第1話「冷たい契約と琥珀色の瞳」
鉄の車輪が石畳を削る音が、冬の入り口を感じさせる冷え切った朝の空気に吸い込まれていく。
王都の北に位置するエヴァリントン公爵邸は、灰色の石材で組まれた城郭のような威容を誇っていた。
馬車がゆっくりと動きを止め、わずかな振動が車内に伝わる。
リリアーナは座席の上で、冷たくなった自分の指先をもう片方の手でそっと包み込んだ。
深紅のベルベットのドレスが、浅い呼吸に合わせて擦れる音を立てる。
没落の危機にあるヴァルデット伯爵家を救うため、彼女はこの広大で冷たい屋敷の主と夫婦になる必要があった。
家令らしき初老の男が恭しく馬車の扉を開け、リリアーナは冷たい風に肩をすくめながら外へと足を踏み出す。
分厚いオーク材の両開き扉が重々しい音を立てて開き、彼女は広大なエントランスへと迎え入れられた。
天井からは巨大なクリスタルのシャンデリアが下がり、磨き抜かれた大理石の床が窓からの光を冷たく反射している。
案内する家令の靴音だけが、高すぎる天井に虚しく反響していた。
リリアーナは視線を伏せ、ドレスの裾を踏まないように慎重に歩みを進める。
十年前に起きた馬車の転落事故により、彼女には幼少期の記憶がない。
空白の過去を抱えたまま、冷徹と名高い公爵に嫁ぐ不安が、彼女の足取りを鉛のように重くしていた。
やがて家令が歩みを止め、廊下の突き当たりにある重厚な扉の前で一礼する。
「旦那様、ヴァルデット伯爵令嬢がお見えになりました」
家令の声に応じるように、内側から低い声が短く入室を許可する。
扉が開かれ、リリアーナはゆっくりと執務室の中へ足を踏み入れた。
部屋の中は膨大な蔵書が壁を埋め尽くし、古い紙とインクの匂いが静かな空気に溶け込んでいる。
部屋の奥、大きな窓を背にして立つ高い人影がゆっくりと振り返った。
エヴァリントン公爵クロードであった。
窓から差し込む淡い光が、彼の銀糸のような髪を冷ややかに縁取っている。
造作の整いすぎた顔には何の感情も浮かんでおらず、彫刻のように無機質だった。
ただ、長く伏せられたまつ毛の奥にある琥珀色の瞳だけが、リリアーナの姿を捉えて静かに光を湛えている。
「座るといい」
感情の温度を感じさせない声が響き、リリアーナは勧められた革張りの椅子に腰を下ろした。
クロードもまた執務机を挟んだ向かい側の椅子に座り、あらかじめ用意されていた数枚の羊皮紙を彼女の前に押し出す。
婚姻契約書であった。
白い指先が羽ペンを取り上げ、インク壺に浸す動作には一切の迷いがない。
ペン先が羊皮紙の上を滑り、乾いた摩擦音が部屋の静寂を際立たせる。
「君を愛するつもりはない」
流れるような筆跡で自身の署名を終えたクロードが、顔を上げずに冷ややかな声で告げた。
その言葉の鋭さに、リリアーナはそっと息を呑む。
予想していた言葉ではあったが、実際に突きつけられると胸の奥が微かに冷えた。
「これは互いの利益のための契約だ」
「ヴァルデット家には相応の援助を約束しよう。その代わり、君には公爵夫人としてのお飾りの役割を果たしてもらう。それ以上の干渉は互いに無用だ」
クロードは署名を終えた契約書と羽ペンを、机の上を滑らせてリリアーナの目の前へと差し出した。
リリアーナは膝の上でドレスの布地をきつく握りしめ、ゆっくりと顔を上げる。
「承知いたしました、旦那様」
震えそうになる声を必死に抑え込み、彼女ははっきりと答えた。
羽ペンを受け取ろうと手を伸ばした瞬間、彼女の指先がクロードの白い指にわずかに触れた。
氷のように冷たい外見とは裏腹に、その肌はかすかな熱を帯びている。
リリアーナが驚いて視線を上げると、至近距離で交わった彼の琥珀色の瞳が、深い痛みを堪えるようにわずかに揺らめいた。
しかし、まばたきをした次の瞬間には、元の冷え切った硝子のような瞳に戻っている。
リリアーナは急いで視線を落とし、契約書の署名欄に自らの名前を綴った。
黒いインクが羊皮紙ににじみ、後戻りのできない契約が完了する。
◆ ◆ ◆
手続きを終え、リリアーナは与えられた自室へと案内されるために執務室を後にした。
分厚い扉が背後で閉まり、張り詰めていた空気がふっと緩む。
リリアーナは壁に手をつき、小さくため息をこぼした。
胸の奥で早鐘のように打つ心臓の音が、ようやく落ち着きを取り戻し始める。
先ほどの短い対面の中で、彼女の調香師としての敏感な嗅覚は、クロードから漂うかすかな香りを捉えていた。
冷たい雨に濡れた針葉樹のような鋭さと、奥底に隠された甘い白檀のような香り。
どこかで嗅いだことがあるような、郷愁を誘うその香りが、記憶の欠落した脳裏にわずかなさざ波を立てている。
しかし、それがいつ、どこでのことなのかはまったく思い出せない。
『愛するつもりはない』
彼が放った言葉が、耳の奥にこびりついて離れなかった。
愛されることを期待して嫁いできたわけではない。
実家を守るための取引だと、何度も自分に言い聞かせてきたはずだった。
それでも、ほんの指先が触れ合った瞬間に感じたあの熱と、瞳に浮かんだ説明のつかない揺らぎが、リリアーナの心に小さな棘のように刺さっている。
窓の外では、灰色の雲が冬の空を覆い始めていた。
これから始まる偽りの夫婦生活を映し出すように、風が窓ガラスを冷たく叩く。
リリアーナは背筋を伸ばし、自室へ続く長い廊下を再び歩き始めた。




