番外編「空白の十年と氷の底の執愛」
◇クロード視点
エヴァリントン公爵家の当主という座は、底なしの欲望と血塗られた権力闘争の果てにある椅子だった。
幼き日のクロードは、親族同士の終わりのない暗闘から隔離されるように、王都から遠く離れた西の領地にたたずむ古い館へと追いやられていた。
使用人たちからは厄介者として冷ややかな視線を向けられ、「ルカ」という偽名を与えられて息を潜める日々。
銀の髪と琥珀色の瞳は公爵家の直系の証であったが、この僻地ではただの呪われた血の印でしかなかった。
誰からも期待されず、誰にも愛されない。
鬱蒼と生い茂る森の奥深くだけが、少年が唯一深呼吸を許される孤独な避難場所だった。
その暗い森の湿った腐葉土の上で、彼はあの日、ひとりの少女と出会った。
図鑑を片手に迷子になっていたリリアーナ・ヴァルデット。
彼女はルカの特異な容姿を気にも留めず、足元に生える珍しい苔やハーブの香りに目を輝かせていた。
『ねえ、この葉っぱの匂い、嗅いだことある?』
泥だらけの手を差し出し、屈託なく笑いかけてきたその瞬間、ルカの世界を覆っていた分厚い氷が音を立てて砕け散った。
彼女だけが、彼を名ばかりの貴族の落胤ではなく、ただの「ルカ」という一人の人間として見てくれたのだ。
秘密の隠れ家で古い詩集を共に読み、森の奥に咲く花を教え合う日々。
それは、彼にとって生涯で初めて味わう、甘く温かい体温を持った時間だった。
だからこそ、あの日、崖の縁に咲く青い花を彼女が欲しそうに見つめたとき、ルカは何のためらいもなくその斜面へと足を踏み入れたのだ。
彼女の笑顔が見たい。
ただその一念だけだった。
昨晩の雨で緩んでいた土が崩れる鈍い音。
足場が消失し、重力が反転する絶望的な浮遊感。
ルカが奈落へと引きずり込まれそうになったその瞬間、細い腕が彼の服を掴み、凄まじい力で彼を安全な場所へと引き戻した。
代わりに、反動でバランスを崩した彼女の体が、土煙とともに崖の底へと真っ逆さまに落ちていく。
耳をつんざくような悲鳴は、彼自身の喉から発せられたものだった。
斜面を転がり落ちるようにして谷底へ駆け下りたとき、視界を埋め尽くしたのは、冷たい石の上で動かなくなった彼女と、ゆっくりと広がる生々しい赤色の血溜まりだった。
震える手で彼女の小さな体を抱き起こし、名前を呼び続ける。
どれほど時間が経ったのか、やがて彼女がゆっくりと目蓋を開いた。
ルカは泣きじゃくりながらその頬に触れたが、彼女の瞳に浮かんでいたのは、安堵ではなく、見知らぬ他人に怯えるような底知れぬ恐怖だった。
『あなたは……だれ?』
その一言が、ルカの心臓を鋭い刃で串刺しにした。
自分が彼女の記憶を、それまでの人生のすべてを奪ってしまったのだ。
激しい罪悪感と狂気にも似た絶望が、少年の内側で音を立てて渦を巻いた。
その後、彼女はヴァルデット家の迎えによって引き取られ、ルカは二度とその姿を見ることができなくなった。
遠くから様子を探らせた結果、彼女は事故以前の記憶を完全に失い、ルカという少年の存在すら頭の片隅から消え去っていると知らされた。
その事実を噛み締めた夜、ルカという少年の心は砕け散った。
代わりに産声を上げたのは、彼女を奪い返し、生涯かけて守り抜くためなら手段を選ばない、エヴァリントン家の正統なる後継者クロードだった。
王都へ戻った彼は、自らの感情を深い氷の底へ沈め、冷徹な仮面を肌に縫い付けた。
反対派の親族を冷酷に排斥し、十代の若さで公爵家の実権を完全に掌握する。
背が伸び、顔つきが鋭く変わっていく間も、彼の頭の中には常に彼女の存在があった。
密偵を放ち、彼女がどのようなドレスを着て、どのような本を読み、調香という新たな趣味に没頭しているかを知るたびに、渇きに似た飢餓感が喉の奥を焼いた。
いずれ自分が迎えに行く。
他の誰にも渡さない。
その執着が、彼を血生臭い権力闘争の中で立たせ続ける唯一の原動力だった。
十年が経ち、ヴァルデット家が莫大な負債を抱え、没落の危機に瀕しているという報告を受けたとき、クロードの胸に湧き上がったのは同情ではなく、どす黒い歓喜だった。
機は熟した。
彼は裏から手を回して他の支援者を完全に排除し、ヴァルデット家にとって唯一の蜘蛛の糸となるよう状況を作り上げた。
負債の完全な肩代わりと引き換えに、リリアーナを妻として差し出すこと。
それは政略結婚という名を借りた、合法的な略奪に他ならなかった。
しかし、彼女を手に入れる算段が整うにつれ、クロードの足元に黒い泥のような恐怖がにじみ出し始めた。
彼女の記憶が戻れば、必ず自分を憎むはずだ。
彼女の人生を壊したのは自分なのだから。
愛される資格など最初から持ち合わせていない。
ならば、彼女を傷つけないよう、決して手の届かない距離に置きながら、その命が尽きるまで安全な檻の中で庇護し続けるしかない。
彼女が愛する植物たちを集め、莫大な金と職人を注ぎ込んで、広大なガラスの温室を造り上げた。
せめてその中だけは、彼女が息苦しさを感じずに笑えるように。
婚姻契約を結ぶ当日の朝、クロードは執務室の鏡の前に立ち、自らの顔に感情の欠片も浮かんでいないことを何度も確認した。
これからの数十年、彼女を遠ざけるために冷酷な言葉を吐き続けるのだ。
『君を愛するつもりはない』と。
だが、実際に目の前に現れた彼女の、あの頃と変わらない亜麻色の髪と、戸惑いに揺れる瞳を見た瞬間、彼の決意は足元から崩れ去りそうになった。
契約書を手渡す際、ほんのわずかに触れた彼女の指先の熱。
あの谷底で抱きしめたときの、失われゆく体温の記憶が蘇り、喉の奥から嗚咽が漏れそうになるのを必死に噛み殺した。
無機質な仮面の裏側で、彼の中のルカが血の涙を流しながら彼女の名を叫んでいた。
どんなに冷たい言葉で拒絶を装っても、この氷の底に沈めた狂おしいほどの情熱が、いつか彼女を火傷させてしまうのではないかと怯えながら。
クロードは冷たい羽ペンの感触にすがりつき、十年分の絶望と歪んだ愛を封じ込めるようにして、自らの名前を羊皮紙に刻み込んだのだった。




