第4話「冷たい盾と交わる視線」
エヴァリントン公爵邸の空気が、いつもとは違う緊張感に包まれていた。
今夜は王宮で開かれる建国記念の夜会に、リリアーナが公爵夫人として初めて出席する日だった。
自室の姿見の前に立つ彼女は、メイドたちの手によって慎重に着付けられていた。
呼吸が浅くなるほどきつく締め上げられたコルセットの上から、濃紺の重厚なシルクのドレスがまとわれる。
クロードの瞳の色に合わせた琥珀色の宝石が、胸元で冷たい光を放っていた。
普段の木綿のドレスとは違う、鎧のような衣装の重さに、リリアーナは小さく息をつく。
髪は複雑に編み込まれ、銀の髪飾りが添えられた。
鏡の中にいるのは、没落寸前の伯爵令嬢ではなく、まごうことなき公爵夫人だった。
しかし、その表情はどこか青白く、不安の影が色濃く落ちている。
社交界の人間たちが、自分をどのような目で見るか。
貧乏くじを引かされた冷徹な公爵と、その足手まといとなる無知な妻。
そんな陰口が背中に突き刺さる様子が、容易に想像できた。
準備を終えて玄関ホールへ向かうと、すでにクロードが待っていた。
漆黒の正装に身を包んだ彼は、冷気をまとう彫像のように美しく、そして人を寄せ付けない威圧感を放っている。
リリアーナが階段を下りていくと、彼は何も言わずに視線を向けた。
琥珀色の瞳が上から下へと彼女をなぞり、わずかに目を伏せる。
「行くぞ」
ただそれだけを言い残し、彼は背を向けてエントランスの扉へと歩き出した。
差し出されることのない腕に戸惑いながらも、リリアーナはドレスの裾を持ち上げ、慌ててその後を追う。
外には紋章が刻まれた華やかな馬車が待機していた。
従者に手を取られて乗り込むと、クロードはすでに向かいの席に深く腰を下ろしている。
扉が閉ざされ、車内は二人だけの密室となった。
車輪が動き出し、馬車が王宮へと続く石畳を滑り始める。
窓の外を流れるガス灯の光が、等間隔で車内を照らし、また暗闇へと引き戻していく。
沈黙が降り積もる中、リリアーナは膝の上で両手をきつく組み合わせていた。
視線を上げることもできず、ただ揺れる馬車の振動に身を任せている。
そのとき、微かな空気の流れに乗って、ある香りが彼女の鼻腔をくすぐった。
冷たい雨に濡れた針葉樹の鋭さと、白檀の甘い残り香。
それは三日前、リリアーナ自身が温室で調合し、執務室に置いてもらったあの琥珀色の小瓶の香りだった。
はっとして顔を上げると、窓の外を眺めているクロードの横顔が目に入った。
彼の首筋から、確かにその匂いが漂っている。
捨てられたと思っていた。
見向きもされないと諦めていた。
それなのに、彼は自らの肌に、彼女が作った香水をまとっていたのだ。
驚きで呼吸が止まりそうになる。
リリアーナの視線に気づいたのか、クロードがゆっくりと顔を向けた。
流れる光が彼の冷たい表情を照らし出すが、その瞳の奥には読めない感情が静かに沈殿している。
「……何か言いたいことでも?」
「あ、いえ……その」
動揺のあまり声が裏返り、リリアーナは慌てて視線を落とした。
胸の奥で早鐘が鳴り始め、コルセットの苦しさとは違う熱が体を駆け巡る。
『君を愛するつもりはない』という冷酷な言葉と、自作の香水を身につけて夜会に臨む彼の行動。
その矛盾に、リリアーナの心臓が激しく波打つ。
王宮に到着し、大広間へと足を踏み入れると、まばゆい光と音の波が押し寄せてきた。
巨大なシャンデリアが眩い光を放ち、オーケストラの優雅な旋律が空間を満たしている。
色とりどりのドレスと軍服が交錯し、香水と酒の匂いが混ざり合って空気を重くしていた。
