第6話「青い花の栞とほどけた糸」
図書室での出来事から、リリアーナの体調は数日間にわたって優れなかった。
あの蛇の模様を見た瞬間に襲ってきた激しい頭痛と、フラッシュバックのように蘇った少年の声。
微熱が続き、彼女は一日中ベッドの上で過ごすことを余儀なくされた。
その間、クロードが直接部屋を訪れることは一度もなかった。
代わりに、彼の専属の老医師が毎日律儀に往診に訪れ、高価な薬湯がメイドの手によって毎食後に運ばれてきた。
部屋の外で、家令とクロードが小声で何かを話し合っている気配を感じた夜もあったが、扉が開かれることはない。
彼は徹底して距離を置き、リリアーナを過去の残像から遠ざけようとしているようだった。
『何も思い出すな』という、壁に押し付けられたときの切羽詰まった声が、熱に浮かされる頭の中で何度もリフレインしていた。
ようやく熱が下がり、ひとりで歩けるまでに回復したのは、五日目の朝だった。
メイドの制止を振り切り、リリアーナは薄手のガウンを羽織って図書室へと向かった。
あのとき床に散乱していた本は、すでに誰かの手によって綺麗に片付けられている。
しかし、彼女の目的は別の場所にあった。
あの日、クロードの袖が引っかかったという回廊の奥の書架。
そこには、彼が何かを探していた痕跡が残っているはずだ。
静まり返った二階の回廊を進み、埃の積もった棚の前に立つ。
彼が引き出そうとしていたのは、植物学の古い文献の裏に隠されるように置かれていた、革表紙の分厚い日記帳のような代物だった。
リリアーナは震える指先でそれに触れ、ゆっくりと引き抜く。
留め金は外れており、中には古い羊皮紙が束ねられていた。
表紙を開くと、そこには何も書かれていない空白のページが続いている。
しかし、中盤あたりに差し掛かったとき、ページとページの間に何かが挟まっているのを見つけた。
押し花だった。
鮮やかな青い花びらが、長い年月を経て色褪せながらも、紙の上に静かに横たわっている。
その花を見た瞬間、リリアーナの呼吸が止まった。
記憶の底に沈んでいた霧が、音を立てて晴れていく。
十年前に起きた、馬車の転落事故の本当の理由。
崖っぷちに咲いていたあの青い花を、自分より少し背の高い少年が採ろうとして足を滑らせたのだ。
彼の名前は「ルカ」。
領地の外れにある古い屋敷に身を隠すように暮らしていた、銀色の髪と琥珀色の瞳を持つ少年。
リリアーナは、彼を助けようとして身を乗り出し、そのまま崩れた足場の土ごと崖下へと真っ逆さまに落ちていった。
落ちる瞬間、彼が絶望に満ちた顔で自分に向かって手を伸ばした光景が、脳裏に焼き付いている。
「……ルカ」
かすれた声が、無意識に唇からこぼれ落ちた。
指先が震え、押し花が挟まったページから、一枚の折り畳まれた紙片が滑り落ちる。
床に落ちたそれを拾い上げ、開いてみる。
そこには、若く未熟な筆跡で、しかし力強く書かれた数行の文字があった。
『彼女が目覚めるまで、私はここを離れない。もし彼女が私のことを忘れてしまっても、二度とあんな危険な真似はさせない。私は私の手で、必ず彼女を――』
文章はそこで途切れていた。
そのインクのにじみと、現在の彼が契約書にサインした流麗な筆跡が、リリアーナの頭の中で完全に重なり合う。
冷酷なエヴァリントン公爵クロード。
彼の正体は、幼い頃に身分を隠して領地で過ごしていた初恋の少年、ルカだったのだ。
なぜ彼が、没落寸前のヴァルデット家から自分を妻に迎えたのか。
なぜ、植物を愛する自分のためにあの豪奢な温室を用意したのか。
そしてなぜ、あんなにも冷たい言葉で突き放しながら、過去の記憶が戻ることを恐れていたのか。
すべての行動の裏にある理由が、一本の線となって繋がっていく。
彼は、自分を巻き込んだ事故への激しい罪悪感に苛まれていたのだ。
記憶を取り戻せば、憎まれるに違いない。
そう恐れるがゆえに、あえて冷徹な仮面を被り突き放すことで、遠ざけながらも手元で守り抜こうとしていた。
リリアーナはその場にへたり込み、青い花の栞を両手で包み込むようにして胸に押し当てた。
冷たい契約の裏に隠されていたのは、十年もの間、彼が一人で抱え込み続けてきた狂おしいほどの後悔と、あまりにも不器用な情熱だった。
彼が愛しているのは、今の自分ではない。
自分を庇って傷ついた「過去のリリアーナ」という幻影なのだ。
その事実が、胸の奥を鋭くえぐる。
それでも、彼から漂っていたあの香りの熱と、腰を抱き寄せた手の確かな力強さが、今のリリアーナの心をどうしようもなく惹きつけていた。
窓の外では、冬の鈍色の空から粉雪が舞い始め、ガラスを微かに叩く音だけが図書室に響いていた。
リリアーナはあふれそうになる涙を必死に堪え、震える足で立ち上がる。
彼が恐れている真実を、自分が知ってしまったこと。
それをどう伝えるべきか、いや、伝えるべきではないのか。
すれ違ってしまった感情の糸をどう解きほぐせばいいかわからないまま、彼女は青い花を日記帳に戻し、元の棚の奥へと静かに押し込んだ。




