第二章 止まった時計と、動き出す時間(前編)
それから琴葉は、ときどき店に立ち寄るようになった。
毎日ではないし、決まった日でもない。講義が早く終わった日や、買い物まで時間がある日、なんとなく歩きたい気分の日。理由があるときも、ないときもあった。
大学の正門を出て交差点に立つ。まっすぐ行けばスーパーとアパート、右へ曲がれば商店街。
少し迷ってから、結局右へ進む。
(今日も、行くんだ)
理由ははっきりしない。でも足は自然とそちらへ向かっていた。
店の前で黒板を見る。
『本と雑貨。
それから、ちょっと休憩。
見るだけでもどうぞ。』
それを確認してから扉を開ける。
カラン、カラン――。
「いらっしゃいませー」
その声を聞くと、自然と肩の力が抜ける。
「あ、こんにちは」
「こんにちは」
本棚の向こうから顔を出す店員。名前はまだ知らないが、もう見慣れた存在だった。
*
「また来たの?」
奥のソファから声がかかる。初日に話しかけてきた年配の女性だ。
「こんにちは」
「座ったら?」
促されて隣に座る。
「大学帰り?」
「はい」
「今日は早いのね」
「午後が休講で」
「いいじゃない。休めるときに休みなさい」
女性は笑い、琴葉もつられて笑う。
そのとき、湯気の立つカップが差し出された。
「どうぞ」
「……お茶ですか?」
「見れば分かるでしょ」
「どうして?」
「この人が出してあげてって」
店員が女性を指す。
「琴葉ちゃんにもって」
「え?」
思考が一瞬止まる。
「琴葉ちゃんでしょ?」
女性が当然のように言う。
「前に聞いたわよ」
どうやら初日に話していたらしい。
少し戸惑いながらも、覚えられていたことに不思議な温かさを感じる。
「この人、一回聞いたこと覚えてるから」
「近所の人の誕生日までね」
女性が胸を張る。
「私のは去年忘れてましたけど」
「今年まとめて祝うわ」
軽いやり取りに笑いながら、琴葉はカップを手に取る。
温かい。
ふと店員を見る。
「私の名前、知ってたんですね」
「今知った」
「今?」
「この人が言ったから」
そう言って、店員は琴葉を見る。
「琴葉ちゃん」
名前を呼ばれる。
胸の奥が、ほんの少しだけ揺れる。
「……はい」
「覚えた」
その言葉に、少し照れる。
「私、まだ名前知らないです」
奥で新聞を読んでいた男性が顔を上げる。
「まだ知らなかったのか」
「聞かれなかったから」
店員はあっさり言う。
「普通は名乗るでしょ」
「まあね」
女性が笑う。
「ずっと店員さんって呼んでたものね」
琴葉は少し気まずくなる。
「別にいいけど」
「いいんですか?」
「うん」
「じゃあ、名前」
店員は姿勢を正す。
「朝倉澪」
琴葉はその名前を繰り返す。
「……澪さん」
少しだけためらいながら口にする。
「そう」
澪は笑う。
「改めまして」
手を差し出す。
「朝倉澪です」
「今さらですか?」
「今さら」
琴葉も手を出す。
「小宮山琴葉です」
「知ってる」
「さっき覚えたんですよね?」
「ちゃんと覚えた」
握手を交わす。
女性の一言に、店に笑いが広がる。
その日から、澪は自然に「琴葉ちゃん」と呼ぶようになった。
けれど琴葉は、まだ「店員さん」と呼び続けていた。
*
名前を知っても、店の空気は変わらない。
琴葉は相変わらず何も買わず、ただ過ごす。
ある日、ノートパソコンを開きながら言った。
「Wi-Fiあるんですね」
「あるよ」
「じゃあ課題できますね」
「どうぞ」
「何時間いても?」
「閉店まで」
「追い出されるんですね」
「帰らないと私も帰れないから」
二人は笑う。
キーボードの音が店に響く。客が来れば澪が応対する。その気配が心地いい。
ふと手を止め、店内を見渡す。
ここ、好きかもしれない。
そう思ったときだった。
カラン、カラン。
一人の男性が入ってきた。
七十代くらい。手には小さな紙袋。
その袋は、ただの紙袋のはずなのに、どこか重たく見えた。中に入っているものの重さではなく、長い時間を抱え込んでいるような、そんな沈黙をまとっている。
「久しぶり」
「そうですね」
男性は袋を差し出す。
「これを見てほしい」
