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第二章 止まった時計と、動き出す時間(前編)


それから琴葉は、ときどき店に立ち寄るようになった。


毎日ではないし、決まった日でもない。講義が早く終わった日や、買い物まで時間がある日、なんとなく歩きたい気分の日。理由があるときも、ないときもあった。


大学の正門を出て交差点に立つ。まっすぐ行けばスーパーとアパート、右へ曲がれば商店街。


少し迷ってから、結局右へ進む。


(今日も、行くんだ)


理由ははっきりしない。でも足は自然とそちらへ向かっていた。


店の前で黒板を見る。


『本と雑貨。

 それから、ちょっと休憩。

 見るだけでもどうぞ。』


それを確認してから扉を開ける。


カラン、カラン――。


「いらっしゃいませー」


その声を聞くと、自然と肩の力が抜ける。


「あ、こんにちは」


「こんにちは」


本棚の向こうから顔を出す店員。名前はまだ知らないが、もう見慣れた存在だった。



「また来たの?」


奥のソファから声がかかる。初日に話しかけてきた年配の女性だ。


「こんにちは」


「座ったら?」


促されて隣に座る。


「大学帰り?」


「はい」


「今日は早いのね」


「午後が休講で」


「いいじゃない。休めるときに休みなさい」


女性は笑い、琴葉もつられて笑う。


そのとき、湯気の立つカップが差し出された。


「どうぞ」


「……お茶ですか?」


「見れば分かるでしょ」


「どうして?」


「この人が出してあげてって」


店員が女性を指す。


「琴葉ちゃんにもって」


「え?」


思考が一瞬止まる。


「琴葉ちゃんでしょ?」


女性が当然のように言う。


「前に聞いたわよ」


どうやら初日に話していたらしい。


少し戸惑いながらも、覚えられていたことに不思議な温かさを感じる。


「この人、一回聞いたこと覚えてるから」


「近所の人の誕生日までね」


女性が胸を張る。


「私のは去年忘れてましたけど」


「今年まとめて祝うわ」


軽いやり取りに笑いながら、琴葉はカップを手に取る。


温かい。


ふと店員を見る。


「私の名前、知ってたんですね」


「今知った」


「今?」


「この人が言ったから」


そう言って、店員は琴葉を見る。


「琴葉ちゃん」


名前を呼ばれる。


胸の奥が、ほんの少しだけ揺れる。


「……はい」


「覚えた」


その言葉に、少し照れる。


「私、まだ名前知らないです」


奥で新聞を読んでいた男性が顔を上げる。


「まだ知らなかったのか」


「聞かれなかったから」


店員はあっさり言う。


「普通は名乗るでしょ」


「まあね」


女性が笑う。


「ずっと店員さんって呼んでたものね」


琴葉は少し気まずくなる。


「別にいいけど」


「いいんですか?」


「うん」


「じゃあ、名前」


店員は姿勢を正す。


「朝倉澪」


琴葉はその名前を繰り返す。


「……澪さん」


少しだけためらいながら口にする。


「そう」


澪は笑う。


「改めまして」


手を差し出す。


「朝倉澪です」


「今さらですか?」


「今さら」


琴葉も手を出す。


「小宮山琴葉です」


「知ってる」


「さっき覚えたんですよね?」


「ちゃんと覚えた」


握手を交わす。


女性の一言に、店に笑いが広がる。


その日から、澪は自然に「琴葉ちゃん」と呼ぶようになった。


けれど琴葉は、まだ「店員さん」と呼び続けていた。



名前を知っても、店の空気は変わらない。


琴葉は相変わらず何も買わず、ただ過ごす。


ある日、ノートパソコンを開きながら言った。


「Wi-Fiあるんですね」


「あるよ」


「じゃあ課題できますね」


「どうぞ」


「何時間いても?」


「閉店まで」


「追い出されるんですね」


「帰らないと私も帰れないから」


二人は笑う。


キーボードの音が店に響く。客が来れば澪が応対する。その気配が心地いい。


ふと手を止め、店内を見渡す。


ここ、好きかもしれない。


そう思ったときだった。


カラン、カラン。


一人の男性が入ってきた。


七十代くらい。手には小さな紙袋。


その袋は、ただの紙袋のはずなのに、どこか重たく見えた。中に入っているものの重さではなく、長い時間を抱え込んでいるような、そんな沈黙をまとっている。


「久しぶり」


「そうですね」


男性は袋を差し出す。


