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第一章 名前の知らない店員さん(後編)


「……そろそろ帰らないと」


琴葉が呟いたとき、店の外はすでに夕方だった。


ガラス窓から差し込む橙色の光が、棚に並ぶ本や雑貨の輪郭をやわらかく縁取っている。埃の粒が光の中でゆっくりと漂い、時間そのものが少しだけ遅く流れているように見えた。


壁の時計に目をやると、針は思っていたよりもずっと先へ進んでいる。


(こんなに長くいたんだ)


ほんの少し立ち寄るつもりだったはずなのに。


気づけば、ここにいる時間が当たり前のように積み重なっていた。


「こんな時間……」


「帰る?」


カウンターの向こうで、澪が顔を上げる。


「あ、はい。夕飯の買い物をしないと」


「何作るの?」


「カレーです。……たぶん」


「たぶん?」


「弟にカレーにしろって言われたので」


澪はくすっと笑った。


「弟くん、強いね」


「強いです。離れて暮らしてるのに、夕飯まで決められます」


「仲いいんだね」


「どうなんでしょう」


「いいでしょ」


即答に、琴葉は思わず笑う。


「そう見えます?」


「うん。メッセージ見て笑ってたし」


「あ……」


少し恥ずかしくなる。


「弟の話してるとき、楽しそうだったよ」


その言葉に、琴葉は少しだけ考えてから頷いた。


「……そうかもしれません」


「じゃあ今日はカレーだ」


「決定なんですか?」


「嫌いじゃないでしょ?」


「……好きですけど」


「じゃあ決まり」


「なんで店員さんまで弟側なんですか」


二人で笑う。


初めて会ったばかりなのに、こんなふうに自然に話していることが、少し不思議だった。


(なんだろう、この感じ)


(知らない場所のはずなのに、少しだけ安心してる)


(ここにいると、肩の力が抜ける)


「じゃあ」


琴葉は入口へ向かう。その途中で、カウンターのオルゴールに目が止まった。


「気になる?」


「あ……ちょっと」


「直るといいんだけどね」


「難しいんですか?」


「まだ分かんないけど、夜に見てみる」


「閉店してからですか?」


「そのほうが集中できるから」


澪は軽く肩をすくめる。


「好きだからね」


「修理が?」


「うん。動かなかったものが、もう一回動き出す瞬間が好き」


オルゴールを見つめながら、澪は続ける。


「持ち主のところに戻せるし」


「……いいですね」


琴葉は素直にそう思った。


(壊れたものが、また動くようになる)


(それを待ってる人がいるって、なんだか……いいな)


「直るといいですね」


「頑張る」


琴葉は扉に手をかける。


カラン、とベルが鳴り、外の少し冷たい空気が流れ込んだ。


一歩外へ出て、ふと振り返る。


店の中は、さっきまでと同じように静かで、やわらかな光に包まれている。


(帰るだけなのに、なんでこんなに名残惜しいんだろう)


(まだ、ここにいたいって思ってる)


「あの」


「ん?」


「また来てもいいですか?」


澪は一瞬驚いたあと、すぐに笑った。


「もちろん。いつでもどうぞ」


「何も買わないかもしれません」


「いいよ」


「本もそんなに読まないので」


「私も」


「店員さんが言うんですか?」


「本当に読まないんだって」


また笑いがこぼれる。


「じゃあ、また」


「うん。またね」


カラン、と扉が閉まる。


琴葉は商店街を歩きながら、一度だけ振り返った。


ガラス越しに見える店と、カウンターのオルゴール。


(また来てもいいって言ってくれた)


(それだけで、なんだかほっとしてる)


「……直るかな」


そう呟いて、歩き出した。



その夜、部屋にはカレーの匂いが広がっていた。


「いただきます」


写真を撮って弟に送ると、すぐに返信が来る。


『やった』


「何がやったなの」


笑っていると、ビデオ通話がかかってきた。


「もしもし」


『お姉ちゃん!』


「近い」


『カレー?』


「カレー」


『みせて』


「送ったでしょ」


『うごいてるの』


「カレーは動かないよ」


軽口を交わしながら、カメラを向ける。


『おいしそう』


「おいしいよ」


『ぼくもたべたい』


「昨日食べたでしょ?」


『きのう』


「そうだっけ?」


笑いながら、弟の質問に答える。


『今日なにしてた?』


「大学と……あと、変なお店見つけた」


『へんなおみせ?』


「何屋さんか分かんないの」


『へんなの』


「だから変なお店なの」


『またいく?』


少しだけ考えてから、琴葉は答えた。


「……うん」


(行きたい、って思ってる)


