表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/27

第三章 この街の人たち(中編)



琴葉は大学の講義を終え、いつもの道を歩いていた。時刻はまだ午前十一時過ぎ。今日は午前中で講義が終わり、大学生らしい少し早い帰り道だ。


正門を出て交差点へ。琴葉は迷うことなく右へ曲がり、商店街へ向かう。


少し前までは、ここはただの寄り道だった。けれど今は違う。店へ行き、澪に会い、そこにいる人たちと話す。それが少しずつ、琴葉の日常の一部になっている。


商店街に入ると、昼前で人はまだまばらだが、店はすでに開いている。


八百屋の前を通ると、店主が声をかけてきた。


「琴葉ちゃん」


「こんにちは」


「今日は早いな」


「午前で終わったので」


「いいねえ、大学生は」


琴葉は少し笑い、店先を覗く。並んだ野菜の中から、店主がミニトマトを指した。


「これ、安いよ。甘いから」


「じゃあ、それください」


財布を出し、袋を受け取る。こうして買い物をすることも、最近は少しずつ増えてきた。


袋の中を少し覗き、琴葉は一粒取り出して口に入れる。


「……甘い」


思わず小さく呟くと、店主が満足そうに笑った。


「だろ?」


「はい、美味しいです」


「澪ちゃんにも持ってってやりな」


「はい」


「今日も行くのか?」


「はい。行ってきます」


「はいよ」


軽く手を振られ、琴葉は歩き出す。


その途中、和菓子屋の前で足を止めた。ガラスケースの中には大福や団子が並んでいる。少し迷ったあと、店に入った。


「いらっしゃい」


「こんにちは」


「今日は何にする?」


「このお団子、二本ください」


「はいよ」


包んでもらいながら、店主が笑う。


「お昼前に甘いものかい?」


「はい、ちょっと」


「いいねえ」


琴葉も笑い、袋を受け取って店を出る。


さらに歩くと、花屋の前に出る。色とりどりの花が並び、思わず足を止める。今日は買わない。ただ眺めるだけ。それでも、なんとなく気持ちが落ち着いた。


歩きながら、琴葉は思う。


この商店街で、知っている場所が増えている。知っている人も増えている。そして、その先には行く場所がある。


やがて、いつもの店が見えてきた。


古い建物、大きな窓。その向こうに本棚や雑貨、そしてソファが見える。


だが今日は少し様子が違った。


店の前に澪がいる。脚立に乗り、入口の上で何かをしている。


「澪さん?」


声をかけると、澪が顔を下げた。


「あ、琴葉ちゃん」


「何してるんですか?」


「掃除。看板」


琴葉は顔を上げる。入口の上には古い木製の看板があった。何度も来ているのに、ちゃんと見たことはなかった。


澪が雑巾で拭くと、埃が落ち、文字が少しずつ浮かび上がる。


『古書と雑貨 栞堂』


「しおり……どう?」


琴葉が読み上げると、澪がうなずいた。


「そう。栞堂」


琴葉はもう一度看板を見る。


「……初めて知りました」


「え? 知らなかったの?」


「知りません」


「看板あるよ?」


「ちゃんと見てませんでした」


澪は少し呆れたように笑う。


「黒板は見てるのに?」


「黒板は見ます」


「看板も見てよ」


琴葉も少し笑った。


「だって、澪さんのお店って思ってたから」


その言葉に、澪の手が一瞬止まる。


「……何ですか?」


「いや、何でもない」


琴葉は首を傾げながら、もう一度名前を口にする。


「栞堂。どうしてこの名前なんですか?」


「おじいちゃんがつけたんだよ」


澪は脚立を降り、看板を見上げる。


「私が子どものころから、ずっと栞堂」


「本屋さんだから、栞?」


「それもあるみたい。でもね」


少し考えてから、澪は続ける。


「栞って、本を読む途中で挟むでしょ? それでまた続きから読める」


琴葉は静かに聞く。


「人生も同じで、疲れたら一回休んでもいい。ここでちょっと休んで、それからまた続きから始めればいいって」


琴葉は何も言わず、看板を見つめる。


初めて知った名前なのに、不思議と前から知っていたような気がした。


「いい名前ですね」


「本当?」


「はい。きっとおじいちゃんも喜びます」


澪は嬉しそうに笑った。


「そっか。じゃあ――栞堂へようこそ」


「今さらですか?」


「名前知った記念」


「何ですか、それ」


二人は笑いながら店に入る。


カラン、カラン――。



店に入ると、琴葉は袋を持ち上げた。


「これ、さっき買ってきました」


「何?」


「ミニトマトと、お団子」


「いいね」


澪はカウンターから出てきて、袋を覗き込む。


「食べる?」


「はい」


二人はソファに座り、袋を広げる。琴葉が団子を一本差し出すと、澪は受け取った。


「いただきます」


「いただきます」


団子を一口食べて、澪が目を細める。


「甘い」


「美味しいですよね」


「うん」


琴葉も一口食べる。柔らかくて、ほんのり甘い味が広がる。


「ミニトマトもどうぞ」


琴葉が袋を差し出すと、澪が一つつまむ。


「……ほんとだ、甘い」


「八百屋さんがすすめてくれて」


「いいね、あの人」


二人で少しずつ食べながら、ゆっくりとした時間が流れる。


「こういうの、いいですね」


琴葉がぽつりと言う。


「何が?」


「商店街で買ったものを、ここで食べるの」


澪は少し考えてから笑う。


「確かに」


「なんか、つながってる感じがします」


「うん」


澪は頷いた。


「この店も、商店街の一部だからね」


琴葉はその言葉を聞きながら、もう一つトマトを口に入れた。



「こんにちはー!」


しばらくして、元気な声とともに扉が開いた。小学生の男の子と女の子が、ランドセルを背負って入ってくる。


