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第一章 名前の知らない店員さん(中編)



店の中を歩き始めて、琴葉はすぐに気づいた。


外から見たときよりも、ずっと広い。


正確には、広いというより――奥行きがある。


入口付近には雑貨が並び、奥へ進むほど本棚が増えていく。


右も左も本。


けれど、ただの古書店とは違う。


本棚の間には、小さな棚が置かれ、そこに並ぶのは――


ガラスの小瓶、古いカメラ、木彫りの動物、色とりどりのボタン、手作りのアクセサリー。


どれも控えめなのに、なぜか目を引く。


「……不思議」


琴葉は小さく呟いた。


物が「置かれている」というより、「そこにいる」ような感覚。


琴葉は一冊の古い小説を手に取る。


ページをめくると、紙の匂いがふわりと広がる。


けれど、数ページで閉じた。


本が嫌いなわけではない。


ただ、好きとも言い切れない。


「古書店、か」


本を棚に戻した、そのとき。


「それ、面白いよ」


背後から声がした。


振り返ると、新聞を読んでいた年配の男性――常連客の一人が立っていた。


「若いころ読んだなあ」


「そうなんですか?」


「ああ。内容は忘れたけどな」


「え?」


「面白かったことだけ覚えてる」


琴葉が戸惑っていると、別の声が割り込む。


「それは読んだって言わないでしょ」


声の主は、若い女性――この店の店員、澪だった。


本を数冊抱えながら、呆れたように言う。


「四十年前だぞ?」


「じゃあ内容くらい覚えててくださいよ」


「無理だ」


澪はため息をつき、琴葉を見る。


「この子に勧めるのは無責任でしょ」


「じゃあ店員が説明してやれ」


「私?」


澪は本を見つめる。


沈黙。


そして。


「ごめんなさい、読んだことない」


「え?」


琴葉が驚くと、男性が笑う。


「この子、本読まないから」


「読まないわけじゃないです!」


「じゃあ最近何読んだ?」


澪は少し考えてから答える。


「取扱説明書」


「それは本じゃない」


琴葉は思わず笑った。


澪が振り向く。


「笑った?」


「すみません」


「いいけど」


澪は肩をすくめる。


「本のことなら、あっちのおじさんのほうが詳しいですよ」


「おじさん言うな」


「じゃあお兄さん?」


「それは無理がある」


店内に、軽い笑いが広がる。


琴葉は気づく。


ここは、初めて来た場所なのに、どこか居心地がいい。


そのとき。


「あら、見ない顔ね」


奥のソファから声がした。


年配の女性――もう一人の常連客だ。


「初めて来ました」


「学生さん?」


「はい」


「大学? 一人暮らし? どこから来たの?」


質問が止まらない。


琴葉が困っていると、澪が間に入る。


「はいはい、質問攻めにしない」


「いいじゃない」


「よくないです」


澪は琴葉に向き直る。


「ごめんね。この人、悪い人じゃないんだけど距離が近いの」


「何よそれ」


結局、二人とも笑っている。


「ゆっくりしていきなさいね」


「はい」


「お茶は?」


「勝手にサービス増やさないでください」


「澪ちゃんが淹れればいいじゃない」


「私じゃないですか」


そのやり取りを見て、琴葉はふと思う。


――この人、店員なんだ。


でも、名前は知らない。


「あの」


「はい?」


「店員さん」


その呼び方に、店内の空気が少しだけ変わる。


新聞の男性が顔を上げ、年配の女性がくすっと笑う。


澪は自分を指差した。


「私?」


「はい」


「……間違ってない」


澪は少しだけ笑った。


「それで?」


「このお店、いつもこんな感じなんですか?」


琴葉が店内を見渡す。


本、雑貨、ソファ、常連客。


「皆さん、普通に……いるというか」


澪は頷く。


「いますね」


「何も買わなくても?」


「買わない日のほうが多い人もいる」


「俺のことか?」


