第三章 この街の人たち(後編)
季節は一気に夏へと近づいた。
梅雨が明けた途端、街の空気が変わる。
朝から耳にまとわりつくような蝉の声。じりじりと肌を焼く日差し。アスファルトから立ち上るむっとした熱気と、どこか焦げたような匂い。
大学へ向かうだけで、琴葉は背中にじんわりと汗を感じるようになっていた。
七月も半ばを過ぎたころ。
講義を終え、校舎を出る。
「暑い……」
口に出した瞬間、乾いた空気が喉にまとわりつく。
最近、こればかり言っている気がする。
長い髪を片手で持ち上げながら正門へ向かう琴葉の表情は、それでもどこか軽やかだった。
理由は簡単だった。
今日で前期の講義がほぼ終わった。
課題も提出し、試験も終えた。
つまり。
「夏休み……」
小さく呟くと、胸の奥が少しだけ弾む。
大学二年生の夏休み。
課題がまったくないわけではないが、予定もある。
実家にも一度は帰ろうと思っている。
弟からは何度も連絡が来ていた。
『姉ちゃん夏休みいつ?』
『帰ってくる?』
『いつ?』
『まだ?』
『お土産よろしく』
最後の一文だけは無視した。
しばらく大学へ来なくていい。それだけで、肩の力が抜ける。
正門を出て交差点を渡り、照り返しの強い歩道を歩く。
靴底越しに伝わる熱。
遠くで鳴るクラクション。
そして、いつものように右へ曲がる。
向かう先はもう迷わない。
――栞堂。
今では、その名前をちゃんと知っている。
*
商店街に入ると、空気が少し変わる。
日差しは相変わらず強いのに、軒先の影が連なり、どこか柔らかい。
八百屋の前には、切り分けられたスイカの甘い香りが漂い、氷水に浸かったとうもろこしからはほんのりと青い匂いが立ち上る。
枝豆の山の横では、店主がうちわでぱたぱたと風を送っている。
花屋の前には、朝顔の淡い色が涼しげに揺れ、風鈴が軒先で揺れている。
チリン、と澄んだ音が、熱気の中にひとすじの涼しさを落とす。
琴葉は足を止め、ゆっくりと商店街を見渡す。
何か違う。
視線を上げると、電柱や店の柱に、色とりどりの紙が貼られている。
赤、青、黄色。
風に揺れて、かさりと乾いた音を立てる。
近づいて見る。
『夏祭り』
太い筆文字が、勢いよく書かれている。
その周りには、提灯の絵や、金魚、かき氷のイラスト。
紙からは、ほんのりとインクの匂いがする。
日付までは確認しなかったが、その文字だけで、胸の奥が少しだけくすぐられる。
気になりながらも、琴葉は栞堂へ向かった。
*
カラン、カラン――。
涼しい空気が、肌に触れる。
「こんにちは」
「いらっしゃいませー」
澪が顔を上げる。
「あ、琴葉ちゃん」
「こんにちは」
「大学帰り?」
「はい」
店に入り、ソファへ向かいバッグを置く。
外の熱気がまだ体に残っている。
「疲れた」
「珍しいね」
「今日は暑いです」
「毎日暑いよ」
「今日は特に」
澪は笑い、冷蔵庫へ向かう。
グラスを持って戻ってきた。
「はい」
麦茶。
グラスの外側には細かな水滴がついている。
「ありがとうございます」
一口飲む。
ひんやりとした液体が喉を通り、体の奥に染みていく。
「生き返る……」
「大げさ」
「本当に暑いんです」
「若いのに」
「澪さんも若いじゃないですか」
「私は店の中だから」
「いいなあ、涼しそうで」
澪は笑う。
そのとき。
カラン、カラン――。
外の熱気と一緒に、元気な声が飛び込んでくる。
「こんにちはー!」
小学生が二人入ってくる。
「あ!」
女の子がすぐ琴葉を見つける。
「琴葉ちゃん!」
「こんにちは」
ランドセルを背負った二人の額には、汗が光っている。
「今日も大学?」
「うん」
「大変だね」
「今日でほとんど終わり」
二人が止まる。
「何が?」
「大学」
「明日から夏休み」
一瞬の静寂。
「えええええええっ!?」
店に響く声。
「いいなあ!」
「もう休みなの!?」
「私たちまだ学校あるのに!」
「あとちょっとでしょ?」
「まだあるよ!」
「先に休みなんてずるい!」
「そういうものだから」
「納得いかない!」
「私に言われても」
二人は口々に不満を言う。
琴葉は困って澪を見る。
澪は肩を揺らして笑っている。
「澪さん」
「何?」
「助けてください」
「楽しそうだからいいじゃん」
「私は楽しくないです」
「琴葉ちゃん、人気者だね」
「これは人気なんですか?」
「たぶん」
「絶対違います」
「いいなあ、夏休み!」
「分かったから」
琴葉はため息をつく。
「じゃあ」
男の子が言う。
「宿題!」
「え?」
「約束した!」
女の子も指さす。
「夏休みの宿題教えてくれるって!」
「あ」
思い出す。
「約束したね」
「じゃあ明日から!」
「ダメ」
「なんで!?」
「まだ夏休みじゃないでしょ」
「……ある」
「宿題も出てないでしょ」
「……出てない」
「じゃあ無理」
二人は顔を見合わせる。
「そっか……」
「まだかあ」
琴葉は笑う。
「夏休みになったらね」
「絶対?」
「絶対」
「栞堂で?」
「うん」
「毎日?」
「毎日は無理」
「えー」
「じゃあ週に何回か」
「何回?」
「まだ分からない」
「三回くらい?」
「勝手に決めないで」
「じゃあ四回!」
「増えてる」
澪が笑い続ける。