「澪ちゃん!」


「はいはい。走らない」


「走ってない!」


「今走ってた」


「じゃあ早歩き!」


「それ走ってるでしょ」


澪が少し考えてから「確かに」と言うと、琴葉は思わず笑った。


「あ、琴葉ちゃん!」


「こんにちは」


「今日もいる!」


「います」


男の子も近づいてくる。


「今日早いね!」


「午前で終わったから」


「いいなー!」


「その代わり課題あるよ」


「えー」


二人は同時に嫌そうな顔をする。


ふと、女の子がテーブルの上を見る。


「あ、それ何?」


「お団子」


「いいな!」


「食べる?」


琴葉が差し出すと、二人の目が輝いた。


「いいの!?」


「半分ずつね」


「やったー!」


二人は嬉しそうに受け取り、仲良く分けて食べる。


「おいしい!」


「甘い!」


その様子を見て、澪が笑う。


「ちゃんとありがとうは?」


「ありがとう!」


「ありがとうございます!」


元気な声が重なる。


琴葉は少し照れながら笑った。


「どういたしまして」


男の子がミニトマトにも気づく。


「それも食べていい?」


「いいよ」


「やった!」


一つ口に入れて、驚いた顔になる。


「甘っ!」


「でしょ?」


「トマトなのに!」


「トマトだよ」


「すごい!」


そんなやり取りをしながら、店の中は一気に賑やかになる。


「夏休み、宿題いっぱい出る」


男の子が急に真剣な顔になる。


「まだ夏休みじゃないでしょ」


「でも出る! 毎年!」


なぜか怒っている様子に、琴葉は少し笑った。


「大学生も夏休みの宿題ある?」


「宿題というか、課題かな」


「いっぱい?」


「先生による」


「ずるい」


「何で?」


「夏休みなのに」


女の子がじっと琴葉を見る。


「琴葉ちゃん、頭いい?」


「……普通」


するとカウンターから澪が口を挟む。


「大学生だから小学生よりはできるんじゃない?」


「澪さん、勝手なこと言わないでください」


「違うの?」


「違わないですけど、そういう問題じゃないです」


子どもたちは顔を見合わせ、そして琴葉を見る。


「じゃあ、夏休み、宿題教えて」


「……え?」


その一言が、思ったよりも重く胸に落ちた。


教えて。


簡単な言葉なのに、琴葉の中で何かが引っかかる。


自分が、誰かに何かを教える。


それは、これまでほとんどなかったことだ。


大学では、ただ講義を受ける側で、誰かに頼られることなんてない。


ここに来る前の自分なら――きっと、曖昧に笑って断っていた。


「教えて!」


「算数!」


「漢字!」


「自由研究も!」


「それは自分でやろうね」


「えー!」


子どもたちの声が重なる。


その無邪気な期待が、まっすぐに向けられている。


琴葉は一瞬、言葉を失う。


(私に、できるのかな)


頭の中で、小さく問いが浮かぶ。


間違えたらどうしよう。


うまく説明できなかったら。


期待に応えられなかったら。


そんな不安が、じわりと広がる。


でも同時に。


(……頼られてる)


そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなる。


ここに来るようになってから。


名前を呼ばれて。


話しかけられて。


一緒に笑って。


そして今、こうして「教えて」と言われている。


それは、ただのお願い以上のものに感じられた。


この場所に、自分がいていい理由を、少しだけもらったような気がした。


琴葉は、ゆっくりと澪を見る。


澪はカウンターの向こうで、楽しそうにこちらを見ているだけだ。


助ける気は、なさそうだった。


(……ずるい)


心の中で小さく呟く。


でも、その視線にはどこか「大丈夫」と言われているような気もした。


琴葉はもう一度、子どもたちを見る。


期待に満ちた目。


逃げることもできる。


でも――。


「……分からないところだけだよ」


気づけば、そう言っていた。


言葉にした瞬間、少しだけ心臓が跳ねる。


一瞬の静寂。


そして。


「やったー!」


明るい声が店の中に響いた。


二人は飛び跳ねるように喜んでいる。


「ほんとに!?」


「約束ね!」


「うん、約束」


琴葉は小さくうなずく。


その約束が、思っていたよりも重くて、でもどこか嬉しい。


夏休み。


まだ少し先のはずなのに、その言葉が急に現実味を帯びる。


ここで。


この店で。


子どもたちと向き合っている自分。


そんな光景が、ぼんやりと頭に浮かぶ。


(……私、ここにいるんだ)


ふと、そんな実感が胸に広がる。


ただ通り過ぎる場所じゃない。


ただ立ち寄る場所でもない。


約束を交わして、また来る場所。


待たれる場所。


琴葉は、ほんの少しだけ息を吐いた。


不安は消えていない。


でも、それ以上に。


これからの時間が、少しだけ楽しみに思えた。


カラン、と小さくベルが鳴る。


誰も出入りしていないのに、風で揺れたのかもしれない。


その音を聞きながら、琴葉は思う。


この先、自分はどんなふうにこの場所に関わっていくのだろう。


まだ分からない。


でも――。


きっと、続きを読みに来るように。


またここへ戻ってくる。


そんな予感だけが、静かに胸に残っていた。


そしてその予感は、やがて少しずつ形になっていく。


この街の人たちと、もっと関わっていく中で。


この場所が、自分にとってどんな意味を持つのか。


その答えを知る日が、きっと来る。


――その続きは、もうすぐ始まる。


(第三章後編に続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