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第二章 止まった時計と、動き出す時間(後編)


それから数日後。


琴葉は大学の講義を終え、いつもの道を歩いていた。


数日前まで降り続いていた雨は、すっかり上がっている。


まだ少しだけ湿り気を残したアスファルトを、夕方の光が淡く照らしていた。


大学の正門を出る。


交差点。


まっすぐ行けばアパート。


右へ曲がれば商店街。


以前なら、ほんの少しだけ迷っていた場所。


けれど今は。


琴葉の足は、迷いなく右へ向かう。


歩きながら、ふと視線が前へ伸びる。


まだ見えないはずの店の方向を、無意識に探していた。


(今日はどうなったかな)


頭に浮かぶのは、あの腕時計。


そして。


作業机に向かっていた澪の横顔。


あのときの、静かな集中。


指先の動き。


思い出すと、少しだけ足が速くなる。


自分でも気づいて、ほんの少しだけ歩幅を緩めた。



商店街へ入る。


八百屋の前を通る。


「お、琴葉ちゃん」


「あ、こんにちは」


「大学帰り?」


「はい」


「澪ちゃんのとこ?」


「え?」


足が止まる。


「違うの?」


「いや……」


少しだけ視線を逸らす。


「行きますけど」


「やっぱり」


店主は笑う。


「最近よくいるもんな」


「そんなにいます?」


「いるいる」


「……」


琴葉は軽く頷いて、そのまま歩き出す。


背中に視線を感じながら、少しだけ早足になる。


店が見えてくる。


自然と、呼吸が少しだけ浅くなる。


カラン、カラン――。


「こんにちは」


店に入る。


返事がない。


「……?」


カウンターにも、ソファにも誰もいない。


静かな店内。


「店員さん?」


呼ぶと、奥から声が返る。


「琴葉ちゃん?」


「はい」


「ちょっと来て」


作業部屋の方だった。


琴葉はカウンターの奥へ回る。


扉の前で一瞬だけ立ち止まり、軽く息を整える。


「失礼します」


「どうぞ」


扉を開ける。


澪が机に向かっていた。


顔を上げる。


その瞬間、琴葉は眉を寄せる。


「……寝てます?」


「寝てるよ」


「何時間ですか?」


澪は少しだけ視線を逸らす。


「……」


「店員さん?」


「ちょっと」


「ちょっとって?」


「三時間くらい?」


琴葉は小さく息を吐く。


視線が机へ落ちる。


細かく並んだ部品。


削られた金属。


触れられた跡。


澪の手元に、自然と目が引き寄せられる。


「もしかして」


「うん?」


「ずっと、これやってたんですか?」


澪は肩をすくめる。


「……結構」


琴葉はわずかに眉を寄せたまま、机に近づく。


「どうだったんですか?」


「原因は分かった」


「本当ですか?」


澪が指す。


「ここ」


琴葉は顔を寄せる。


「……どこですか?」


「ここ」


さらに近づく。


「……」


「分かりません」


澪が小さく笑う。


「小さいからね」


琴葉はもう一度覗き込む。


「これですか?」


「それ」


「……」


しばらく見つめる。


「交換ですか?」


「本当ならね」


「部品は?」


澪は少しだけ視線を落とす。


「なかった」


琴葉の指先が、机の端で止まる。


「じゃあ」


澪が別の場所を指す。


そこに、小さな金属片。


「作った」


琴葉はそれをじっと見る。


そして、顔を上げる。


「澪さんが?」


言った瞬間。


空気が、ほんの少しだけ止まる。


琴葉の視線が揺れる。


澪も、ゆっくりと顔を上げる。


「……今」


「はい」


「名前で呼んだ?」


琴葉は一瞬だけ視線を外し、すぐに戻す。


「呼びました?」


「呼んだ」


「そうですか」


短い沈黙。


琴葉は軽く咳払いをして、視線を時計に戻す。


「それで」


少しだけ早口になる。


「これ、使えるんですか?」


「たぶん」


「……」


琴葉の眉がわずかに動く。


澪はルーペをつける。


工具を持つ手が、また静かに動き出す。


琴葉はその横に立ったまま、しばらく見ていた。


そして、少しだけ迷ってから口を開く。


「私」


澪の手が止まる。


「何かできます?」


琴葉は机の上を見たまま言う。


澪は少しだけ目を細める。


「手伝いたいの?」


琴葉は小さく頷く。


澪は一瞬だけ考えてから、トレーを指す。


「これ」


琴葉は覗き込む。


「……」


「種類ごとに」


琴葉はピンセットを手に取る。


「やってみます」


「落とさないでね」


琴葉の手が一瞬止まる。


「……」


澪が口元を緩める。


「大事だから」


琴葉は小さく息を吐く。


「緊張します」


「頑張れ、琴葉ちゃん」


琴葉はちらりと澪を見る。


「……」


「澪さん」


「はい」


「黙っててください」


澪が吹き出す。


「はいはい」


二人、並んで作業を始める。


静かな部屋。


工具の音。


小さな金属の触れ合う音。


