第8話「硝子の檻と触れられない指先」
数日後、王都は本格的な冬の到来を告げる冷たいみぞれに見舞われていた。
灰色の空から落ちる半ば凍った雨粒が、温室の巨大なガラス屋根を絶え間なく叩き続けている。
外の厳しい寒さとは対照的に、温室の内部は高く保たれた湿度と温度によって、息苦しいほどの植物の生命力に満ちていた。
リリアーナは袖をまくり上げ、土のついたエプロン姿でゼラニウムの鉢を植え替えていた。
指先が湿った黒土にまみれ、爪の間に泥が入り込んでも気にならない。
ここにいるときだけは、公爵夫人という窮屈な鎧を脱ぎ捨て、複雑に絡み合った感情の糸から逃れることができた。
土の匂いとハーブの香気を胸いっぱいに吸い込みながら、彼女は黙々と手を動かす。
そのとき、背後にある重厚な真鍮の扉が軋む音を立てて開いた。
外の冷たい空気が一瞬だけ流れ込み、すぐに見えない熱の壁に遮られて消える。
振り返ると、水滴に濡れた黒いマントを羽織ったクロードが立っていた。
視察の帰りなのか、革のブーツの底には王都の泥がわずかにこびりついている。
リリアーナは驚きで動きを止め、手にしていた小さなスコップを取り落としそうになった。
彼がこの温室に足を踏み入れたのは、彼女が嫁いできてから初めてのことだった。
クロードは入り口でマントを脱ぎ、フックに掛けると、無言のまま色鮮やかな植物の間を歩き始めた。
「旦那様。こんなところへ、どうされたのですか」
リリアーナが慌てて立ち上がり、エプロンで手を拭いながら尋ねる。
彼は振り返らず、目の前にある青々と茂ったシダの葉をガラス細工にでも触れるように見つめていた。
「出先から戻ったついでだ。設備に不具合がないか確認しに来たにすぎない」
声の温度は相変わらず冷え切っていたが、彼の視線は植物の生命力に当てられたように、ほんのわずかに揺らいで見えた。
リリアーナは彼との距離を測りかね、作業台の横に立ったままその背中を見つめる。
彼の肩幅の広さと、長い脚。
記憶の中の少年ルカとは違う、完成された大人の男の造形。
それでも、ほんの少し首を傾ける癖や、植物を見るときの静かな眼差しは、あの頃のままだ。
リリアーナは一歩だけ、彼の方へ足を踏み出した。
「立派な温室を用意していただき、本当に感謝しております。これほど見事な場所は、王宮の植物園にもないのではないでしょうか」
クロードは答えず、ただ次から次へと鉢植えを眺めて回る。
その足が、温室の最奥に置かれたある植物の前で不自然に止まった。
それは、リリアーナが実家から密かに持ち込み、種から育てていた青い小花だった。
まだ蕾もつけていないただの緑の葉の集まりだが、鉢に刺された木札にはその学名が記されている。
十年前、彼が崖のふちで摘み取ろうとした、あの青い花と同種の植物。
クロードの背中が、目に見えて硬直したのがわかった。
「……これは、何だ」
絞り出すような低い声だった。
リリアーナはゆっくりと彼に近づき、その横に立つ。
至近距離で重なる、彼がまとう深い森の香りと、温室の土の匂い。
「私が昔から好きな花です。領地の森の奥にだけ咲く、とても美しい青い花で」
わざとだった。
彼がどう反応するか、残酷な好奇心に突き動かされて言葉を口にした。
クロードは木札から視線を剥がし、リリアーナを見下ろした。
その金褐色の瞳の奥に、激しい動揺と、過去の傷口をえぐられたような痛みが渦巻いている。
「そんな花は知らない。引き抜け。この温室にふさわしくない」
彼は吐き捨てるように言い、背を向けて出口へと向かおうとした。
逃げ出そうとするその後ろ姿に、リリアーナは思わず手を伸ばした。
彼女の泥のついた指先が、彼のシャツの袖を微かに掠める。
「なぜですか。あなたは、この花を知っているはずです」
言ってはいけない言葉だった。
すべてを壊してしまうかもしれない、危うい一線。
クロードはその場に立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
彼の顔には怒りよりも、深い絶望に近い感情が張り付いている。
リリアーナに掴まれた袖を乱暴に振り払い、彼は一歩だけ距離を詰めた。
上から見下ろす威圧感に、リリアーナは後ずさりそうになるが、足を踏ん張って彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「君は、私に何を求めている」
声が微かに震えていた。
冷徹な公爵の仮面がひび割れ、その下にあるルカとしての生々しい感情が漏れ出している。
彼の手がゆっくりと上がり、リリアーナの頬に触れそうになる。
熱を帯びた指先が肌に触れる直前で、彼は何かに気づいたようにハッと息を呑み、その手を力なく下ろした。
触れたいけれど、触れる資格がない。
彼を縛り付ける強烈な自己嫌悪が、その動きから痛いほどに伝わってくる。
「私はただの、あなたの妻です」
リリアーナは泣き出しそうになるのを必死に堪え、声の震えを隠して言った。
昔の私ではなく、今の私を見てほしい。
名前を呼んでほしい。
心の中でどれだけ叫んでも、その言葉が唇からこぼれることはない。
クロードはそれ以上何も言わず、出口に向かって足早に歩き出した。
マントを掴み取り、逃げるようにガラスの扉を開けて吹雪の中へと消えていく。
バタンと重い音を立てて閉まった扉の向こうに、彼の姿はもうなかった。
リリアーナはその場に崩れ落ち、泥のついた手で顔を覆った。
すれ違ってしまった感情の糸は、どちらかが過去を断ち切らない限り、永遠にほどけることはない。
雨音だけが響く硝子の檻の中で、彼女の静かな嗚咽が土の匂いに溶けていった。




