第7話「凍てつく食卓と見えない幻影」
図書室の冷たい床から立ち上がり、自室へ戻ったリリアーナは、夕刻が訪れるまでベッドの縁に腰掛けたまま身動きすらできなかった。
暖炉の火が赤々と燃えているというのに、体の奥底に巣食った芯からの冷えが抜けない。
日記帳に挟まれていた青い花と、インクのにじんだ途切れ途切れの手記。
あの少年ルカが、目の前にいる冷酷なエヴァリントン公爵と同一人物であるという真実。
その事実が、彼女の脳内で何度も反芻され、形を変えて心を締め付けていく。
十年前のあの日、彼が自分に向かって伸ばした絶望に満ちた腕の残像が、まぶたの裏から離れなかった。
メイドが静かにノックの音を響かせ、扉越しに声をかけてきたことで、彼女はようやく顔を上げた。
「奥様。本日は旦那様がお早くお戻りになり、夕食を共にされるとのことです」
その言葉に、リリアーナの肩がびくりと跳ねた。
体調を崩してからこの五日間、彼は一度も姿を見せなかった。
記憶の断片に触れた彼女を警戒し、意図的に距離を置いていたはずだ。
それが突然、同席を求めてきたことの真意が読めない。
リリアーナは鏡の前で乱れた髪を整え、青白くなった頬にわずかに紅を差した。
彼に悟られてはならない。
自分がすべてを思い出し、彼の抱える罪悪感の正体を知ってしまったことを。
もし気づかれれば、彼は今度こそ完全に心を閉ざし、手の届かない場所へ去ってしまうような気がした。
一階の広い食堂には、すでに数え切れないほどの銀食器と豪勢な料理が並べられていた。
天井のシャンデリアが蝋燭の光を反射し、磨き抜かれた長テーブルの表面に眩い筋を作っている。
テーブルの最上座には、漆黒の室内着に身を包んだクロードが静かに腰を下ろしていた。
リリアーナが部屋に入ると、彼は手元のワイングラスから視線を上げ、彼女の顔をじっと見つめた。
金褐色の虹彩が、獲物を値踏みするように細められる。
「顔色が優れないな。まだ寝ていればいいものを」
淡々とした低い声が、広すぎる部屋に響く。
リリアーナはテーブルの反対側の端、彼から遠く離れた席に座り、静かに首を横に振った。
「ご心配をおかけしました。もう熱は下がりましたので」
給仕がスープの皿を運び、静かに後ろへ下がる。
カトラリーが陶器に触れる硬い音だけが、不自然なほどの沈黙を際立たせていた。
リリアーナはスプーンを手に取ったが、喉の奥が塞がったように狭くなり、一口も飲み込むことができない。
顔を上げると、グラスを傾ける彼の長い指先と、形の良い喉仏の動きが視界に入る。
今まで気づかなかったのが不思議なほどだった。
色素の薄い銀糸の髪も、感情を隠すように伏せられる長い睫毛も、記憶の中の少年の面影を色濃く残している。
あんなにも無邪気に笑い、領地の森を駆け回っていた彼が、どうしてこんなにも表情を持たない氷の彫像になってしまったのか。
すべては、自分を守れなかったという自責の念が、彼から感情を奪い去ってしまったからだ。
「食欲がないのなら、無理に付き合う必要はない」
彼女が食事に手をつけていないことに気づき、クロードが冷ややかに言い放った。
リリアーナは慌ててスプーンを置いた。
「申し訳ありません。ただ、少し……旦那様のお顔を見ていただけで」
言ってしまってから、致命的な失言に気づいて息を呑む。
クロードの動きがピタリと止まり、その鋭い視線が真っ直ぐに彼女を射抜いた。
空気が一瞬にして凍りつき、心臓の音が耳の奥でうるさいほどに鳴り響く。
彼はグラスをテーブルに置き、わずかに身を乗り出した。
「私の顔がどうかしたか」
低く這うような声には、明らかな警戒の色が混ざっていた。
リリアーナは膝の上でナプキンをきつく握りしめ、必死に言葉を紡ぎ出す。
「いえ……。お仕事がお忙しいと伺っておりましたので、少しお痩せになったのではないかと」
咄嗟の嘘だった。
クロードはしばらくの間、彼女の表情の裏側を探るように鋭く見つめていたが、やがて興味を失ったように背もたれに体を預けた。
「不要な詮索だ。自分の体調だけを気にかけていればいい」
冷たく突き放す言葉とともに、彼は再びワインを口に運んだ。
リリアーナはうつむき、自分の膝を見つめることしかできなかった。
彼の首元からは、かつて自分が調合した静謐な森の気配と深い甘みが、微かに漂ってきている。
自分を拒絶しながらも、妻の作った香りをまとい続ける矛盾。
それは今の自分への愛情ではなく、過去に傷つけてしまった少女への、悲しい贖罪の儀式なのだ。
『彼女が目覚めるまで、私はここを離れない』
手記に綴られていた狂おしいほどの執着が、彼を縛り付けている。
彼が愛しているのは過去の幻影であり、今のリリアーナはただ、その罪を償うための入れ物でしかない。
真実を知ったことで得たのは、救いではなく、果てのない空虚な隔たりだった。
二人の間にある長いテーブルが、決して埋まることのない断絶の距離を無慈悲に示しているようだった。




