第二章 止まった時計と、動き出す時間(後編)
それから数日後。
琴葉は大学の講義を終え、いつもの道を歩いていた。
数日前まで降り続いていた雨は、すっかり上がっている。
まだ少しだけ湿り気を残したアスファルトを、夕方の光が淡く照らしていた。
大学の正門を出る。
交差点。
まっすぐ行けばアパート。
右へ曲がれば商店街。
以前なら、ほんの少しだけ迷っていた場所。
けれど今は。
琴葉の足は、迷いなく右へ向かう。
歩きながら、ふと視線が前へ伸びる。
まだ見えないはずの店の方向を、無意識に探していた。
(今日はどうなったかな)
頭に浮かぶのは、あの腕時計。
そして。
作業机に向かっていた澪の横顔。
あのときの、静かな集中。
指先の動き。
思い出すと、少しだけ足が速くなる。
自分でも気づいて、ほんの少しだけ歩幅を緩めた。
*
商店街へ入る。
八百屋の前を通る。
「お、琴葉ちゃん」
「あ、こんにちは」
「大学帰り?」
「はい」
「澪ちゃんのとこ?」
「え?」
足が止まる。
「違うの?」
「いや……」
少しだけ視線を逸らす。
「行きますけど」
「やっぱり」
店主は笑う。
「最近よくいるもんな」
「そんなにいます?」
「いるいる」
「……」
琴葉は軽く頷いて、そのまま歩き出す。
背中に視線を感じながら、少しだけ早足になる。
店が見えてくる。
自然と、呼吸が少しだけ浅くなる。
カラン、カラン――。
「こんにちは」
店に入る。
返事がない。
「……?」
カウンターにも、ソファにも誰もいない。
静かな店内。
「店員さん?」
呼ぶと、奥から声が返る。
「琴葉ちゃん?」
「はい」
「ちょっと来て」
作業部屋の方だった。
琴葉はカウンターの奥へ回る。
扉の前で一瞬だけ立ち止まり、軽く息を整える。
「失礼します」
「どうぞ」
扉を開ける。
澪が机に向かっていた。
顔を上げる。
その瞬間、琴葉は眉を寄せる。
「……寝てます?」
「寝てるよ」
「何時間ですか?」
澪は少しだけ視線を逸らす。
「……」
「店員さん?」
「ちょっと」
「ちょっとって?」
「三時間くらい?」
琴葉は小さく息を吐く。
視線が机へ落ちる。
細かく並んだ部品。
削られた金属。
触れられた跡。
澪の手元に、自然と目が引き寄せられる。
「もしかして」
「うん?」
「ずっと、これやってたんですか?」
澪は肩をすくめる。
「……結構」
琴葉はわずかに眉を寄せたまま、机に近づく。
「どうだったんですか?」
「原因は分かった」
「本当ですか?」
澪が指す。
「ここ」
琴葉は顔を寄せる。
「……どこですか?」
「ここ」
さらに近づく。
「……」
「分かりません」
澪が小さく笑う。
「小さいからね」
琴葉はもう一度覗き込む。
「これですか?」
「それ」
「……」
しばらく見つめる。
「交換ですか?」
「本当ならね」
「部品は?」
澪は少しだけ視線を落とす。
「なかった」
琴葉の指先が、机の端で止まる。
「じゃあ」
澪が別の場所を指す。
そこに、小さな金属片。
「作った」
琴葉はそれをじっと見る。
そして、顔を上げる。
「澪さんが?」
言った瞬間。
空気が、ほんの少しだけ止まる。
琴葉の視線が揺れる。
澪も、ゆっくりと顔を上げる。
「……今」
「はい」
「名前で呼んだ?」
琴葉は一瞬だけ視線を外し、すぐに戻す。
「呼びました?」
「呼んだ」
「そうですか」
短い沈黙。
琴葉は軽く咳払いをして、視線を時計に戻す。
「それで」
少しだけ早口になる。
「これ、使えるんですか?」
「たぶん」
「……」
琴葉の眉がわずかに動く。
澪はルーペをつける。
工具を持つ手が、また静かに動き出す。
琴葉はその横に立ったまま、しばらく見ていた。
そして、少しだけ迷ってから口を開く。
「私」
澪の手が止まる。
「何かできます?」
琴葉は机の上を見たまま言う。
澪は少しだけ目を細める。
「手伝いたいの?」
琴葉は小さく頷く。
澪は一瞬だけ考えてから、トレーを指す。
「これ」
琴葉は覗き込む。
「……」
「種類ごとに」
琴葉はピンセットを手に取る。
「やってみます」
「落とさないでね」
琴葉の手が一瞬止まる。
「……」
澪が口元を緩める。
「大事だから」
琴葉は小さく息を吐く。
「緊張します」
「頑張れ、琴葉ちゃん」
琴葉はちらりと澪を見る。
「……」
「澪さん」
「はい」
「黙っててください」
澪が吹き出す。
「はいはい」
二人、並んで作業を始める。
静かな部屋。
工具の音。
小さな金属の触れ合う音。
琴葉はネジを分けながら、時々ちらりと澪の手元を見る。