澪は受け取り、ゆっくりと中身を取り出す。
布に包まれたそれをほどいた瞬間、店の空気がわずかに変わった。
現れたのは古い腕時計だった。
革ベルトはひび割れ、金属には細かな傷。長い年月を経たことが一目で分かる。そして何より――
針が、止まっている。
ただ止まっているだけではない。
まるで、その瞬間から時間そのものが閉じ込められてしまったかのように、静かに、確かに、動きを拒んでいた。
「動かない?」
「ああ。二十年以上」
琴葉の手が止まる。
二十年。
それは、ただの故障の時間ではない。
誰かの人生の一部が、そのまま止まっている時間だった。
男性は時計を見つめる。
「捨てようと思った。でも捨てられなかった」
その言葉は、時計に向けられているようでいて、もっと別のものに触れているようにも聞こえた。
澪は黙って受け取る。
「奥さんのものですか?」
「ああ。二十五年前に亡くなった」
店が静まる。
時計の止まった時間と、男性の語る時間が、静かに重なる。
「最近、孫が生まれてな。女の子だ」
男性は時計をなぞる。
その指先は、ただ金属に触れているのではなく、過去に触れているようだった。
「妻が生きてたら」
言葉はそこで途切れる。
けれど、その続きを誰もが想像できた。
会わせたかった。
その時間を、もう一度動かしたかった。
「この時計、もう一度動くか?」
その問いは、単なる修理の依頼ではなかった。
止まった針が動くこと。
それは、過去と現在をつなぎ直すことなのかもしれない。
澪はすぐには答えない。
裏を見て、リューズを回し、耳を近づける。
沈黙。
時計は何も語らない。
けれど、その沈黙の中に、確かに何かが残っているようだった。
「預からせてください」
「直るか?」
「まだ分かりません。でも――」
澪は一度、時計を見つめ直す。
「止まったままにしておくよりは、動かせるかどうか、確かめたいです」
男性はしばらく見つめ、ゆっくり頷く。
「頼む」
澪は時計を布で包む。
その仕草は、ただの作業ではなく、時間そのものを扱うような慎重さを帯びていた。
男性が店を出る。
カラン、カラン――。
扉の音が消えたあとも、店の中には、まだ時計の静けさが残っていた。
*
「難しそうですね」
琴葉は、カウンターに置かれた時計を見ながら言う。
「うん」
「直せそうですか?」
「分かんない」
「またそれですか」
「分かんないものは分かんないから」
「正直ですね」
「期待させるの嫌だから」
少し間を置いて、澪が続ける。
「でも、できることはやる」
時計に触れる。
その指先は、さっきよりも少しだけ慎重だった。
「これ、ただの時計じゃないから」
琴葉はその言葉に、静かに頷く。
「……はい」
「時間が止まってるのは、針だけじゃない気がする」
澪は小さく言う。
琴葉は時計を見る。
止まった針。
動かない秒針。
けれど、その奥にあるものは、まだ終わっていないように思えた。
「その時計、直すところ見てみたいです」
「修理?」
「はい」
「地味だよ」
「でも興味あります」
澪は少し考えてから笑う。
「じゃあ今度」
「いいんですか?」
「邪魔しなければ」
「しません」
「本当に?」
「たぶん」
二人は笑う。
けれど琴葉の視線は、もう一度時計へと戻る。
あの止まった針が、もし動き出したら。
それはただの修理では終わらない気がした。
何かが、変わる。
誰かの時間が、もう一度進み始める。
そして――
もしかしたら、自分の中の何かも。
まだ言葉にはできない予感だけが、静かに胸に残る。
ただ一つ確かなのは――
澪が「琴葉ちゃん」と呼ぶようになったこと。
そして琴葉が、その名前を知ったこと。
朝倉澪。
まだ少し照れくさい。
だからもう少しだけ「店員さん」。
けれどいつか、「澪さん」と呼ぶ日が来る。
止まっていた時計が動き出すように。
止まっていた時間が、誰かの中でほどけていくように。
二人の時間も、確かに進み始めていた。
そしてその中心には――
あの、止まったままの腕時計がある。
まだ動かない針が、これから何を動かすのか。
その答えは、これから少しずつ明らかになっていく。
(第二章中編に続く)




