第12話「古の手記と誓いの炎」
クロードが王宮へ向かった後、リリアーナは再び図書室へと足を運んでいた。
二階の回廊の奥、植物学の書架に隠されていたあの日記帳。
そこに挟まれていた青い花の栞と、彼の手書きの誓いを見たことが、すべての真実を知るきっかけだった。
互いの心が通じ合った今、あの手記をもう一度きちんと読んでおきたいという思いが彼女を動かしていた。
静まり返った回廊を進み、埃の積もった棚の奥から革張りの手記を引き出す。
留め金を外し、ページを開く。
青い花の栞が挟まれていたページから先にも、彼の苦悩の軌跡がインクのにじみとともに綴られていた。
『彼女の記憶が戻らないと告げられた日、私は自分の無力を呪った。私が彼女の過去を奪ったのだ。この手で彼女を崖から突き落としたも同然だ』
『西の領地にある古い屋敷を手放し、私は王都で公爵としての責務を全うする道を選んだ。権力を手に入れなければ、没落していく彼女の生家を支えることはできない。いつか彼女を私の妻として迎えるためだけに、私は感情を殺す』
『今日、彼女と婚姻の契約を交わした。氷のように冷たい私の言葉を聞いて、彼女はわずかに震えていた。その姿を見るのがどれほど苦しかったか。抱きしめて、ルカだと名乗りたかった。だが、それは許されない。私はただ、彼女を安全な硝子の箱の中で守り続ける義務がある』
ページをめくるたび、彼がどれほどの孤独と罪悪感を抱えながらこの十年を生きてきたのかが、痛いほどに伝わってくる。
冷徹な公爵という仮面の下で、彼は血を流し続けていたのだ。
最後のページには、最近書かれたと思われる真新しいインクの跡があった。
『温室で彼女が笑った。その笑顔は、かつての私の知る少女のものではなく、ひとりの美しい女性のものだった。私が用意した香水をまとい、私を気遣ってくれる。私は彼女を愛してしまった。過去の贖罪という言い訳が通じないほどに、深く』
そこで文章は途切れていた。
リリアーナは手記を胸に抱きしめ、深く息を吐き出した。
もう、この手記に悲しい言葉が綴られることはない。
彼を縛り付けていた過去の鎖は、昨日、彼自身の言葉と体温によって断ち切られたのだから。
彼女は手記と青い花の栞を持ち、一階の執務室へと向かった。
夕刻になり、空が深い群青色に染まり始めた頃、クロードが予想よりも早く屋敷に戻ってきた。
執務室で彼を待っていたリリアーナは、足音で彼が近づいてくるのに気づき、暖炉の前に立ち上がった。
扉が開き、少し疲れた様子の彼が部屋に入ってくる。
リリアーナの姿を見ると、彼の表情がふっと緩んだ。
「ただいま戻った。ここで待っていたのか」
「おかえりなさい。……お渡ししたいものがありまして」
リリアーナは背中に隠し持っていた革張りの手記を、彼に向かって差し出した。
それを見た瞬間、クロードの足が止まり、顔からさっと血の気が引くのがわかった。
「それは……」
「図書室で見つけました。あなたがこれを隠していたことも、この中に何が書かれているのかも、すべて知っています」
クロードは手記を受け取ろうとせず、ただ痛みを堪えるように目を伏せた。
「……私の、見苦しい執着の痕跡だ」
「いいえ。これは、あなたが私をどれほど大切に思ってくれていたかという、愛の記録です」
リリアーナは彼の手を取り、その手のひらの上に手記を置いた。
「もう、過去の罪に囚われる必要はありません。あなたは私を守り抜いてくれた。そして今、私はあなたと共にここにいます」
彼女は手記から青い花の栞を抜き取り、残った革張りの本を暖炉の炎の中へと投じた。
乾いた紙が火を噴き、パチパチという音を立てて燃え上がり始める。
クロードが驚いて暖炉の方へ身を乗り出したが、リリアーナは彼の手をきつく握りしめて引き留めた。
「過去のあなたは、この炎と一緒に灰にしてしまいます。私が欲しいのは、今ここにいる『クロード様』だけですから」
暖炉の赤い光が、彼女の決意に満ちた横顔を照らしている。
クロードは燃えゆく手記から視線を外し、目の前に立つリリアーナを見つめた。
その金褐色の瞳に、熱いものが込み上げているのがわかる。
彼は言葉を発する代わりに、彼女の身体を強く抱き寄せた。
炎の熱よりも熱い彼の体温が、ドレス越しに伝わってくる。
「……君には、敵わないな」
髪に埋もれるようにして落とされた声は、微かに震えていた。
リリアーナの手に残された青い花の栞だけが、二人の十年間を繋ぐ唯一の証として、彼女の指先で静かに色褪せた美しさを保っていた。
炎の爆ぜる音が執務室に響く中、二人はただ無言で互いの存在を確かめ合うように、長い時間抱きしめ合っていた。




