第三章 この街の人たち(前編)
季節は春から初夏へと移り始めていた。
午後四時過ぎ。講義を終えた琴葉は校舎を出る。
「……暑い」
まだ夏ではないが、日差しには確かな気配があった。肌に触れる空気が少しだけ重くて、思わず肩の力が抜ける。
正門へ向かう途中、友人に声をかけられる。
「これからどこか行く?」
「今日はいいかな」
「そっか、また明日」
「うん」
軽く手を振り、琴葉は歩き出す。
大学生活にはもう慣れている。講義も、人付き合いも、特別困ることはない。
けれど最近、講義のあとにできた習慣があった。
交差点。まっすぐ行けばアパート、右へ曲がれば商店街。
ほんの少し前までは、迷うこともあったはずなのに。
今は、立ち止まることもなく。
迷わず、右へ曲がる。
――自然に足が向く、というのはこういうことなのかもしれない。
*
夕方の商店街は穏やかだった。
買い物客や自転車、小学生たちが行き交う中、琴葉は自然と足取りを緩める。
急ぐ理由はない。
むしろ、少しゆっくり歩きたいと思っている自分に気づく。
「お、琴葉ちゃん」
八百屋の店主が声をかける。
「今日も澪ちゃんのとこか?」
「……はい」
少しだけ間が空いたのは、否定する理由が見つからなかったからだ。
「最近よくいるな」
否定できない。
むしろ、そう言われて初めて、自分でもはっきりと自覚する。
――そんなに来てるんだ。
「何しに行ってるんだ?」
「……特に」
答えながら、自分でも少し不思議に思う。
本を買うわけでもない。
用事があるわけでもない。
それでも、行く。
店主は一瞬きょとんとして、すぐに笑った。
「いいじゃないか。そういう場所があるのは」
その言葉に、ほんの少しだけ胸の奥が温かくなる。
ぽい、と何かが飛んでくる。
「えっ」
受け取ると、小さな桃だった。
「危ないですよ」
「やるよ」
「いいんですか?」
「澪ちゃんに取られんなよ」
「取られません」
歩き出しながら、琴葉は小さく呟く。
「……たぶん」
自分でも思わず苦笑する。
背後で笑い声が上がる。
「似てきたな!」
「似てません!」
そう言い返しながらも、口元は少し緩んでいた。
――こういうやり取りも、いつの間にか当たり前になっている。
*
店が見えてくる。
古びているが温かい外観。黒板にはいつもの言葉。
『本と雑貨。それから、ちょっと休憩。見るだけでもどうぞ。』
何度も見ているはずなのに、つい目が止まる。
その言葉を読むたびに、少しだけ肩の力が抜ける気がする。
扉を開ける。
カラン、カラン――。
その音を聞いた瞬間、外とは違う空気に包まれる。
「いらっしゃいませー」
「こんにちは」
澪が顔を上げる。
「今日も来た」
「来ました」
「お疲れさま」
その一言が、思っていたよりもずっと嬉しい。
――誰かに「お疲れさま」と言われるだけで、こんなに安心するんだ。
「琴葉ちゃん、こっち」
ソファの年配女性に呼ばれ、自然と隣に座る。
もう遠慮する感じはない。
座る場所も、タイミングも、迷わない。
新聞を読む男性がちらりと顔を上げる。
「勉強してるか?」
「してます」
「本当か?」
「……たぶん」
「うつってるぞ」
「私のせい?」
「澪さんのせいです」
軽い笑いが広がる。
その中にいる自分が、少しだけ不思議で、でも心地いい。
「ちゃんと食べてる?」
「食べてます」
「野菜は?」
「……」
「今、間があったわね」
「気のせいです」
こういうやり取りも、嫌じゃない。
むしろ、どこか懐かしい。
そこへ澪が麦茶を置く。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
一口飲むと、思わず息が抜ける。
冷たさが喉を通って、体の中に広がっていく。
「おいしい」
「麦茶だけどね」
――ただの麦茶なのに、どうしてこんなにほっとするんだろう。
澪が琴葉の手元を見る。
