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第二章 止まった時計と、動き出す時間(中編)



その日は、朝から雨が降っていた。


窓を叩く雨音を聞きながら、琴葉は大学の講義を受けていた。


教授の声。

ノートを取る音。

パソコンのキーボードを叩く音。


そして、窓の向こうで降り続ける雨。


「……」


琴葉は頬杖をつきそうになり、慌てて姿勢を戻した。


前を見る。

教授がスクリーンを指しながら説明を続けている。


ノートに文字を書きながら、ふと別のことを考えた。


(今日だったよね)


澪と約束した日。

あの腕時計の修理を見せてもらうことになっている。


『じゃあ今度』

『いいんですか?』

『邪魔しなければ』


それだけのやり取りだったのに、なぜか胸の奥に残っている。


思い出すたびに、ほんの少しだけ呼吸が浅くなる。

楽しみにしている、と認めるのが少しだけ照れくさい。


昨日、店に立ち寄ったとき。


「明日、時計見るけど。来る?」


何でもない調子で言われて、琴葉は迷わず答えていた。


「行きます」


そのとき、自分の声が思ったよりも軽く弾んでいたことを、あとから思い出した。


(修理なんて見たことないし)


そう思ったのは確かだ。

でも、それだけではない。


あの店に入ったときの、少しだけ温かい空気。

澪の、どこか力の抜けた声。

そして、オルゴールを直していたときの、あの真剣な横顔。


それらが、頭の中で静かに重なっている。


琴葉は窓の外を見る。


雨。


講義が終わったら、あの店へ行く。

そう考えた瞬間、胸の奥がほんの少しだけ軽くなる。


いつの間にか、その場所が「寄り道」ではなく、

帰る途中にある「行きたい場所」になっていた。



午後。


最後の講義が終わると、琴葉は自然と足早になっていた。


大学の建物を出て、傘を開く。

雨は朝よりも弱くなっている。


濡れたアスファルト。

水たまりに落ちる雨粒。

傘越しに聞こえる、やわらかな音。


その中で、自分の足音だけが少し速い。


(急いでる……?)