「そんなに面白いですか?」
「面白い」
「……」
「琴葉先生」
「澪さん」
「はい」
「麦茶返しますよ」
「ごめんなさい」
全然反省していない。
*
しばらくして、商店街の人たちが集まり始める。
外からは、焼きとうもろこしの香ばしい匂いがふわりと流れ込んでくる。
花屋の女性が来る。
「暑いわねえ」
うちわで風を送りながらソファに座る。
八百屋の店主が顔を出す。
「澪ちゃん」
「何?」
「これ」
袋を置く。中にはきゅうりとトマト。
土の匂いがほんのりとする。
「仕入れすぎてな」
「絶対余ってないでしょ」
「細かいことはいいんだよ」
「ありがとうございます」
和菓子屋の店主も来る。
「琴葉ちゃん、もう夏休みなんだって?」
「何で知ってるんですか?」
全員が子どもたちを見る。
「さっき話した!」
「情報早いですね」
琴葉は苦笑する。
「この商店街、話広がるの早すぎません?」
「いつものことよ」
「慣れてきましたけど」
「じゃあ今年の祭り、手伝えるな」
「……祭り?」
「知らない?」
「商店街の夏祭り」
「あ」
ポスターを思い出す。
風に揺れていた色とりどりの紙。
「見ました」
「毎年やってるのよ」
「どこで?」
「この商店街」
「ここで?」
「夕方から歩行者天国にしてな」
「屋台も出る」
「焼きそばに、たこ焼きに、かき氷もな」
「盆踊りもあるよ」
「太鼓の音が響いてね、夜になると提灯がずらっと灯るの」
「子どもたちのゲームもあるしね」
言葉を聞くだけで、頭の中に光景が浮かぶ。
夕暮れの空。
赤く染まる提灯。
人のざわめき。
甘いシロップの匂い。
琴葉の目が自然と輝く。
この街で迎える初めての夏。
「楽しそう」
思わず声が漏れる。
「でしょ?」
「琴葉ちゃんも来るわよね?」
「もちろん!」
子どもたちが言う。
「来るよね!」
「一緒に回ろう!」
琴葉は囲まれる。
「分かった」
「来る?」
「うん、行く」
「やったー!」
「じゃあ約束!」
小指を差し出される。
「また?」
「約束!」
「はいはい」
指を絡める。
「約束」
男の子も加わる。
澪はその様子を楽しそうに見ている。
*
「澪さんも行くんですか?」
店が静かになる。
「私?」
「はい」
「いるよ。毎年」
「栞堂も参加するから」
「何するんですか?」
「まだ決めてない」
「去年は古本市」
「一昨年は雑貨」
「その前は浴衣で店番してたわね」
「それは毎年でしょ」
「浴衣?」
「うん」
琴葉は想像する。
提灯の灯りの中で、浴衣姿の澪が立っている光景。
「似合いそう」
「本当?」
「はい」
「じゃあ琴葉ちゃんも着れば?」
「持ってないです」
「貸してあげる」
「え?」
「娘のがあるわよ」
「髪もやってあげる」
話が進む。
「絶対似合う!」
「髪長いし!」
「まとめたら綺麗よ」
琴葉は困って澪を見る。
澪は楽しそうだ。
「いいじゃん」
「澪さんまで」
「着ようよ」
琴葉は考える。
浴衣、夏祭り、この街、栞堂、みんな。
夕暮れの風、提灯の灯り、賑やかな声。
「……考えます」
「やった!」
「まだ決めてません」
「楽しみにしてる!」
「どういう理屈?」
笑いが広がる。
*
「あと」
八百屋の店主が言う。
「祭りの準備も手伝えるな」
「え?」
琴葉は指を折る。
「宿題、夏祭り、浴衣、準備」
ため息。
「予定、増えてません?」
全員が考える。
「いい夏休みになりそうだね」
「他人事みたいに言わないでください」
「楽しそうじゃん」
琴葉は言葉を止める。
確かにそうだった。
普通の夏を想像していた。
実家に帰り、弟に会い、友人と遊ぶ。
それだけのはずだった。
今は違う。
約束が増えている。
この街の匂いも、音も、少しずつ自分のものになっていく。
「……そうですね」
「楽しそうです」
澪も笑う。
「でしょ?」
*
夕方。
子どもたちが帰る。
外は少しだけ風が出て、昼の熱気が和らいでいる。
「宿題忘れないでね!」
「分かってる」
「夏祭りも!」
「分かってる」
「約束だからね!」
「はいはい」
満足して帰っていく。
商店街の人たちも帰る。
「浴衣探しとくからね」
「まだ着るって」
「準備の日、連絡するからな」
店に静けさが戻る。
「すごいね」
「何がですか」
「予定いっぱい」
「誰のせいですか」
「みんな?」
「澪さんもです」
「楽しそうだったから」
琴葉はソファに座る。
ため息をつきながらも笑っている。
「嫌?」
「嫌じゃないです」
窓の外を見る。
夕方の夏。
蝉の声が少し遠くなり、代わりに人の話し声や、どこかで鳴る風鈴の音が混ざる。
商店街の上には、さっき見たポスターが風に揺れている。
その向こうに、少しずつ色を変える空。
この街で迎える初めての夏。
もう一人ではない。
「澪さん」
「ん?」
「夏祭り、楽しみですね」
澪は少し驚き、笑う。
「うん、楽しみ」
そのときスマートフォンが震える。
弟からだ。
『姉ちゃん夏休みになった?』
『今日から』
『じゃあ帰ってくる?』
指が止まる。
帰るつもりだ。
家族にも会いたい。
けれど。
もう一つ、帰りたい場所がある。
少し考え、返信する。
『帰るよ。でも、こっちでも予定いっぱいできた』
(第三章 完)




