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第三章 この街の人たち(前編)


季節は春から初夏へと移り始めていた。


午後四時過ぎ。講義を終えた琴葉は校舎を出る。


「……暑い」


まだ夏ではないが、日差しには確かな気配があった。肌に触れる空気が少しだけ重くて、思わず肩の力が抜ける。


正門へ向かう途中、友人に声をかけられる。


「これからどこか行く?」

「今日はいいかな」

「そっか、また明日」

「うん」


軽く手を振り、琴葉は歩き出す。


大学生活にはもう慣れている。講義も、人付き合いも、特別困ることはない。


けれど最近、講義のあとにできた習慣があった。


交差点。まっすぐ行けばアパート、右へ曲がれば商店街。


ほんの少し前までは、迷うこともあったはずなのに。


今は、立ち止まることもなく。


迷わず、右へ曲がる。


――自然に足が向く、というのはこういうことなのかもしれない。



夕方の商店街は穏やかだった。


買い物客や自転車、小学生たちが行き交う中、琴葉は自然と足取りを緩める。


急ぐ理由はない。


むしろ、少しゆっくり歩きたいと思っている自分に気づく。


「お、琴葉ちゃん」


八百屋の店主が声をかける。


「今日も澪ちゃんのとこか?」

「……はい」


少しだけ間が空いたのは、否定する理由が見つからなかったからだ。


「最近よくいるな」


否定できない。


むしろ、そう言われて初めて、自分でもはっきりと自覚する。


――そんなに来てるんだ。


「何しに行ってるんだ?」

「……特に」


答えながら、自分でも少し不思議に思う。


本を買うわけでもない。


用事があるわけでもない。


それでも、行く。


店主は一瞬きょとんとして、すぐに笑った。


「いいじゃないか。そういう場所があるのは」


その言葉に、ほんの少しだけ胸の奥が温かくなる。


ぽい、と何かが飛んでくる。


「えっ」


受け取ると、小さな桃だった。


「危ないですよ」

「やるよ」

「いいんですか?」

「澪ちゃんに取られんなよ」

「取られません」


歩き出しながら、琴葉は小さく呟く。


「……たぶん」


自分でも思わず苦笑する。


背後で笑い声が上がる。


「似てきたな!」

「似てません!」


そう言い返しながらも、口元は少し緩んでいた。


――こういうやり取りも、いつの間にか当たり前になっている。



店が見えてくる。


古びているが温かい外観。黒板にはいつもの言葉。


『本と雑貨。それから、ちょっと休憩。見るだけでもどうぞ。』


何度も見ているはずなのに、つい目が止まる。


その言葉を読むたびに、少しだけ肩の力が抜ける気がする。


扉を開ける。


カラン、カラン――。


その音を聞いた瞬間、外とは違う空気に包まれる。


「いらっしゃいませー」


「こんにちは」


澪が顔を上げる。


「今日も来た」

「来ました」

「お疲れさま」


その一言が、思っていたよりもずっと嬉しい。


――誰かに「お疲れさま」と言われるだけで、こんなに安心するんだ。


「琴葉ちゃん、こっち」


ソファの年配女性に呼ばれ、自然と隣に座る。


もう遠慮する感じはない。


座る場所も、タイミングも、迷わない。


新聞を読む男性がちらりと顔を上げる。


「勉強してるか?」

「してます」

「本当か?」

「……たぶん」


「うつってるぞ」

「私のせい?」

「澪さんのせいです」


軽い笑いが広がる。


その中にいる自分が、少しだけ不思議で、でも心地いい。


「ちゃんと食べてる?」

「食べてます」

「野菜は?」

「……」


「今、間があったわね」

「気のせいです」


こういうやり取りも、嫌じゃない。


むしろ、どこか懐かしい。


そこへ澪が麦茶を置く。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


一口飲むと、思わず息が抜ける。


冷たさが喉を通って、体の中に広がっていく。


「おいしい」

「麦茶だけどね」


――ただの麦茶なのに、どうしてこんなにほっとするんだろう。


澪が琴葉の手元を見る。


「それ何?」