琴葉はネジを分けながら、時々ちらりと澪の手元を見る。


澪は作業を続けながら、時々琴葉のトレーを覗く。


「琴葉ちゃん」


「はい?」


澪が指先で示す。


琴葉がそちらを見る。


「あっち」


「え?」


琴葉は慌てて見直す。


「……」


「難しい」


澪が肩をすくめる。


琴葉は小さく息を吐く。


「……」


「澪さん」


「はい」


「ちょっと黙っててください」


また、笑いがこぼれる。


そのまま、作業は続く。



一時間ほどして。


澪が小さく息を吐く。


「……よし」


琴葉が顔を上げる。


澪は頷くだけ。


部品を組み込む。


一つずつ、慎重に。


琴葉は息を止めるように見守る。


最後に、澪がリューズを回す。


静寂。


何も起きない。


琴葉の指先が、トレーの縁をぎゅっと掴む。


「……」


その瞬間。


チッ。


小さな音。


琴葉の目が大きく開く。


チッ。


チッ。


チッ。


秒針が動く。


二人とも、言葉を失う。


ただ、時計を見る。


ゆっくりと進む針。


止まっていた時間が、確かに動いている。


「……」


琴葉の口元が、わずかに緩む。


澪も、目を離さないまま小さく息を吐く。


「……よかった」


その声に、琴葉は顔を上げる。


澪はまだ時計を見ている。


琴葉は何も言わず、もう一度時計を見る。


小さく頷く。



それから数日、時計は店に置いたまま様子を見ることになった。


翌日。


「どうですか?」


「動いてる」


その次の日。


「どうですか?」


「動いてる」


さらにその次。


「どうですか?」


「元気」


琴葉がじっと見る。


澪が肩をすくめる。


「……」


そんなやり取りを繰り返しながら、琴葉はほとんど毎日のように店に顔を出した。


カウンターに肘をついて時計を覗き込む。


澪はその横で帳簿をつけながら、ときどき視線だけを向ける。


「……」


「……」


短い沈黙。


それだけなのに、妙に落ち着く。


一週間が過ぎた頃。


澪が時計を手に取って、軽く振った。


耳を近づける。


チッ、チッ、チッ。


一定のリズム。


澪が顔を上げる。


「大丈夫」


琴葉は小さく頷く。


「……」


その日の午後。


カラン、カラン――。


扉が開く。


あの男性が入ってくる。


「こんにちは」


澪が声をかける。


男性はまっすぐカウンターへ来る。


澪は箱を取り出し、そっと開ける。


中の時計を取り出して、カウンターに置く。


チッ、チッ、チッ。


音が、はっきりと聞こえる。


男性の手が止まる。


ゆっくりと時計を持ち上げる。


耳に近づける。


何度も確かめるように。


「……」


指でガラスをなぞる。


「……」


澪は何も言わない。


琴葉も、少し離れた場所で立ったまま。


男性は小さく息を吐く。


時計を見つめる。


やがて、腕に巻く。


少しぎこちない手つき。


でも、しっかりと留める。


「ありがとう」


「いえ」


澪が軽く頭を下げる。


男性は店内を見回す。


本棚、雑貨、ソファ。


そして澪を見る。


「お前のじいさんにも世話になった」


澪が少しだけ目を見開く。


「この時計、昔ここで直してもらったんだ」


澪は静かに頷く。


男性が奥を指す。


「走り回ってた」


琴葉が思わず笑う。


澪が振り返る。


琴葉は視線を逸らす。


男性も笑う。


澪は肩をすくめる。


男性はもう一度店を見渡す。


「変わらんな」


澪は何も言わない。


「ちゃんと残ってる」


その言葉に、澪はほんの少しだけ視線を落とす。


そして、すぐに顔を上げる。


男性は頷く。


「じいさん、喜んでるよ」


澪は小さく笑う。


カラン、カラン――。


男性が店を出る。


腕には時計。


その背中を、二人で見送る。


しばらく、何も言わない。


「……」


琴葉が小さく息を吐く。


澪も、わずかに頷く。


「……」


少しだけ間が空く。


「澪さん」


「ん?」


琴葉は窓の外を見たまま。


「……」


言葉を探すように、少しだけ黙る。


澪は何も言わず、待つ。


琴葉はゆっくりと頷く。


澪も、同じように頷く。


また少し沈黙。


「……あ」


琴葉が小さく声を出す。


「何?」


「私」


少しだけ視線を逸らす。


「……」


澪が首を傾げる。


琴葉は小さく笑う。


澪もつられて笑う。


店の中に、その声が広がる。


壁の時計が、静かに時を刻んでいる。


カチ、カチ、カチ。


止まっていたものが、また動き出す。


その音を聞きながら、琴葉はふと店の中を見渡す。


ここに来るようになって、まだそんなに時間は経っていない。


それでも。


少しだけ、居場所のように感じている自分がいる。


カラン、カラン――。


新しい客が入ってくる。


「いらっしゃいませー」


澪がいつもの調子で声をかける。


琴葉はその横顔を見て、小さく笑った。


(第二章 完)

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