新聞の男性が言う。


「自覚あるんですね」


「ここが落ち着くんだよ」


澪は慣れた様子で受け流す。


琴葉はさらに尋ねる。


「どうして、こういうお店なんですか?」


澪は一瞬だけ表情を変えた。


「昔から、こういう店だったから」


「店員さんが?」


「違うよ」


少し柔らかい声で言う。


「おじいちゃん」


それ以上は語らない。


琴葉も、それ以上は聞かなかった。


「まあ」


澪は両手を広げる。


「本屋なのか、雑貨屋なのか、休憩所なのか……私もよく分からない」


「店員さんが分からないんですか?」


「うん。でも、これでいいかなって」


その言葉に、琴葉は納得する。


確かに、この空気は悪くない。


そのとき。


カラン、カラン――。


入口のベルが鳴る。


「こんにちは」


入ってきたのは、箱を抱えた女性。


常連客の一人らしい。


「今日はどうしたの?」


「これ、見てもらえる?」


澪が箱を受け取る。


中には、小さなオルゴール。


古いが、大切にされてきたことが分かる。


澪は慎重に手に取り、ネジを回す。


カチ、と音はするが、音楽は鳴らない。


その表情は、先ほどまでとは違う。


真剣で、丁寧で、静かだ。


琴葉は思わず声をかける。


「店員さん、それ直すんですか?」


「うん」


「できるんですか?」


「分かんない」


あっさり答える。


「でも、原因が分かれば直せるかもしれない」


持ち主の女性が不安そうに言う。


「主人からもらったものなの」


店内が静かになる。


「結婚する前に、初めてくれたプレゼント」


「……亡くなって?」


「ええ」


澪はただ頷く。


慰めも、気休めも言わない。


ただ、オルゴールを見つめる。


そして言う。


「預からせてください」


「大丈夫?」


「絶対とは言えない。でも、やってみます」


女性は頷く。


「大切なものなの」


「うん」


澪は静かに答える。


「大切に預かります」


琴葉は、その言葉を胸に刻む。


この店は、ただの店じゃない。


「大切なもの」を預かる場所だ。


女性が帰り、澪はオルゴールを見つめる。


「さて、頑張りますか」


いつもの明るさに戻る。


琴葉は尋ねる。


「こういうの、いつも直してるんですか?」


「いつもじゃないよ。本屋だし」


「雑貨屋でもありますよね」


「休憩所でもある」


「じゃあ修理屋さん?」


澪は笑う。


「何屋なんだろうね」


琴葉も笑う。


でも、オルゴールを見る。


「直るといいですね」


澪は少し驚いた顔をしてから、優しく笑った。


「うん、そうだね」


その笑顔を見て、琴葉は思う。


――もう少し、この店にいたい。


――この人のことを、もう少し知りたい。


そのとき、スマートフォンが震えた。


弟からのメッセージ。


『カレーかった?』


琴葉は思わず笑う。


「どうしたの?」


「弟です」


「仲いいんだ?」


「……たぶん」


少し照れながら答える。


澪は興味深そうに見る。


「かわいい?」


「かわいいです」


即答だった。


そして、少しだけ付け足す。


「……生意気ですけど」


澪はくすっと笑った。


店の中には、変わらない空気が流れている。


本と、雑貨と、人と。


そして、大切なもの。


琴葉はまだ知らない。


この場所が、自分にとって特別になっていくことを。


この店に、何度も足を運ぶようになることを。


そして――


今はまだ「店員さん」と呼んでいるその人の名前を、


いつか、自然に口にする日が来ることを。


そのとき、自分の中で何かが変わっていることを。


まだ、知らない。


ただ一つだけ。


胸の奥に、小さな予感が残っていた。


――また来たい。


それだけの、ささやかな気持ちが、


静かに、確かに、芽を出していた。


(第一章後編に続く)

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