第11話「夜明けの静寂とほどけた髪」
温室での告白から一夜が明けた。
エヴァリントン公爵邸の朝は、今までと変わらぬ静けさの中にあったが、空気の質はまるで違っていた。
リリアーナは自室のベッドで目を覚まし、差し込む淡い光に目を細めた。
枕元には、彼が執務室へ向かう前にそっと置いていったのか、一輪の白い月下香が添えられていた。
昨日の夕刻、温室の中で強く抱きしめられたときの熱が、まだ肌の奥で微かに脈打っているような気がする。
互いの本心を打ち明け合い、十年間の誤解とすれ違いが雪解けのように流れていった後、クロードは彼女を自室まで送り届け、ただ額に短く唇を落として立ち去った。
急激に距離を詰めることを恐れるような、ひどく臆病で優しい口づけだった。
リリアーナはベッドから身を起こし、手元の月下香をそっと指先でなでた。
甘く重い香りが、冷たい朝の空気に微かに溶け出している。
今までお飾りの妻として過ごしてきたこの部屋が、今日はなぜか違って見えた。
身支度を整えるため、彼女は鏡台の前に座り、メイドが編み込んでくれた複雑な髪型をゆっくりと解き始めた。
公爵夫人としての威厳を保つための重い結い髪ではなく、今はただ、自然な自分でいたかった。
銀のヘアピンを一つずつ抜き取ると、波打つ亜麻色の髪が肩から背中へと柔らかく流れ落ちる。
薄手の朝用のドレスに着替え、彼女は食堂へと向かった。
一階へ降りると、すでにクロードが長テーブルの席についていた。
いつもは彼が一番遠い上座に座り、彼女は反対側の端に座るのが常だった。
しかし今日、彼が座っているのは、彼女の席のすぐ隣だった。
リリアーナが食堂に入るのを見ると、彼は手元の新聞を置き、ゆっくりと立ち上がった。
「おはよう、リリアーナ」
その低く落ち着いた声で、名前を呼ばれたのは初めてだった。
契約で縛られていた間は、常に『君』か『妻』としか呼ばれていなかった。
自分の名前が、彼の唇からこれほど温かい響きを持って紡がれることに、リリアーナの頬が熱くなる。
「おはようございます、クロード様」
彼女もまた、初めて彼の名前を呼んだ。
クロードの金褐色の瞳がわずかに見開かれ、そして、今まで一度も見せたことのない、不器用で柔らかな笑みがその口元に浮かんだ。
彫像のように冷たかった彼の表情が、血の通った一人の男性のものへと変わった瞬間だった。
彼はリリアーナの椅子を引き、彼女が座るのを待ってから自身も腰を下ろした。
二人の距離は、手を伸ばせばすぐに触れられるほど近い。
給仕が湯気を立てる紅茶と焼き立てのパンを運んでくるが、今までのように緊張で喉が塞がるようなことはなかった。
「その髪」
クロードが紅茶のカップを持ち上げながら、リリアーナの肩に流れる髪に視線を向けた。
「よく似合っている。王宮の夜会のような重い装いよりも、君にはその方が合っていると思う」
「ありがとうございます。今日は、少し楽な格好でいたくて」
リリアーナがはにかみながら答えると、クロードはカップを置き、彼女の髪の毛先にそっと指を触れた。
ほんの一瞬の接触。
しかし、その指先の温度は、昨日の温室での記憶を鮮明に呼び起こすのに十分だった。
「これからは、この屋敷の中で無理に取り繕う必要はない。君が一番安らげるように過ごしてほしい」
彼の言葉には、今までのような命令の響きはなく、ただ純粋な気遣いだけが込められていた。
食事が進むにつれ、二人は少しずつ言葉を交わし始めた。
それは、領地の天候のことであったり、温室の植物の成長具合であったり、ごく些細で他愛のない話題ばかりだった。
しかし、その何でもない会話のやり取りこそが、彼らが今までずっと渇望してきた「普通の夫婦」としての時間だった。
時折視線が交差するたび、クロードは目を伏せ、リリアーナは微笑みを返す。
十年間の空白を埋めるにはまだ時間はかかるかもしれないが、もう見えない壁に阻まれることはない。
冬の朝の澄んだ光が、長テーブルに並んで座る二人の肩を優しく照らしていた。
◆ ◆ ◆
食後、クロードは王宮へ出仕するためエントランスへと向かった。
リリアーナも彼を見送るために、その背中を追う。
分厚いオーク材の扉の前で、彼が立ち止まって振り返った。
黒い外套を羽織った彼の姿は、外の厳しい寒さに立ち向かう公爵としての威厳を取り戻している。
「今日は少し帰りが遅くなるかもしれない。夕食は先に済ませておいてくれ」
「わかりました。お気をつけて」
リリアーナが丁寧に頭を下げると、クロードは数秒間ためらうように立ち尽くしていたが、やがて一歩だけ彼女に近づいた。
そして、大きな手が彼女の頬をそっと包み込む。
親指の腹が、肌の上を滑るように優しくなでた。
「……行ってくる」
低い声が耳元に落ち、彼の唇がリリアーナの額に触れる。
今朝のベッドでの口づけとは違う、確かな熱を持った触れ方だった。
リリアーナは目を閉じ、彼のまとう針葉樹の香りの中に身を委ねた。
彼が馬車に乗り込み、車輪の音が石畳の向こうへと消えていくまで、彼女はその場に立ち尽くし、頬に残る彼の体温の余韻を大切に反芻していた。




