第一章 名前の知らない店員さん(前編)
壊れてしまったものを、直すことができる人がいる。
止まってしまった古い時計。
留め金の外れたネックレス。
音の鳴らなくなったオルゴール。
ページの抜け落ちた一冊の本。
誰かにとっては、もう使えない古いもの。
けれど、別の誰かにとっては、
どうしても捨てることのできない、大切なもの。
古書と雑貨が並ぶ、小さな店。
店の奥には古びたソファとテーブルが置かれ、近所の人たちは本を探しに来たり、雑貨を眺めに来たり、時には何の用事もないのに顔を出したりする。
そんな少し変わった店を営んでいるのは、二十三歳の女性店長――朝倉澪。
落ち着いているように見えて、よく笑う。
明るくて、意外と行動的。
古書店の店長なのに、本を読むことはそれほど好きではない。
そんな彼女には、ひとつだけ特技があった。
壊れたものを、直すこと。
かつてこの店を営み、自分を育ててくれた、血のつながらない祖父。
その祖父から受け継いだ店で、澪は今日も誰かの「大切なもの」と向き合っている。
そして春。
大学進学を機に、この街で一人暮らしを始めた十八歳の少女、小宮山琴葉が店を訪れる。
長い髪を揺らし、見知らぬ店の扉を開けた彼女は、まだ店長の名前を知らない。
だから彼女を、こう呼んだ。
「――あの、店員さん」
それが、二人の最初の呼び方だった。
やがて「店員さん」は「澪さん」になり、
「お客さん」は「琴葉ちゃん」になる。
人と人が出会うこと。
誰かに助けてもらうこと。
そしていつか、自分が誰かを助けること。
これは、小さな店に持ち込まれる、たくさんの「大切なもの」をめぐる物語。
そして――
大切な人を失ったまま、それでも笑って店に立ち続ける一人の女性と。
新しい街で自分の居場所を探していた一人の少女が。
少しずつ、お互いにとっての「帰ってこられる場所」になっていく物語。
壊れたものが、すべて元通りになるとは限らない。
傷が残ることもある。
欠けた部分が、二度と戻らないこともある。
それでも。
大切にしたいと思う気持ちが残っているのなら。
きっと、もう一度。
その先の時間を、始めることができる。
今日も、小さな店の扉が開く。
カラン、カラン――。
「いらっしゃいませ」
明るい声とともに、またひとつ。
誰かの大切な物語が、この店へやってくる。
四月の風が、桜の花びらを運んでいた。
大学の正門を出た小宮山琴葉は、目の前を横切っていく一枚の花びらを、なんとなく目で追った。
ひらひらと。
右へ。
左へ。
頼りなく風に揺られながら、最後は歩道の隅に落ちていく。
「……春だなあ」
小さく呟いてから、琴葉は肩にかけたバッグを持ち直した。
大学二年生。
ついこの前まで、自分は新入生だったような気がする。
慣れない大学。
知らない人ばかりの講義室。
どこに何があるのか分からないキャンパス。
初めての一人暮らし。
最初のころは毎日のように新しいことがあった。
けれど、一年という時間は思っていた以上に早かった。
今では大学のどの建物にどの教室があるのかも分かる。
学食の混む時間も知っている。
図書館で静かに過ごせる場所も見つけた。
大学から自分のアパートまで、一番早く帰れる道だって覚えている。
新しい生活は、いつの間にか「いつもの生活」になっていた。
「琴葉ー!」
後ろから声がした。
振り返る。
同じ講義を受けていた学生が、友人たちと一緒に歩いていた。
「また明日ねー!」
「あ、うん。また明日」
琴葉は小さく手を振った。
友人たちは駅の方向へ歩いていく。
琴葉は反対方向。
自宅のアパートへ向かう。
一年前。
大学に入ったばかりのころは、誰かに「また明日」と言われるだけでも少し嬉しかった。
友達ができるだろうか。
大学生活になじめるだろうか。
そんな心配をしていた。
今は、大学で話す人もいる。
一緒に昼食を食べる友人もできた。
講義のノートを見せ合う相手もいる。
決して大学生活がうまくいっていないわけではない。
むしろ、順調なのだと思う。
それでも。
大学を出て一人になると、ときどき思うことがある。
――私、毎日同じことしてるな。
大学へ行く。
講義を受ける。
友人と話す。
大学を出る。
スーパーに寄る。
アパートへ帰る。
夕食を作る。
お風呂に入る。
スマートフォンを見る。
寝る。
そして、また朝が来る。
「……別に、悪くないんだけど」
琴葉は歩きながら呟いた。
悪くない。
平和だ。
きっと、恵まれている。
ただ。
何かが足りない。
その「何か」が何なのかは、琴葉自身にも分からなかった。
ブブッ。
バッグの中でスマートフォンが震えた。
琴葉は立ち止まり、取り出した。
画面にはメッセージ。
