第9話「灰色の雪と閉ざされた扉」
あの日、彼が吹雪の中に消えてから、公爵邸はこれまで以上に重苦しい沈黙に包まれた。
クロードは王宮の執務室に泊まり込むようになり、屋敷に戻ってくるのは数日に一度、深夜のわずかな時間だけになった。
顔を合わせることはおろか、靴音すら耳にする機会がない。
リリアーナは広すぎる自室の窓辺で、何日も降り続く灰色の雪を見つめていた。
温室での出来事が、彼の心を決定的に遠ざけてしまったことは明らかだった。
『あの花』の存在を知っているとほのめかしたことで、彼は彼女の記憶が戻りつつあると確信したに違いない。
罪悪感から逃げるように屋敷を空ける彼の姿が、容易に想像できた。
冷たい窓ガラスに額を押し当てると、その鋭い冷気が皮膚の表面からゆっくりと体温を奪っていく。
胸の奥で渦巻く感情は、悲しみよりも、行き場のない焦燥感に近かった。
彼が愛しているのは、十年前の事故で失われた「かつてのリリアーナ」という幻影だ。
今の自分は、その幻影に寄り添うための空っぽの器に過ぎない。
そう頭では理解していても、彼の指先の温度や、あの不器用な庇護の記憶が、今の彼女の心を強く縛り付けて離さない。
『君は、私に何を求めている』
苦しげに歪んだ彼の表情と、震える声が耳の奥で蘇る。
彼自身もまた、過去の贖罪と現在の妻との狭間で引き裂かれているのではないだろうか。
逃げ出したいのは彼ではなく、自分の方なのかもしれない。
これ以上、彼の痛みをえぐり続けるくらいなら、すべてを終わらせて実家へ帰るべきではないのか。
しかし、あの針葉樹と白檀の香りが鼻をかすめるたび、その決意は音を立てて崩れ去る。
夕刻になり、メイドが銀のトレイに乗せた簡素な食事を運んできた。
リリアーナは食欲がないと首を振り、トレイをそのまま下げさせる。
部屋の明かりもつけず、暖炉の火だけが赤々と燃える空間で、彼女はふと立ち上がった。
このまま待ち続けていても、冷たい壁が厚くなるだけだ。
彼が逃げているのなら、こちらから踏み込むしかない。
たとえそれが、互いを深く傷つける結果になるとしても、これ以上曖昧な距離のまま生殺しにされるのは耐えられなかった。
厚手のショールを肩に掛け、リリアーナは静かに部屋を出た。
廊下はしんと静まり返り、冷たい空気が足元を這い上がってくる。
彼女が向かったのは、図書室ではなく、西翼の奥にあるクロードの執務室だった。
普段は家令が厳重に管理しており、リリアーナが近づくことは許されていない領域だ。
しかし今夜は、家令の姿も見当たらなかった。
重厚なオーク材の扉の前で立ち止まり、彼女は小さく深呼吸をする。
ノックをしようと手を上げたが、扉はわずかに隙間を開けていた。
隙間から漏れる微かな灯りと、羊皮紙が擦れる乾いた音が耳に届く。
彼がいる。
数日ぶりに戻り、またひとりで何かを抱え込んでいるのだ。
リリアーナは震える手で扉を押し開けた。
部屋の中は、冷たい空気が淀んでいた。
暖炉に火は入っておらず、卓上の燭台の炎だけが、彼の顔の輪郭をぼんやりと照らしている。
クロードは書類の山に埋もれるようにして椅子に深く腰掛け、両手で顔を覆っていた。
王宮の正装のまま、ネクタイは無造作に緩められている。
威厳は完全に失われ、ただの疲れ果てた男の姿がそこにあった。
扉が開く音に気づいたのか、彼がゆっくりと顔を上げる。
疲労で隈の落ちた琥珀色の瞳が、彼女の姿を捉えて驚愕に見開かれた。
「……なぜ、ここにいる」
かすれた声が、静寂の部屋に落ちる。
リリアーナは部屋の中へ一歩踏み出し、扉を背にして立った。
もう引き返すことはできない。
「お話があります。ずっと、避けておられましたから」
「話すことなど何もない。部屋へ戻れ」
クロードは書類から目を逸らし、再び冷たい仮面を被ろうとした。
しかし、その声には以前のような鋭さがなく、どこか怯えのような響きが混ざっていた。
リリアーナは彼の言葉を無視し、執務机の前まで歩み寄る。
「温室の花のことです。あの花が、あなたの記憶にあるものだということはわかっています」
その言葉が落ちた瞬間、クロードの肩がびくりと硬直した。
彼は机の上のペンをきつく握りしめ、指の関節が白くなる。