(理由はうまく言えないけど、あの場所が気になる)


『ともだち?』


「違うよ。今日初めて会ったんだから」


『なまえは?』


「知らない」


『しらないの?』


「聞いてないから」


『つぎきいて』


「そのうちね」


通話を終えたあと、母や父とも少し話す。


電話を切ると、部屋は静かになった。


ベッドに横になり、天井を見上げる。


ふと、オルゴールのことを思い出した。


「……今頃、直してるのかな」


(ちゃんと直るといいな)


(あの人なら、きっと直してくれる気がする)


(……また、見に行こう)



同じころ、店の奥では澪が作業灯の下でオルゴールを分解していた。


「……なるほど」


古い歯車を慎重に外し、動きの悪い部分を確認する。


「これか」


原因に当たりをつけ、工具を動かす。


静かな店内に、時計の音だけが響く。


ふと、昼間のことを思い出した。


「店員さん、か」


少しだけ笑う。


この店でそう呼ばれるのは、久しぶりだった。


「……新鮮」


そう呟いて、再び作業に戻る。



翌日も、その次の日も、琴葉はふとした瞬間に店のことを思い出した。


三日目の帰り道。


いつもの交差点で立ち止まり、少しだけ迷う。


(行く必要はないよね)


(でも……ちょっとだけなら)


(あの店、どうなってるかな)


そして、右へ曲がった。


「ちょっとだけ」


商店街を抜け、あの店の前に立つ。


黒板の文字は変わらない。


(ちゃんとある)


(なくなってなくて、よかった)


扉を開ける。


カラン、とベルが鳴る。


「いらっしゃいませー」


同じ声に、少し安心する。


(あ、よかった)


(ちゃんといる)


本棚の向こうから澪が顔を出した。


「あ」


「こんにちは」


「こんにちは」


「本当に来た」


「え?」


「また来るって言ってたから」


覚えていてくれたことが、少し嬉しい。


(覚えてくれてた)


(それだけで、なんだか来てよかったって思える)


「来ました」


「いらっしゃい」


琴葉は店に入り、すぐにカウンターを見る。


「あ」


オルゴールが箱に収まっている。


「店員さん、オルゴール」


「直ったよ」


「え?」


澪が箱を開け、ネジを回す。


やわらかな音が流れ出した。


琴葉は思わず息をのむ。


「……すごい」


「でしょ?」


少し得意げな澪に、琴葉は笑う。


「本当に直ったんですね」


「頑張った」


「すごいです」


「もっと褒めていいよ」


「自分で言うんですか」


二人で笑った、そのとき。


カラン、と扉が開く。


オルゴールの持ち主が現れた。


澪は静かにオルゴールを鳴らす。


音を聞いた女性は、言葉を失ったまま立ち尽くす。


やがて、小さく息を漏らした。


「この音……」


目が潤む。


「この音だった」


澪は何も言わず、オルゴールを差し出す。


女性は大切そうに受け取り、胸に抱いた。


「ありがとう」


「いえ」


「本当に、ありがとう」


女性が帰ったあと、琴葉はぽつりと言った。


「いい仕事ですね」


澪は少し驚いてから、照れたように笑う。


「そう?」


「はい。すごく」


「ありがとう」


その日も、琴葉は少しだけ店に残った。


本を眺め、雑貨を見て、常連の会話を聞く。


そして帰るとき。


「じゃあ、また」


「うん。またね」


カラン、と扉が閉まる。


春の夕方の風は、少しだけ暖かかった。


(また来るって、自然に思えてる)


(理由なんてなくてもいいのかもしれない)


オルゴールは直った。


誰かの大切なものが、もう一度音を取り戻した。


琴葉は思う。


また来よう、と。


(ここに来ると、少しだけ気持ちが軽くなる)


(だから、また来たい)


まだ名前は知らない。


それでもいい。


今はまだ、「店員さん」で。


店の中で、澪は窓越しに琴葉の背中を見送る。


夕暮れの光が、彼女の輪郭を淡く溶かしていく。


「……またね」


その言葉は、誰に聞かせるでもなく、静かに店の中へ落ちた。


二人はまだ、お互いの名前を知らない。


けれど、もう一度会うことだけは、どこかで確かに決まっている。


壊れたものが直るように。


止まっていた時間が、少しずつ動き出すように。


この場所で、また交わる。


大学二年生の春。


小宮山琴葉と朝倉澪。


まだ「店員さん」と「名前を知らない大学生」。


けれどその距離は、確かに一歩だけ近づいていた。


そして――


この店の扉を開けるたびに、


二人の時間は、少しずつ重なっていく。


(第一章 完)

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