送り主を見て、琴葉の表情が少し緩んだ。
弟だった。
『おねえちゃん』
その一言だけ。
琴葉は返信する。
『どうしたの?』
数秒後。
既読。
そして。
『いまなにしてる』
琴葉は歩道の端に寄った。
『大学終わったところ』
『かえるの?』
『今からアパートに帰るよ』
『きょうのごはんなに』
「……」
琴葉は思わず笑った。
『まだ決めてない』
すると。
すぐに返信。
『カレー』
「なんであなたが決めるのよ」
思わず声に出してしまった。
近くを歩いていた人がちらりと琴葉を見る。
琴葉は少し恥ずかしくなり、スマートフォンに視線を戻した。
『昨日もカレーじゃなかった?』
『ぼくがカレーだった』
『私は違うよ』
『じゃあカレー』
どうしてもカレーを食べさせたいらしい。
琴葉は笑いながら返信した。
『考えておきます』
『ぜったい』
『はいはい』
年の離れた弟。
琴葉が大学進学のため実家を離れてから、家族との連絡はほとんどスマートフォンになった。
母からは「ちゃんと食べてる?」。
父からは、たまに意味の分からないスタンプ。
そして弟からは。
『いまなにしてる』
『きょうなにたべた』
『いつかえる』
そんなメッセージがよく届く。
実家にいたころは、毎日のように顔を合わせていた。
琴葉が学校から帰れば弟がいる。
弟が宿題をしていれば琴葉が隣に座る。
テレビの取り合いをすることもあった。
お菓子を勝手に食べられて怒ったこともある。
けれど。
離れて暮らすようになって。
その何でもない時間が、実は好きだったのだと気づいた。
『また夜に電話する』
琴葉が送る。
『うん』
返信。
そのあと。
犬が踊っているスタンプ。
「何これ」
琴葉は笑った。
スマートフォンをバッグに戻す。
そして。
再び歩き出した。
いつもの道。
大学からアパートまでは、歩いて十五分ほど。
遠くはない。
だから琴葉は普段、徒歩で大学へ通っている。
駅を使う必要もない。
自転車を買おうかと思ったこともあるが、結局買わなかった。
歩くのが嫌いではないからだ。
いつもの交差点。
いつものコンビニ。
いつものクリーニング店。
その先にスーパー。
ここで夕食の材料を買って。
そのままアパートへ帰る。
今日も。
そのはずだった。
「……カレーか」
弟に言われたせいで、本当にカレーが食べたくなってきた。
琴葉はスーパーへ向かおうとした。
そのとき。
風が吹いた。
「わっ」
長い髪が大きく揺れる。
琴葉は片手で髪を押さえた。
桜の花びらが舞う。
その中の一枚が。
琴葉の目の前を通り。
細い道へ入っていった。
「……」
琴葉は。
なんとなく。
その方向を見た。
細い道。
何度も前を通ったことはある。
けれど。
入ったことはなかった。
「そういえば……」
この先。
何があるのだろう。
一年も住んでいる街なのに。
知らない場所は、意外と多い。
琴葉はスーパーを見る。
そして。
細い道を見る。
「……今日は」
少し考える。
「こっちから帰ってみようかな」
特別な理由はない。
ただ。
今日は少しだけ。
いつもと違うことをしてみたかった。
琴葉は。
細い道へ入った。
*
一歩、足を踏み入れた瞬間。
空気が、変わった。
さっきまで聞こえていた車の音が、遠くへ引いていく。
代わりに、柔らかな声と、どこか懐かしい生活音が耳に届いた。
包丁がまな板を叩く音。
紙袋が擦れる音。
遠くで鳴る自転車のベル。
「こんなところあったんだ……」
思わず、声が小さくなる。
細い通りの両側に、古い店が並んでいる。
八百屋の前には、土の匂いをまとった野菜が山のように積まれ、青々とした葉が風に揺れていた。
和菓子屋からは、蒸した餅とあんこの甘い香りが、ゆっくりと流れてくる。
花屋の前では、水を含んだ花びらが光を受けてきらめき、ほのかな青い匂いを漂わせていた。
どの店も、どこか時間に急かされていない。
「今日は暖かいねえ」
「それ、いくら?」
「三百円!」
交わされる言葉も、どこか丸く、やわらかい。
琴葉は気づく。
自分の歩く速度が、自然と遅くなっていることに。
まるで、この場所だけ時間の流れが少しだけ緩やかになっているみたいだった。
「……なんか」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
懐かしい。
理由は分からないのに、そう感じる。
和菓子屋の前で足を止める。
桜餅。
ほんのりとした甘い香りが、春の空気に溶けている。
「……おいしそう」
指先に触れそうなほど近くにあるのに、どこか遠い。
そんな不思議な距離感。
琴葉は小さく笑って、また歩き出した。
そのとき。
ふと。
視線が引き寄せられた。