「……何を、思い出している」
「すべてです。崖の上の青い花。私を庇おうとした、ルカという少年のこと」
沈黙が降りた。
燭台の炎が微かに揺れ、二人の間に落ちる影の形を変える。
クロードはゆっくりと立ち上がり、彼女から目を逸らしたまま、窓際へと歩いていった。
背を向けた彼の身体が、かすかに震えているのがわかる。
「そうか。ならば、私がいかに愚かで罪深い人間であるか、理解したはずだ」
振り絞るような声だった。
「私は君の人生を奪った。君の記憶を消し去り、その上、自らの罪悪感を和らげるために、没落しかけた君の家を盾にして妻に迎えた。すべては私の身勝手な贖罪だ。君を愛するつもりがないと言ったのも、私にはその資格がないからだ。記憶を取り戻したのなら、私を憎むがいい。明日には離縁の手続きを……」
「違います!」
リリアーナの叫びが、彼の言葉を遮った。
彼女は自分の声がこれほど大きく、感情的に響くことに自分自身でも驚いていた。
クロードが振り返り、呆然とした表情で彼女を見つめる。
リリアーナは両手でショールをきつく握りしめ、目からあふれそうになる涙を必死に堪えながら彼を睨みつけた。
「私が求めているのは、そんな謝罪ではありません。私が知りたいのは……」
言葉が喉に詰まる。
過去の幻影を愛している彼に、今の自分を見てほしいと乞う惨めさ。
それでも、伝えなければこの冷たい関係は終わってしまう。
「私が知りたいのは、今のあなたです。過去の罪滅ぼしではなく、今の私をどう思っているのか。それだけを、聞かせてください」
彼女の問いかけに、クロードは言葉を失った。
琥珀色の瞳が激しく揺れ動き、何かを言おうとして唇が開かれるが、音にはならない。
二人の間にある数歩の距離が、底なしの暗い谷のように深く広がっていた。
◆ ◆ ◆
執務室での対峙から一夜が明け、リリアーナは自室のベッドでぼんやりと天井の模様をなぞっていた。
昨夜、クロードは彼女の問いに答えることなく、ただ「疲れた。今日はもう休め」とだけ言い残して部屋を出て行った。
決定的な言葉を避ける彼の態度が、答えを雄弁に物語っているように思えた。
彼の中には、過去の罪悪感しかないのだ。
今のリリアーナに対する感情など、最初から存在しなかった。
その事実を突きつけられたことで、胸の奥で燻っていた微かな希望の火が、音を立てて消え去っていくのを感じた。
重い体を起こし、窓の外へ目を向ける。
みぞれは夜半には雪に変わり、公爵邸の庭園を一面の銀世界へと変えていた。
その純白の景色の中で、唯一色彩を放っている場所がある。
巨大なガラスの温室だった。
リリアーナは薄手のドレスに着替え、誰にも気づかれないように裏庭へと向かった。
雪を靴で踏みしめるたび、キュッという乾いた音が響く。
冷たい取っ手を押し下げて温室の中へ入ると、むせ返るような植物の匂いが彼女を包み込んだ。
この場所は、彼が過去の自分への贖罪として用意したもの。
そうだとわかっていても、ここで土に触れているときだけは、心が静まった。
作業台の前に立ち、棚の奥から琥珀色の小瓶を取り出す。
彼から漂っていた、あの針葉樹と白檀の香りを再現した香水。
栓を抜くと、鋭く甘い香りが周囲の空気に溶け出していく。
リリアーナはその香りを深く吸い込み、ゆっくりと目を閉じた。
記憶の中のルカではなく、彼が夜会で自分を庇ってくれたときの、あの不器用で確かな体温の記憶だけを反芻する。
私は、過去の彼ではなく、今の彼に惹かれていたのだ。
冷たい契約と偽りの関係の中で、少しずつ見せてくれた彼本来の優しさに。
それに気づいたときにはもう、すべてが手遅れになっていた。
リリアーナは小瓶を固く握りしめ、作業台に突っ伏して声を殺して泣いた。
温室の暖かい空気が、彼女の震える肩を無力に包み込んでいる。
そのとき、背後で重い真鍮の扉が開く音がした。
振り返ることもできず、リリアーナは涙を拭うことすら忘れて固まる。
ゆっくりと近づいてくる、雪を払う硬い靴音。
それが彼女のすぐ後ろで止まり、深い吐息が頭上から降ってきた。
「……泣いているのか」
低い、それでいてかつてないほどに微かな熱を帯びた声だった。




