正しい感覚だ。
所詮この世は弱肉強食。
俺たち家族だって、ネズミを食う。
生きていくためなら、仕方のないことだ。
助ける必要はない。
そうだ、確か、すぐ逃げろとママに言われていたんだった。
まだ大丈夫だ。
まだ気づかれてない。
そっと、前足を地に下ろして後ずさった。
その時だった。
「――やだ!やめてっ!誰か!誰か…助けて…!」
それはずるいだろ。
言葉が通じちゃ、もうダメだ。
小さな子供に助けてを求められて、逃げ出せる大人がいてたまるかよ。
足は自然と前に出ていた。
小さな前足が草を踏む音を、敏感すぎるほどに耳が拾う。
深く……ゆっくり息を吸って……
空高く吠えた。
「ギャーーーーーーーーーゥ……ッッッッ!!!」
鳥たちの羽音が一斉に森へ響き渡る。
そうだ、それでいい。
こっちだ。
――俺を見ろ。
俺は人間の足に飛びつき、歯を立てた。
慌てた人間はよく分からないことを叫びながら、俺ごと足を振る。
口の中に人間の血が滲む。
知っている味だ。
知らなかったことがあるとすれば、それを、少しおいしいと感じたことくらいだ。
振っても離れない俺を見て、人間は反対側の足で蹴りを入れる。
先程まで襲われていた魔獣はというと、未だに、すぐそこで腰を抜かしている。
目線をやって初めて、状況を飲み込んだらしい。
草むらに消えて行く後ろ姿が一瞬だけ見えた。
よし、後は俺が逃げるだけ。
……ん?
いや、これ、どうやって逃げるんだ?
遠くから、別の声がした。
一つ。
二つ。
……増えていく。
慌てて口を離した。
――再度蹴られ、俺の体は宙を舞う。
呼吸が詰まった。
地に落ちた身体に、力が入らない。
揺れる視界で、震える体を必死に起こす。
木に前足をかける。
爪が上手く木に引っかからない。
ずるっ。
腰を上げた後ろ足が滑り落ちた。
木に引っ掛けた前足の爪がぐっと食い込む。
「……っ」
昨日は軽々と登れたはずだ。
なのに、どうして今日はこんなに体が重い。
再び後ろ足を幹に乗せ、踏ん張った。
木の上から下を見下ろしつつ、少しでも上へと登っていく。
一人。
二人。
そして三人、四人……。
――数は全部で六人。
全員、大人の男だ。
怪我人の心配をする者に、辺りを見回す者。
慌ただしく何か会話をしているが、上手く聞き取れない。
どうやら俺たちが普段使っている言語とはまた違うものらしい。
ゆっくりと、更に上へと登っていく。
少しでも離れられるように。
少しでも見えなくなるように。
細い枝に足をかけ、葉が落ちる。
一人と目が合った。
――その指が、ゆっくりと俺を指す。