誰に言われたわけでもないのに。


大学からアパートまでは歩いて帰れる。

そして、その途中にあの店がある。


一人暮らしを始めたときは、ただ「近いから」という理由で選んだ場所だった。


けれど今は。


この道を歩く理由が、はっきりと増えている。


商店街に入ると、人通りはまばらだった。

雨の日特有の静けさが漂っている。


八百屋。

和菓子屋。

花屋。


そして、その先にある店。


琴葉は自然と足を止め、傘を閉じた。


胸の奥が、わずかに高鳴る。


カラン、カラン――。


「いらっしゃいませー」


いつもの声。


「あ、こんにちは」


傘を傘立てに入れると、澪がカウンターから顔を上げた。


「お疲れさま」


「何ですか、それ」


「大学帰りでしょ?」


「そうですけど」


「じゃあ、お疲れさま」


「……ありがとうございます」


琴葉は少し笑う。


その言葉が、思ったよりも深く胸に落ちる。


肩に残っていた緊張が、ふっとほどけるような感覚。

誰かに「帰ってきた」と受け止められたような、不思議な安心感。


一人暮らしをしていると、こういう何気ない一言は、

思っている以上に心に残る。


「濡れなかった?」


「少しだけ」


「タオルあるよ」


「大丈夫です」


「風邪ひかないでね」


「はい」


店内を見渡すと、今日は静かだった。


雨音だけが、やわらかく響いている。


その静けさが、どこか心地いい。


「今日は静かですね」


「雨だからね。みんな来ない」


「そうなんですか?」


「うん」


琴葉は少し笑う。


「じゃあ、私だけですね」


「そうだね。琴葉ちゃんだけ」


名前を呼ばれる。


その瞬間、胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。

ここに自分の居場所が、少しずつできているような感覚。


それが、嬉しいと感じている自分に気づく。


「時計」


琴葉は切り出す。


「見ますか?」


「見る?」


「そのために来たんです」


「そうだった」


「忘れてたんですか?」


「忘れてないよ」


「本当ですか?」


「半分くらい覚えてた」


「半分じゃないですか」


澪は笑った。


「冗談」


そしてカウンターの奥を指す。


「じゃあ、こっち来る?」


「はい」


琴葉は初めて、カウンターの内側へ足を踏み入れた。


その瞬間、空気が変わる。


客として立っていた場所とは違う、少しだけ踏み込んだ領域。

その一歩が、思っていたよりも大きく感じられる。


胸の奥が、わずかに高鳴る。



そこは、店とは別の時間が流れているような空間だった。


六畳ほどの小さな部屋。

中央には大きな木製の机。

壁には棚と、整然と並べられた工具。


扉をくぐった瞬間、空気が変わる。


金属と油の混ざった匂い。

静かな緊張感。


ここは、ただの作業場ではない。


時間を扱う場所だと、直感的に分かる。


「すごい……」


思わず声が漏れる。


視線が自然と引き寄せられる。


細いドライバー。

鋭いピンセット。

整然と並ぶ歯車。


どれも小さく、繊細で、壊れやすそうなのに、

確かに「時間」を動かすためのものだと感じられる。


「ここで修理してるんですか?」


「うん」


澪が照明をつける。


白い光が机を照らす。


その光の中で、工具や部品がはっきりと浮かび上がる。


店の柔らかさとは違う、集中のための空間。


琴葉は棚に目を向ける。


そこに、一枚の古い写真があった。


店の前に立つ男性。


「……この人」


「ああ。おじいちゃん」


「この店やってた人」


琴葉は写真を見つめる。


優しそうで、少し頑固そうな顔。


この部屋の空気と、どこか繋がっている気がする。


「店員さんに似てますね」


「え?」


「なんとなく。雰囲気?」


「適当だなあ」


二人は笑った。


「修理も、おじいさんから?」


澪は少しだけ間を置いて、頷いた。


「うん。教えてもらった」


その声には、静かな温度があった。


琴葉はそれを感じ取る。


この場所も、この技術も、

ただの仕事ではなく、受け継がれてきたものだと分かる。


それ以上は聞かなかった。


今はまだ、そこに踏み込むべきではない気がしたから。


「さて」


澪が手を叩く。


空気が切り替わる。


「時計」


琴葉も自然と姿勢を正した。


布に包まれた腕時計が机に置かれる。


布を開くと、止まった時計が現れる。


その瞬間、琴葉の呼吸が少しだけ浅くなる。


「まず、状態を見る」


「はい」


作業が始まる。


裏蓋が外れ、内部が露わになる。


「……すごい」


思わず息を呑む。


無数の歯車。

精密に噛み合う構造。


こんなにも小さな世界が、時間を刻んでいた。


そして今、それが止まっている。


澪の指先が動く。


正確で、無駄がない。

それでいて、壊さないように極限まで抑えられた力。


その動きを見ていると、自然と息を止めてしまう。


(すごい……)


ただの興味ではない。


この人は、ただ直しているわけではない。


大切に扱っている。


時間そのものを。


澪の横顔を見る。


静かで、真剣で、揺るがない。


その姿を見ていると、胸の奥がじんわりと熱くなる。


最初は「見てみたい」だった。


でも今は違う。


(もっと知りたい)


どうしてこんなふうに向き合えるのか。

どうしてこんなに丁寧に扱えるのか。


その理由を知りたいと思っている自分に気づく。



やがて、店のベルが鳴る。


澪が席を立ち、店へ戻る。


琴葉は一人、作業部屋に残る。


静かな空間。

止まった時計。


さっきまで澪が触れていた場所に、まだ温度が残っている気がする。


外から英語の会話が聞こえる。


その声を聞きながら、琴葉は時計を見る。


大学で学んでいること。

ここで見ているもの。


全然違うはずなのに、どこかで繋がっている気がする。


知識ではなく、手で触れて、時間を動かすこと。


その違いが、はっきりと感じられる。


(また見たい)


自然にそう思う。


最初は興味だった。


次に、安心感を覚えた。


そして今は――


ここに関わりたい、という気持ちに変わり始めている。



帰り道。


雨はまだ降っていたが、どこか柔らかくなっていた。


琴葉は傘を差しながら、ゆっくり歩く。


足取りは、来たときよりも軽い。


今日、澪のことを少し知った。


でも同時に、知らないことも増えた。


それでもいいと思う。


むしろ、その「知らない」が、次にここへ来る理由になる。


胸の奥に、小さな灯りのようなものがある。


最初はただの興味だった。


それが、安心に変わり、

そして今は、期待と憧れへと形を変えている。


(また行こう)


自然にそう思える。


店の奥では、澪が一人、時計を見つめている。


受け継いだ手で。


止まった時間を、もう一度動かすために。


その姿を思い浮かべると、胸の奥が少しだけ温かくなる。


静かに、確かに。


時間は流れ続けていた。


そして琴葉の中でも、

興味から始まった感情が、ゆっくりと形を変えながら動き始めていた。


(第二章後編に続く)

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