「これを見てほしい」


澪は受け取り、ゆっくりと中身を取り出す。


布に包まれたそれをほどいた瞬間、店の空気がわずかに変わった。


現れたのは古い腕時計だった。


革ベルトはひび割れ、金属には細かな傷。長い年月を経たことが一目で分かる。そして何より――


針が、止まっている。


ただ止まっているだけではない。


まるで、その瞬間から時間そのものが閉じ込められてしまったかのように、静かに、確かに、動きを拒んでいた。


「動かない?」


「ああ。二十年以上」


琴葉の手が止まる。


二十年。


それは、ただの故障の時間ではない。


誰かの人生の一部が、そのまま止まっている時間だった。


男性は時計を見つめる。


「捨てようと思った。でも捨てられなかった」


その言葉は、時計に向けられているようでいて、もっと別のものに触れているようにも聞こえた。


澪は黙って受け取る。


「奥さんのものですか?」


「ああ。二十五年前に亡くなった」


店が静まる。


時計の止まった時間と、男性の語る時間が、静かに重なる。


「最近、孫が生まれてな。女の子だ」


男性は時計をなぞる。


その指先は、ただ金属に触れているのではなく、過去に触れているようだった。


「妻が生きてたら」


言葉はそこで途切れる。


けれど、その続きを誰もが想像できた。


会わせたかった。


その時間を、もう一度動かしたかった。


「この時計、もう一度動くか?」


その問いは、単なる修理の依頼ではなかった。


止まった針が動くこと。


それは、過去と現在をつなぎ直すことなのかもしれない。


澪はすぐには答えない。


裏を見て、リューズを回し、耳を近づける。


沈黙。


時計は何も語らない。


けれど、その沈黙の中に、確かに何かが残っているようだった。


「預からせてください」


「直るか?」


「まだ分かりません。でも――」


澪は一度、時計を見つめ直す。


「止まったままにしておくよりは、動かせるかどうか、確かめたいです」


男性はしばらく見つめ、ゆっくり頷く。


「頼む」


澪は時計を布で包む。


その仕草は、ただの作業ではなく、時間そのものを扱うような慎重さを帯びていた。


男性が店を出る。


カラン、カラン――。


扉の音が消えたあとも、店の中には、まだ時計の静けさが残っていた。



「難しそうですね」


琴葉は、カウンターに置かれた時計を見ながら言う。


「うん」


「直せそうですか?」


「分かんない」


「またそれですか」


「分かんないものは分かんないから」


「正直ですね」


「期待させるの嫌だから」


少し間を置いて、澪が続ける。


「でも、できることはやる」


時計に触れる。


その指先は、さっきよりも少しだけ慎重だった。


「これ、ただの時計じゃないから」


琴葉はその言葉に、静かに頷く。


「……はい」


「時間が止まってるのは、針だけじゃない気がする」


澪は小さく言う。


琴葉は時計を見る。


止まった針。


動かない秒針。


けれど、その奥にあるものは、まだ終わっていないように思えた。


「その時計、直すところ見てみたいです」


「修理?」


「はい」


「地味だよ」


「でも興味あります」


澪は少し考えてから笑う。


「じゃあ今度」


「いいんですか?」


「邪魔しなければ」


「しません」


「本当に?」


「たぶん」


二人は笑う。


けれど琴葉の視線は、もう一度時計へと戻る。


あの止まった針が、もし動き出したら。


それはただの修理では終わらない気がした。


何かが、変わる。


誰かの時間が、もう一度進み始める。


そして――


もしかしたら、自分の中の何かも。


まだ言葉にはできない予感だけが、静かに胸に残る。


ただ一つ確かなのは――


澪が「琴葉ちゃん」と呼ぶようになったこと。


そして琴葉が、その名前を知ったこと。


朝倉澪。


まだ少し照れくさい。


だからもう少しだけ「店員さん」。


けれどいつか、「澪さん」と呼ぶ日が来る。


止まっていた時計が動き出すように。


止まっていた時間が、誰かの中でほどけていくように。


二人の時間も、確かに進み始めていた。


そしてその中心には――


あの、止まったままの腕時計がある。


まだ動かない針が、これから何を動かすのか。


その答えは、これから少しずつ明らかになっていく。


(第二章中編に続く)

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