第5話「書庫の埃と隠された吐息」
夜会での出来事から一週間が過ぎた。
王宮の広間で見せたクロードの庇護は、社交界の風向きを一変させるには十分な威力を発揮していた。
没落貴族と蔑まれていたリリアーナの生家への悪意ある噂は潮を引くように消え去り、代わりにエヴァリントン公爵が新妻を深く寵愛しているという憶測がまことしやかに囁かれるようになっている。
しかし、当事者である二人の日常は、依然として冷え切った静寂の中にあった。
あの日、馬車で屋敷に戻る道中、彼は一度も口を開かなかった。
リリアーナの腰に添えられていた手の温度だけが肌に残り、二人は言葉を交わすことなくそれぞれの部屋へと戻っていった。
あの庇護が、純粋にエヴァリントン家の体面を守るためのものだったのか、それともほんのわずかでも彼女自身を思っての行動だったのか。
尋ねる勇気もなく、リリアーナはただ図書室の片隅で、古びた書物のページを繰ることで時間を潰していた。
公爵邸の東翼に位置する図書室は、二層吹き抜けの広大な空間だった。
床から天井まで届くマホガニー材の書架が迷路のように入り組み、微かなカビと古紙の匂いが空気を重くしている。
リリアーナは螺旋階段を上り、二階の回廊の奥にある植物学の区画にしゃがみ込んでいた。
手には、温室で見かけた見慣れないシダ植物の生態を調べるための分厚い図鑑が握られている。
革張りの表紙を開くと、乾いた紙が擦れる音が静寂に吸い込まれた。
細かい文字の羅列を指でなぞりながら、彼女の思考は本の内容から離れ、またしてもあの夜の彼の琥珀色の瞳へと向かっていく。
香水を身につけてくれていた事実が、どうしても心を乱す。
もし少しでも自分を受け入れてくれているのなら、なぜあんなにも冷たい距離を置き続けるのだろうか。
ため息をついて本を閉じようとしたそのとき、背後の回廊から低い靴音が近づいてくるのに気がついた。
規則正しく、しかしどこか重い足取り。
リリアーナが振り返るよりも早く、書架の陰からクロードが姿を現した。
王宮での激務の合間なのか、今日の彼は上着を羽織らず、白いシャツの襟元をわずかに緩めていた。
普段の完璧に整えられた姿とは違う、ほんの少しだけ隙を見せた装いに、リリアーナの心臓が小さく跳ねる。
彼は回廊の奥にうずくまる彼女を見つけると、歩みを止めた。
「こんな埃っぽい場所に、何用だ」
相変わらずの冷ややかな声だったが、そこには疲労の色がにじんでいる。
リリアーナは慌てて立ち上がり、図鑑を胸元に抱え込んだ。
「温室の植物のことで、少し調べものを……。旦那様こそ、お仕事の最中ではありませんか」
「少し探し物があっただけだ。すぐに戻る」
クロードはそれ以上言葉を交わす気がないかのように、彼女の横を通り抜けて回廊のさらに奥へと進もうとした。
そのとき、彼の袖口が書架から少しはみ出していた古い本の束に引っかかった。
バランスを崩した本の山が、鈍い音を立ててリリアーナの足元へ崩れ落ちる。
舞い上がった細かい埃が、窓から差し込む斜光を白く濁らせた。
リリアーナは思わず咳き込み、目を細める。
「……すまない」
クロードが低くつぶやき、彼女の前で片膝をついた。
長い指が、散乱した本を拾い集め始める。
リリアーナも慌ててしゃがみ込み、彼の手伝いをしようと手を伸ばした。
その瞬間、床に落ちた一冊の古びた詩集の表紙に、彼女の視線が釘付けになった。
色褪せた緑色の革表紙。
そこには、銀の箔押しで奇妙な模様が描かれている。
二匹の蛇が互いの尾を噛み合いながら、無限の円を描いている図案。
それを見た途端、リリアーナの脳裏に、かつてないほど鮮明な映像が閃光のように走った。
暗い部屋。暖炉の炎。
その詩集のページをめくる、少年のかすれた声。
『ルカ。これは何て読むの?』
自分が尋ねると、少年は困ったように笑い、彼女の頭を乱暴になでた。
頭の奥で火花が散るような激しい痛みが走り、リリアーナは図鑑を取り落とす。
喉の奥から小さな悲鳴が漏れ、彼女はその場に崩れ落ちそうになる。
拾い集めていた手を止め、クロードが素早く彼女の腕を掴んだ。
シャツ越しに伝わる彼の体温と、力強い指の感触。
「どうした。顔色が悪いぞ」
切羽詰まった声が耳元に届く。
リリアーナは荒い呼吸を繰り返しながら、痛むこめかみをもう片方の手で押さえた。
「蛇の……表紙が。昔、これと同じ本を……」
「何も思い出すな」
リリアーナの言葉を遮るように、彼の手がさらに強く腕を締め付けた。
見上げると、クロードの顔が至近距離にあった。
琥珀色の瞳が、隠しきれない焦燥と恐怖で揺らいでいる。
彼は散乱した本をそのままに、リリアーナの体を抱え上げるようにして立ち上がらせた。
足元がふらつく彼女の腰を支え、書架の壁へと押し付ける。
退路を断たれ、背中に伝わる冷たい木材の感触と、目の前にある熱い胸板の間に閉じ込められた。
「あの事故の記憶は、君の体を蝕むだけだ。今はただ、休め」
耳元で紡がれる言葉には、命令というよりも懇願に近い響きが混ざっていた。
彼の浅い吐息がリリアーナの髪を揺らし、あの針葉樹と白檀の香りが濃厚に立ち込める。
なぜ、彼が自分の過去の事故を知っているのか。
そしてなぜ、記憶が戻ることをそれほどまでに恐れるのか。
混乱する頭の片隅で、彼が今でも自分が作った香水をつけてくれている事実だけが、奇妙なほどはっきりと輪郭を持っていた。
リリアーナは抵抗することもできず、ただ彼の腕の中で浅い呼吸を繰り返すしかなかった。
図書室の静寂の中、二人の乱れた息遣いだけが、交わることのない感情の行方をたどるように重なり合っていた。