通りの奥。
少しだけ影になった場所に、一軒の店がある。
他の店よりも、ほんのわずかに奥まっている。
まるで、そこだけが通りから切り離されているように。
古い木造の建物。
色褪せた外壁。
けれど、どこか丁寧に手入れされている気配がある。
大きなガラス窓の向こう。
本。
ぎっしりと並んだ本。
その隙間に、ぽつり、ぽつりと置かれた雑貨。
古びた置時計。
針は動いているのか分からないほど静かで、けれど確かにそこにある。
陶器のカップ。
使われてきた時間が、表面に薄く残っている。
小さな木箱。
蓋が少しだけ開いていて、中に何かが入っているようにも見える。
どれも。
ただ置かれているだけなのに。
どこか「待っている」ように見えた。
「……本屋さん?」
近づく。
ガラス越しに覗くと、光が少しだけ柔らかく感じられる。
外の光とは違う。
時間を通して濾されたような、静かな光。
店の前に立つと、ふと気づく。
音が、さらに遠くなる。
通りのざわめきが、薄い膜の向こうにあるみたいに感じられる。
入口の横に、小さな黒板。
『本と雑貨。
それから、ちょっと休憩。
見るだけでもどうぞ。』
「……ちょっと休憩?」
その言葉だけが、妙に引っかかる。
店の奥を覗く。
ソファに座る人影。
本を読む人。
新聞を広げる人。
誰も急いでいない。
ページをめくる音さえ、ゆっくりと響く。
まるで、この場所だけが別の時間に属しているみたいだった。
「……なんだろう、ここ」
胸の奥が、少しだけざわつく。
怖いわけではない。
けれど、ただの店ではない気がする。
理由は分からない。
ただ、そう感じる。
そのとき。
ガチャ、と扉が開いた。
「わっ」
中から飛び出してきたのは、小学生くらいの男の子。
「あ、ごめんなさい!」
「大丈夫!」
男の子はそう言って駆け出し、途中で振り返る。
「また明日ー!」
店の中へ向かって叫ぶ。
「はいはい、宿題やってからねー」
軽やかな声が返ってくる。
その声は、どこかこの空間に馴染みすぎていて、境界が曖昧になる。
「やるー!」
元気な返事とともに、男の子は走り去っていく。
足音が遠ざかる。
そして、また静けさが戻る。
琴葉は、その背中を見送った。
そして、もう一度店を見る。
開いたままの扉から、空気が流れてくる。
古い紙の匂い。
乾いた木の匂い。
ほんの少しの埃。
それに混じって、どこか温かい、誰かの生活の気配。
「……見るだけ」
黒板の言葉を思い出す。
ほんの少しだけ、迷って。
琴葉は扉に手をかけた。
触れた瞬間、木の感触が指先に残る。
カラン、と澄んだ音が鳴る。
その音は、外よりも長く、静かに響いた気がした。
店の中は、外から見たよりもさらに静かだった。
「いらっしゃいませー」
すぐ近くから声がする。
けれど、姿は見えない。
「……?」
きょろりと見回したとき、本棚の向こうで何かが動いた。
「ちょっと待ってくださいねー」
軽い声。
次の瞬間、ひょいと顔が覗く。
「よいしょ」
現れたのは、若い女性だった。
思っていたよりずっと若い。
エプロン姿で、本を抱えたままこちらを見る。
「あ、こんにちは」
自然な笑顔。
「あ……こんにちは」
琴葉もつられて頭を下げる。
女性は少しだけ目を細めた。
「初めてですよね」
「あ、はい」
やっぱり分かるんだ、と少しだけ驚く。
女性は本を棚に戻しながら、軽く首を傾げた。
「迷いました?」
「え?」
「入り口で、ちょっと考えてたから」
見られていたらしい。
「……ちょっとだけ」
正直に答えると、女性はくすっと笑った。
「よくあります」
そう言って、さりげなく通路を空ける。
「どうぞ。ゆっくり見ていってください」
「えっと……」
琴葉は店内を見回した。
本と雑貨と、奥のソファ。
やっぱり、よく分からない。
けれど。
さっき感じた違和感が、少しだけ形を持ち始めている。
ここは、ただの店ではない。
何かが、ここに集まっている。
時間なのか。
記憶なのか。
それとも――。
「ここって……」
言いかけると、女性が先に口を開いた。
「なんでも屋、みたいな感じです」
「なんでも屋?」
「本もあるし、雑貨もあるし」
少しだけ肩をすくめる。
「あと、たまに休んでいく人もいます」
奥のソファにちらりと視線を向ける。
説明というより、軽い紹介。
それ以上は言わない。
「……いいんですか、何も買わなくても」
思わず聞くと、女性はあっさり頷いた。
「いいですよ」
「でも、お店ですよね?」
「そうですね」
少しだけ考えてから、笑う。
「でも、見てるだけの人も多いので」
その言い方が、妙に自然だった。
押しつけがましさがない。
「……じゃあ」
琴葉は一歩踏み出す。