エヴァリントン公爵夫妻の登場に、広間のざわめきが一瞬だけ引き、数え切れないほどの視線が一斉に二人に注がれる。
値踏みするような目、嘲笑を含んだ口元、好奇の視線。
リリアーナは無意識に後ずさりそうになったが、隣を歩くクロードがかすかに歩みを遅くし、彼女の歩幅に合わせた。
その背中の大きさが、なぜか少しだけ頼もしく感じられる。
広間の中央まで進むと、すぐに高位の貴族たちがクロードを取り囲んだ。
政治的な駆け引きや領地の問題など、リリアーナには理解できない会話が交わされ始める。
クロードは冷ややかな態度を崩さぬまま、的確に言葉を返していく。
その輪の中に彼女の居場所はなく、徐々に押し出されるようにして壁際へと後退した。
手持ち無沙汰にグラスを一つ取り、柱の陰で小さくなっていると、扇子で口元を隠した数人の令嬢たちが近づいてきた。
「ごきげんよう、エヴァリントン公爵夫人」
甘ったるく、しかし棘のある声だった。
リリアーナは慌ててグラスを持ち直し、丁寧にお辞儀をする。
「ごきげんよう。本日はお日柄も良く……」
「ええ、本当に。それにしても、ヴァルデット家の方々は随分と運がよろしいのですね。あのような借金を抱えながら、公爵閣下のお情けにすがりつくことができるのですから。まったくですわ。公爵閣下も、なぜあのような没落の家からお飾りの妻を迎えられたのか。もっと相応しい方がいくらでもいらしたでしょうに」
扇子の陰から漏れるくすくすとした笑い声が、耳の奥を直接引っ掻くように響く。
リリアーナは血の気が引いていくのを感じた。
言い返す言葉が見つからない。
彼女たちが言っていることは、紛れもない事実だったからだ。
自分がこの場所にふさわしくないことは、誰よりも自分が一番よく知っている。
ドレスの布地を握りしめ、ただうつむいて嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
視界がわずかににじみ、惨めさに胸が押しつぶされそうになったそのときだった。
「私の妻に、何か用か」
周囲の空気を瞬時に凍らせるような、極寒の低い声が響いた。
令嬢たちが弾かれたように振り返る。
そこには、グラスを手にしたクロードが立っていた。
彼の全身から放たれる威圧感に、令嬢たちの顔色が一瞬にして蒼白になる。
「こ、公爵閣下……いえ、私どもはただ、奥様にご挨拶を……」
「そうか。だが、君たちの挨拶は少々耳障りだ。これ以上私の妻を煩わせるつもりなら、明日以降の君たちの生家の処遇について、深く再考しなければならない」
氷の刃のような冷徹な言葉だった。
令嬢たちは言葉を失い、恐怖で震えながら、逃げるようにその場から立ち去っていく。
柱の陰に取り残されたリリアーナは、呆然としてクロードを見上げた。
彼は冷ややかな視線を逃げていく背中に向けた後、ゆっくりとリリアーナの方へ振り返る。
そして、無言のまま彼女の腰に手を回し、自分の方へと引き寄せた。
分厚いドレス越しにも伝わってくる、彼の手の確かな温度。
至近距離に引き寄せられたことで、あの針葉樹と白檀の香りがより強くリリアーナを包み込む。
「帰り道での馬車の中で」
耳元に落ちた低い声に、リリアーナの肩が小さく跳ねた。
「君は私の妻だ。誰にも見下させるつもりはない」
言葉自体は淡々として感情の色を持たなかったが、腰に添えられた手の力強さと、間近で重なる彼の体温が、リリアーナの奥底にある何かを激しく揺さぶった。
見上げれば、シャンデリアの光を反射する琥珀色の瞳が、彼女だけを静かに映し出している。
冷たい契約と拒絶の裏側に隠された、彼なりの不器用な庇護。
リリアーナは息を止め、ただその香りの中に深く沈み込んでいくのを感じていた。




