第10話「融解する氷と熱を帯びた指先」
頭上から降ってきた声に、リリアーナは弾かれたように顔を上げた。
涙でにじむ視界の先に、雪でわずかに髪を濡らしたクロードが立っている。
王宮の執務室で見せたような疲弊した姿ではなく、普段の整えられた服装に戻っていたが、そのネクタイは少し乱れていた。
彼の視線は、リリアーナの涙で濡れた頬から、彼女の手元にある琥珀色の小瓶へとゆっくりと移動する。
「その香りは……」
クロードが低く呟き、片手を伸ばしかけて中空で止めた。
リリアーナは慌てて小瓶を背後に隠し、手の甲で乱暴に目元を拭った。
「申し訳ありません、見苦しいところを。ここは私ひとりの場所だと思っておりましたので」
声が震えるのを止められない。
昨夜の冷たい拒絶の後で、彼がどのような意図を持ってこの温室に現れたのか見当もつかない。
クロードは伸ばしかけた手をゆっくりと下ろし、作業台の前に立つ彼女を見下ろした。
金褐色の瞳に浮かんでいるのは、いつもの氷のような無機質さではなく、痛々しいほどのためらいだった。
「昨夜は……すまなかった」
彼の口から出た謝罪の言葉に、リリアーナは耳を疑った。
冷酷な公爵が、自分の妻に対して頭を下げるなど、あり得ないことだったからだ。
「逃げるように立ち去った私の不甲斐なさを、許してほしい。君に真実を突きつけられ、どう答えるべきかわからなかった」
クロードはそう言うと、リリアーナから数歩分の距離を取り、青々と茂る植物の間に視線を泳がせた。
真っ直ぐに彼女を見るのが怖いとでも言うように。
「私が君をこの屋敷に迎えたのは、確かに過去の罪滅ぼしのためだった。十年もの間、私はあの崖から落ちていく君の姿を毎晩夢に見てきた。君の家が借金で没落すると聞いたとき、権力を使ってでも手元に置き、生涯かけて守り抜くことだけが私の義務だと思った」
彼の声は低く、しかし一言一言を噛み締めるように重かった。
「だが、実際に君がこの屋敷にやって来てからの日々は、私の計算をすべて狂わせた」
クロードが再びリリアーナの方へ向き直る。
その瞳には、隠しきれない熱情と自己嫌悪が複雑に絡み合っていた。
「私の冷たい言葉にも屈せず、この温室で土にまみれて笑う君の姿。王宮の夜会で、他の貴族から見下されても毅然としていた横顔。そして何より……」
彼が一歩、また一歩とリリアーナに近づく。
その靴音が、温室の土を柔らかく踏みしめる音が、彼女の心臓の鼓動と完全に重なり合う。
「私のような人間のために、その香りを調合し、気遣ってくれた君の不器用な優しさ。私はいつの間にか、過去の君の幻影ではなく、目の前にいる『今の君』に惹かれていた。どうしようもなく、狂おしいほどに」
リリアーナは息を呑み、作業台の縁をきつく握りしめた。
彼の口から紡がれる言葉が、あまりにも信じがたくて、頭の芯が痺れるような感覚に襲われる。
「愛するつもりはないと突き放したのは、私自身への戒めだった。君を不幸に陥れた張本人が、あまつさえ君を女性として愛することなど許されるはずがない。記憶が戻れば、君は必ず私を拒絶する。そうなる前に、自ら壁を作り、君を遠ざけておかなければ、私自身が耐えられなかったんだ」
クロードがリリアーナの目の前で立ち止まる。
その距離は、昨夜の執務室で開いていた果てしない距離とは違い、ほんのわずかな隙間しかなかった。
彼の手がゆっくりと上がり、今度は途中で止まることなく、リリアーナの涙で濡れた頬に触れた。
驚くほど熱い指先だった。
氷の彫像のようだった彼が、内側にこれほどの熱を隠し持っていたことに、リリアーナの胸の奥が激しく波打つ。
「君は、私に今の気持ちを聞いたな。……私は、君を愛している。過去の負い目など関係なく、ただのひとりの男として、今のリリアーナ・ヴァルデットという女性を愛している」
絞り出すような、痛みを伴う告白だった。
彼の親指が、頬に伝わる涙の跡をそっと拭う。
その動きは、十年前の無邪気な少年ルカのものではなく、数々の後悔を抱えながら生きてきた一人の大人の男のものだった。
リリアーナは、彼の手の温もりにすがりつくように、自分の手をその上に重ねた。
冷え切っていた彼女の指先が、彼の熱に溶かされていく。
「……ずるいです、旦那様」
声はまだ微かに震えていたが、そこにはもう悲しみはなかった。
「私だって、同じです。最初は恐ろしい人だと思っていました。でも、あなたが密かにまとってくれていたあの香りに気づいたときから、ずっと……私の方こそ、今のあなたに惹かれていたんです」
クロードの瞳が見開かれ、呼吸が止まったのがわかった。
彼女の告白を信じられないというように、彼の手が微かに震える。
「記憶の中のルカではなく、私を不器用に守ってくれた、エヴァリントン公爵であるあなたのことが……」
言い終わるよりも早く、クロードの腕がリリアーナの腰を引き寄せ、強く抱きしめた。
肺の空気が押し出されるほどの強い力。
彼の顔が彼女の首筋に埋められ、深い息遣いと、針葉樹と白檀の香りがリリアーナの全身を包み込む。
それは、彼女が調合した香水ではなく、彼自身の肌から立ち昇る、生々しい熱を帯びた本来の香りだった。
温室の湿度と入り混じり、むせ返るほどに濃厚な空気が二人を隔てるものをすべて溶かしていく。
リリアーナは彼の広い背中に腕を回し、そのシャツの布地をきつく握りしめた。
十年という長い歳月と、冷たい契約という分厚い氷が、今この瞬間、完全に融解し崩れ落ちていくのを彼女は確かに感じていた。
ガラス屋根に降り積もる雪の音も、今はもう二人の鼓動の重なりにかき消され、遠い世界のことのように思えた。