澪は作業を続けながら、時々琴葉のトレーを覗く。
「琴葉ちゃん」
「はい?」
澪が指先で示す。
琴葉がそちらを見る。
「あっち」
「え?」
琴葉は慌てて見直す。
「……」
「難しい」
澪が肩をすくめる。
琴葉は小さく息を吐く。
「……」
「澪さん」
「はい」
「ちょっと黙っててください」
また、笑いがこぼれる。
そのまま、作業は続く。
*
一時間ほどして。
澪が小さく息を吐く。
「……よし」
琴葉が顔を上げる。
澪は頷くだけ。
部品を組み込む。
一つずつ、慎重に。
琴葉は息を止めるように見守る。
最後に、澪がリューズを回す。
静寂。
何も起きない。
琴葉の指先が、トレーの縁をぎゅっと掴む。
「……」
その瞬間。
チッ。
小さな音。
琴葉の目が大きく開く。
チッ。
チッ。
チッ。
秒針が動く。
二人とも、言葉を失う。
ただ、時計を見る。
ゆっくりと進む針。
止まっていた時間が、確かに動いている。
「……」
琴葉の口元が、わずかに緩む。
澪も、目を離さないまま小さく息を吐く。
「……よかった」
その声に、琴葉は顔を上げる。
澪はまだ時計を見ている。
琴葉は何も言わず、もう一度時計を見る。
小さく頷く。
*
それから数日、時計は店に置いたまま様子を見ることになった。
翌日。
「どうですか?」
「動いてる」
その次の日。
「どうですか?」
「動いてる」
さらにその次。
「どうですか?」
「元気」
琴葉がじっと見る。
澪が肩をすくめる。
「……」
そんなやり取りを繰り返しながら、琴葉はほとんど毎日のように店に顔を出した。
カウンターに肘をついて時計を覗き込む。
澪はその横で帳簿をつけながら、ときどき視線だけを向ける。
「……」
「……」
短い沈黙。
それだけなのに、妙に落ち着く。
一週間が過ぎた頃。
澪が時計を手に取って、軽く振った。
耳を近づける。
チッ、チッ、チッ。
一定のリズム。
澪が顔を上げる。
「大丈夫」
琴葉は小さく頷く。
「……」
その日の午後。
カラン、カラン――。
扉が開く。
あの男性が入ってくる。
「こんにちは」
澪が声をかける。
男性はまっすぐカウンターへ来る。
澪は箱を取り出し、そっと開ける。
中の時計を取り出して、カウンターに置く。
チッ、チッ、チッ。
音が、はっきりと聞こえる。
男性の手が止まる。
ゆっくりと時計を持ち上げる。
耳に近づける。
何度も確かめるように。
「……」
指でガラスをなぞる。
「……」
澪は何も言わない。
琴葉も、少し離れた場所で立ったまま。
男性は小さく息を吐く。
時計を見つめる。
やがて、腕に巻く。
少しぎこちない手つき。
でも、しっかりと留める。
「ありがとう」
「いえ」
澪が軽く頭を下げる。
男性は店内を見回す。
本棚、雑貨、ソファ。
そして澪を見る。
「お前のじいさんにも世話になった」
澪が少しだけ目を見開く。
「この時計、昔ここで直してもらったんだ」
澪は静かに頷く。
男性が奥を指す。
「走り回ってた」
琴葉が思わず笑う。
澪が振り返る。
琴葉は視線を逸らす。
男性も笑う。
澪は肩をすくめる。
男性はもう一度店を見渡す。
「変わらんな」
澪は何も言わない。
「ちゃんと残ってる」
その言葉に、澪はほんの少しだけ視線を落とす。
そして、すぐに顔を上げる。
男性は頷く。
「じいさん、喜んでるよ」
澪は小さく笑う。
カラン、カラン――。
男性が店を出る。
腕には時計。
その背中を、二人で見送る。
しばらく、何も言わない。
「……」
琴葉が小さく息を吐く。
澪も、わずかに頷く。
「……」
少しだけ間が空く。
「澪さん」
「ん?」
琴葉は窓の外を見たまま。
「……」
言葉を探すように、少しだけ黙る。
澪は何も言わず、待つ。
琴葉はゆっくりと頷く。
澪も、同じように頷く。
また少し沈黙。
「……あ」
琴葉が小さく声を出す。
「何?」
「私」
少しだけ視線を逸らす。
「……」
澪が首を傾げる。
琴葉は小さく笑う。
澪もつられて笑う。
店の中に、その声が広がる。
壁の時計が、静かに時を刻んでいる。
カチ、カチ、カチ。
止まっていたものが、また動き出す。
その音を聞きながら、琴葉はふと店の中を見渡す。
ここに来るようになって、まだそんなに時間は経っていない。
それでも。
少しだけ、居場所のように感じている自分がいる。
カラン、カラン――。
新しい客が入ってくる。
「いらっしゃいませー」
澪がいつもの調子で声をかける。
琴葉はその横顔を見て、小さく笑った。
(第二章 完)