「少しだけ」
「はい」
女性は軽く頷いた。
「ごゆっくり」
その一言だけ。
それ以上は何も言わない。
琴葉は、店の奥へと歩き出した。
まだ、このときは知らない。
目の前の女性の名前も。
この店のことも。
ただひとつ分かるのは。
ここが、少しだけ不思議で。
そして、なぜか居心地がいい場所だということだけだった。
カラン――。
扉が静かに閉じる。
その音は、外の時間と内側の時間を、そっと切り分けるように響いた。
大学二年生の春。
ほんの少しの寄り道。
それが、琴葉の日常を変えていく。
その始まりだった。
(第一章中編に続く。)
最後まで『大切なもの、直します。』をお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は、小さな古書と雑貨の店を舞台にした物語です。
店の棚には古い本が並び、その隣には誰かの手から誰かの手へ渡ってきた雑貨がある。
そして店の奥には、用事がなくても座っていられる場所がある。
そんな店を営んでいるのが、朝倉澪でした。
二十三歳という若さで、育ての親だった祖父から店を受け継いだ澪。
古書店の店長なのに、それほど本を読むわけでもない。
落ち着いているようで、明るくて、よく笑う。
そして、誰かが大切なものを持ってくれば、
「とりあえず、見せてみて」
そう言って受け取ってしまう。
澪が直してきたものは、決して高価なものばかりではありません。
古い時計も。
壊れたアクセサリーも。
動かなくなったおもちゃも。
傷んでしまった本も。
持ち主以外の人から見れば、買い替えたほうが早いものだったかもしれません。
それでも、その人にとっては、それでなければ意味がない。
物には、値段では測ることのできない価値があります。
それはきっと、その物と一緒に過ごした「時間」なのだと思います。
澪は、壊れた物を直すことはできました。
けれど、人の心を直すことはできません。
過ぎてしまった時間を戻すことも。
失った人を取り戻すこともできません。
だから澪は、ただ物を直します。
もう一度、その人が大切なものを手に取れるように。
そして、その先へ歩いていけるように。
そんな澪の店に、ある日、小宮山琴葉という一人の大学生がやってきました。
知らない街。
初めての一人暮らし。
慣れない大学生活。
実家には、大切な家族と年の離れた弟がいる。
新しい生活を始めたばかりの琴葉にとって、その店は最初、偶然見つけただけの場所でした。
そして澪もまた、琴葉にとっては名前すら知らない人でした。
「店員さん」
二人の関係は、そんな呼び方から始まりました。
けれど、何度も店の扉を開けて。
何度も話をして。
たくさんの人たちと出会って。
気がつけば――
「店員さん」は「澪さん」に。
「お客さん」は「琴葉ちゃん」になっていました。
琴葉は、この店でたくさんの人に助けられました。
そしていつしか、自分も誰かに手を差し伸べられる人へと成長していきました。
同時に、いつも誰かの大切なものを直していた澪もまた、琴葉や街の人たちに支えられていました。
人は、いつも同じ役割ではありません。
誰かを助ける日もあれば、誰かに助けてもらう日もある。
誰かの居場所になることもあれば、自分が誰かのそばにいたいと思うこともある。
きっと、そうやって人は生きていくのだと思います。
壊れてしまったものは、完全に元通りにはならないかもしれません。
修理した跡が残ることもあります。
けれど、その傷も、その跡も。
そこまで大切にしてきた時間の一部なのかもしれません。
物も。
思い出も。
人と人とのつながりも。
大切なのは、元通りにすることではなく。
その先を、もう一度始めること。
この物語を書き終えたあとも、あの店はきっと変わらずそこにあります。
古い本と雑貨に囲まれた店内。
奥のくつろぎスペースでは、近所の誰かが今日も話をしている。
琴葉も大学の帰りに、当たり前のように扉を開けるのでしょう。
カラン、カラン――。
「ただいま、澪さん」
「おかえり、琴葉ちゃん」
そして今日もまた。
誰かが、大切なものを抱えて店の扉を開きます。
そのとき澪は、きっといつものように笑って言うのでしょう。
「いらっしゃいませ」
「――それ、ちょっと見せてもらってもいいですか?」
『大切なもの、直します。』
この物語を読んでくださった皆様にも、ずっと大切にしている「何か」がありますように。
そして、その大切なものと一緒に。
これからも続いていく時間が、温かなものでありますように。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