「あ、桃です。もらいました」

「いいなあ」


じっと見られ、琴葉はため息をつく。


その視線が、どこか子どもみたいで。


「半分ですよ」

「やった」


差し出すと、澪は素直に受け取った。


その様子を見て、琴葉は少しだけ笑う。


――こういうやり取りも、もう自然になっている。



「こんにちはー」


買い物帰りの女性が入ってくる。


ソファに腰を下ろし、琴葉を見て笑う。


「あなたが琴葉ちゃん?」


「……はい」


「この辺じゃ有名よ」


琴葉は澪を見る。


「話してます?」

「してないよ」

「じゃあなんで」

「商店街だから?」


周囲がくすっと笑う。


「話が早いのよ、この辺は」


少しだけ驚く。


でも、不思議と嫌な感じはしない。


――知られていることが、怖くない。


むしろ、受け入れられているような気がする。


女性は気軽に続ける。


「大学二年生?」

「はい」

「兄弟は?」

「弟がいます」


少しだけ表情が柔らぐ。


自然と、声も柔らかくなる。


「よく連絡してきます」


「かわいいんだ」

「言ってません」

「顔に出てる」


また笑いが起きる。


その中で、自分も笑っていることに気づく。



その後も人が増えていく。


花屋の人、和菓子屋の店主、小学生たち。


誰も何かを買うわけではない。ただ座り、話し、過ごしている。


琴葉は店内を見渡す。


――不思議な場所だ。


普通の店なら、こんなふうにはならない。


それなのに、ここではそれが当たり前になっている。


「澪さん」

「ん?」

「ここ、何屋さんですか?」


一瞬の間のあと、笑いが起きる。


「古本屋」

「雑貨もありますよね」

「あるね」

「修理も」

「するね」


琴葉は周囲を指す。


「でも、誰も買ってない」


「この前買ったわよ」

「いつですか?」

「……」


また笑い。


澪は肩をすくめる。


「昔からこんな感じ」


少し懐かしそうに続ける。


「おじいちゃんがね、こういう店にしたかったんだって」


「こういう店?」


「誰でも来ていい店。何もなくても、ただ休んで帰るだけでもいいって」


琴葉は静かに店を見渡す。


さっきまでの賑わいが、まだ残っている気がした。


笑い声や会話が、空気の中に溶けているような感覚。


――ここにいると、ひとりじゃないと思える。


「いいですね」


自然に言葉が出る。


澪が少し驚いてから笑う。


「ありがとう」



夕方、人が一人ずつ帰っていく。


「またね」

「はい」


やがて店は静かになる。


さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、穏やかな静けさ。


でも、寂しさはない。


むしろ、落ち着く。


「静かですね」

「みんな帰ったからね」


琴葉はソファにもたれる。


体が自然に力を抜く。


「大変じゃないですか?」

「何が?」

「お店なのに、誰も買わない」


澪は軽く笑う。


「いいんだよ、それで」


店内を見渡す。


「人が来る場所だから」


琴葉も同じように見る。


本棚、ソファ、カウンター。


誰もいないのに、温かさが残っている。


――さっきまでの時間が、ちゃんとここにある。


「琴葉ちゃんも、いつでも来ていいよ」


「何もなくても?」

「うん」


迷いのない答えだった。


その言葉が、すっと胸に入ってくる。


拒まれない場所。


理由を求められない場所。


琴葉は少しだけ目を細める。


ここに来る理由は、もう「なんとなく」ではないのかもしれない。


誰かがいる場所。


名前を呼んでくれる場所。


ただいていいと言ってくれる場所。


――帰る場所、という言葉が、ふと浮かぶ。


カラン、とベルが鳴る。


風に揺れただけの音。


それでも、どこか呼ばれているように感じた。


また来る、ではなく――戻ってくる。


そんな言葉が、胸に浮かぶ。


琴葉は小さく笑った。


この場所は、きっとこれから変わっていく。


ただの寄り道ではなく、大切な場所へと。


(第三章中編に続く)

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