第2話「ガラスの箱と隠された熱」
結婚から数日が経過したが、エヴァリントン公爵邸は相変わらず死んだように静まり返っていた。
クロードは早朝から王宮に出仕し、夜遅くまで戻らない。
夕食の席に彼の姿はなく、リリアーナは広すぎる食堂で一人、冷めていく食事を口に運ぶ日々を送っていた。
顔を合わせることがないのだから、言葉を交わす機会などあるはずもない。
契約通り、互いに干渉しない日々が淡々と過ぎていく。
使用人たちは礼儀正しいが、どこかよそよそしく、公爵の命令にのみ忠実に動く機械のようだった。
リリアーナは暇を持て余し、屋敷の構造を把握するためという名目で、あてどなく邸内や庭園を散策するようになっていた。
その日の午後、彼女は屋敷の裏手に広がる広大な庭園の奥へと足を踏み入れていた。
手入れの行き届いた生垣の迷路を抜けた先に、それは唐突に姿を現した。
陽の光を反射してきらきらと輝く、巨大なガラス張りの温室だった。
鉄の骨組みには繊細な装飾が施され、灰色の石材ばかりが目立つ公爵邸にあって、そこだけが異質な美しさを放っている。
リリアーナは吸い寄せられるように近づき、重い真鍮の取っ手に手をかけた。
扉を押し開けた瞬間、もわっとした湿気と暖かな空気が彼女の全身を包み込む。
そして、鼻腔をくすぐる濃厚で複雑な香りの波に、彼女は思わず目を見開いた。
レモンバームの爽やかな柑橘系の香り、ローズマリーの鋭い清涼感、そして奥底から漂う月下香の甘く重い匂い。
調香に欠かせない希少な植物たちが、広大な空間を埋め尽くすように青々と葉を茂らせていた。
王都の厳しい冬の寒さを完全に遮断し、一定の温度と湿度が保たれた完璧な環境だった。
土の匂いと植物の生命力に満ちた空気を深く吸い込み、彼女の胸の奥で久しく忘れていた喜びが弾ける。
ドレスの裾が土で汚れるのも構わず、リリアーナは色とりどりの花々やハーブの間に足を踏み入れた。
葉の表面の柔らかな産毛に指先で触れ、そのみずみずしい感触を確かめる。
「奥様、いかがなさいましたか」
背後から声をかけられ、リリアーナははっとして振り返った。
麦わら帽子を手に持った、日焼けした肌の老齢の男が立っている。
庭師のようだったが、その手には剪定用のハサミが握られていた。
「勝手に入ってしまってごめんなさい。あまりに見事な温室だったものだから」
リリアーナが慌てて頭を下げると、庭師は目を丸くした後、人の良さそうな笑みを浮かべて首を横に振った。
「とんでもございません。ここは奥様のために造られた場所なのですから、いつでもお好きなようにお使いください」
「私のために?」
「ええ。旦那様が西の領地から腕利きの職人を集め、昼夜を問わず突貫工事で完成させたのです。奥様が植物の香りを扱うのがお好きだとお聞きになりまして」
その言葉に、リリアーナは言葉を失った。
自分を愛するつもりはないと冷たく言い放ったクロードが、彼女が嫁いでくる前にこれほど大掛かりな準備をしていたという事実に、思考が追いつかない。
契約上の妻の暇つぶしのために用意するには、あまりにも手間と金がかかりすぎている。
温室を満たす色鮮やかな花々と濃厚な香りが、彼の隠された不器用な優しさを物語っていた。
リリアーナは胸の奥が甘く締め付けられるのを感じた。
◆ ◆ ◆
その夜、リリアーナは眠りにつけず、わずかな灯りを頼りに静まり返った廊下を歩いていた。
図書室で借りた本を返すためだったが、足音を忍ばせて歩く彼女の耳に、階段を上ってくる重い足音が届いた。
暗がりの向こうから、銀色の髪を燭台の揺れる炎に照らされたクロードが姿を現す。
深夜に及ぶ激務のせいか、彼の眉間には微かな疲労の色がにじんでいた。
リリアーナは廊下の端に寄り、静かに頭を下げる。
すれ違おうとする彼の足が、彼女の前でピタリと止まった。
「まだ起きていたのか」
低く冷え切った声が、静寂の廊下に響く。
「はい。少し本を読んでおりました。……あの、旦那様」
「何だ」
「今日、庭の奥にある温室を見つけました。素晴らしい植物がたくさんあって……その、私のために用意してくださったと庭師から聞きました。本当にありがとうございます」
リリアーナはドレスの裾を握りしめ、勇気を振り絞って見上げた。
クロードは視線を合わせず、廊下の窓から見える暗い夜空へと目を向けている。
彼の表情は彫像のように硬く、何の感情も読み取れない。
「余計な詮索はするな。あれは公爵夫人として見苦しくない教養を維持するための設備にすぎない。君が暇を持て余して屋敷の空気を乱すよりはマシだと思っただけだ」
氷のように冷ややかな拒絶の言葉だった。
彼はそれ以上何も言わず、再び歩き出す。
硬い靴音が石の床を叩き、二人の距離が離れていく。
しかし、リリアーナは気づいていた。
彼の立ち去る足音が、近づいてきたときよりもほんのわずかに乱れていたことに。
そして、すれ違いざまに漂った、あの針葉樹と白檀の混ざり合った香りが、昼間に温室で嗅いだ植物たちの生命力と同じように、どこか隠しきれない熱を帯びていたことに。
リリアーナはその場に立ち尽くし、冷たい空気に溶けていく彼の香りの余韻をいつまでも胸の奥で反芻していた。