「それ何?」
「あ、桃です。もらいました」
「いいなあ」
じっと見られ、琴葉はため息をつく。
その視線が、どこか子どもみたいで。
「半分ですよ」
「やった」
差し出すと、澪は素直に受け取った。
その様子を見て、琴葉は少しだけ笑う。
――こういうやり取りも、もう自然になっている。
*
「こんにちはー」
買い物帰りの女性が入ってくる。
ソファに腰を下ろし、琴葉を見て笑う。
「あなたが琴葉ちゃん?」
「……はい」
「この辺じゃ有名よ」
琴葉は澪を見る。
「話してます?」
「してないよ」
「じゃあなんで」
「商店街だから?」
周囲がくすっと笑う。
「話が早いのよ、この辺は」
少しだけ驚く。
でも、不思議と嫌な感じはしない。
――知られていることが、怖くない。
むしろ、受け入れられているような気がする。
女性は気軽に続ける。
「大学二年生?」
「はい」
「兄弟は?」
「弟がいます」
少しだけ表情が柔らぐ。
自然と、声も柔らかくなる。
「よく連絡してきます」
「かわいいんだ」
「言ってません」
「顔に出てる」
また笑いが起きる。
その中で、自分も笑っていることに気づく。
*
その後も人が増えていく。
花屋の人、和菓子屋の店主、小学生たち。
誰も何かを買うわけではない。ただ座り、話し、過ごしている。
琴葉は店内を見渡す。
――不思議な場所だ。
普通の店なら、こんなふうにはならない。
それなのに、ここではそれが当たり前になっている。
「澪さん」
「ん?」
「ここ、何屋さんですか?」
一瞬の間のあと、笑いが起きる。
「古本屋」
「雑貨もありますよね」
「あるね」
「修理も」
「するね」
琴葉は周囲を指す。
「でも、誰も買ってない」
「この前買ったわよ」
「いつですか?」
「……」
また笑い。
澪は肩をすくめる。
「昔からこんな感じ」
少し懐かしそうに続ける。
「おじいちゃんがね、こういう店にしたかったんだって」
「こういう店?」
「誰でも来ていい店。何もなくても、ただ休んで帰るだけでもいいって」
琴葉は静かに店を見渡す。
さっきまでの賑わいが、まだ残っている気がした。
笑い声や会話が、空気の中に溶けているような感覚。
――ここにいると、ひとりじゃないと思える。
「いいですね」
自然に言葉が出る。
澪が少し驚いてから笑う。
「ありがとう」
*
夕方、人が一人ずつ帰っていく。
「またね」
「はい」
やがて店は静かになる。
さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、穏やかな静けさ。
でも、寂しさはない。
むしろ、落ち着く。
「静かですね」
「みんな帰ったからね」
琴葉はソファにもたれる。
体が自然に力を抜く。
「大変じゃないですか?」
「何が?」
「お店なのに、誰も買わない」
澪は軽く笑う。
「いいんだよ、それで」
店内を見渡す。
「人が来る場所だから」
琴葉も同じように見る。
本棚、ソファ、カウンター。
誰もいないのに、温かさが残っている。
――さっきまでの時間が、ちゃんとここにある。
「琴葉ちゃんも、いつでも来ていいよ」
「何もなくても?」
「うん」
迷いのない答えだった。
その言葉が、すっと胸に入ってくる。
拒まれない場所。
理由を求められない場所。
琴葉は少しだけ目を細める。
ここに来る理由は、もう「なんとなく」ではないのかもしれない。
誰かがいる場所。
名前を呼んでくれる場所。
ただいていいと言ってくれる場所。
――帰る場所、という言葉が、ふと浮かぶ。
カラン、とベルが鳴る。
風に揺れただけの音。
それでも、どこか呼ばれているように感じた。
また来る、ではなく――戻ってくる。
そんな言葉が、胸に浮かぶ。
琴葉は小さく笑った。
この場所は、きっとこれから変わっていく。
ただの寄り道ではなく、大切な場所へと。
(第三章中編に続く)




