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第四章 栞堂の夏休み(前編)


前編 約束をひとつずつ


夏休みに入って三日目の朝九時。琴葉はアパートの部屋で、ノートパソコンの画面をじっと見つめていた。窓の外では朝から蝉が鳴き、カーテン越しに差し込む日差しはすでに強い。エアコンをつけている部屋の中にまで、夏の気配が入り込んでくるようだった。


「……よし」


小さく呟き、キーボードを叩く。最後にもう一度文章を読み返す。誤字はない。引用も問題ない。文字数も足りている。


「これで……」


画面上の提出ボタンを押す。少し待つと、『提出済み』の文字が表示された。琴葉はしばらく画面を見つめ、それから椅子の背もたれに体を預けた。


「終わった……」


大学から出されていた夏休みの課題は、レポートが二つと後期の講義に向けた事前課題。夏休みはまだ始まったばかりで、本来ならもう少しゆっくり進めてもよかった。それでも琴葉は、休みに入った翌日から一気に課題を片づけていた。理由は特にない――ということにしている。


机の横に置いたスマートフォンを手に取り、予定表を開く。大学はなし。課題は今終わったばかり。アルバイトは今週一日だけ。もともと頻繁にシフトを入れているわけでもなく、生活費の一部は仕送りで賄われている。夏休みだからといって急に働く時間を増やすつもりもなかった。


つまり、暇だった。


スマートフォンを置き、時計を見る。九時十五分。少し考える。栞堂の開店は十時。アパートから歩いて行ける距離だ。


「……買い物」


誰に言うでもなく呟き、立ち上がる。「買い物しよう」と自分に言い聞かせるように言って、冷蔵庫を開ける。卵も牛乳もあるし、野菜も少しある。いったん閉めて、もう一度開ける。


「何か足りないものがあるかもしれない」


自分でもかなり苦しい言い訳だと思う。それでも琴葉は気にしない。着替えて髪を整え、スカートを履き、バッグを持ってアパートを出た。



午前九時五十分。商店街を歩いていると、八百屋の店主に声をかけられた。


「おはよう」

「おはようございます」

「早いな」

「買い物です」

「何買う?」


琴葉は少し考えてから、「何かおすすめあります?」と尋ねる。店主は琴葉を見て、それから栞堂の方向をちらりと見て、また琴葉に視線を戻した。


「なるほど」

「何ですか?」

「いや、何でもない」


そう言って笑いながら、とうもろこしを一本差し出す。


「今日のおすすめ。甘いぞ」

「じゃあください」


支払いを済ませると、店主がにやりと笑った。


「澪ちゃんと食べるのか?」

「……何でですか?」

「違うのか?」

「……半分くらいは」


琴葉がそう答えると、店主はますます楽しそうに笑った。


「ありがとうございました」

「はいよ」


歩き出した背後から、「今日も栞堂か?」と声が飛ぶ。琴葉は振り返らずに「たぶん!」と答え、少し考えてから振り返った。


「……じゃなくて、行きます!」


店主が笑い、琴葉も少し笑う。もう隠す必要はなかった。



栞堂の前に着くと、まだ入口は閉まっていた。時計は九時五十八分。


「……早かった」


店の中を覗くと、カウンターで準備をしている澪の姿が見える。ふと目が合い、澪が少し驚いたあと、笑って手を振った。琴葉も小さく手を振り返す。


やがて澪が入口に来て鍵を開ける。カラン、と扉が開いた。


「おはよう」

「おはようございます」

「早いね」

「買い物のついでです」

「何買ったの?」

「とうもろこし」


袋を見た澪が「それだけ?」と笑う。琴葉は黙り込む。


「買い物のついで?」

「そうです」

「ふーん」


澪は笑いながら店に戻り、「どうぞ」と促した。


「まだ開店前ですけど」

「あと一分」

「いいんですか?」

「一分くらい。琴葉ちゃんだから」


その言葉に少しだけ足を止めたが、すぐに「ありがとうございます」と言って店に入る。一分後、澪が札を『OPEN』にひっくり返した。


「開店ですね」

「開店です」

「今日もよろしくお願いします」

「何で琴葉ちゃんが言うの?」


二人は顔を見合わせて笑った。



それから琴葉の夏休みは、少し不思議な生活になった。


次の日も、その次の日も、琴葉は栞堂にやって来る。


「こんにちは」

「今日も来た」

「来ました」


ある日、澪がふと尋ねた。


「……琴葉ちゃん、毎日来てない?」

「そうですか?」

「昨日も来たし、一昨日も、その前も」

「……」


少し考えてから、琴葉は答える。


「大学は休みですし、課題も終わりました。バイトも今週一回だけです」


澪はしばらく黙ってから、ふっと笑った。


「暇なんだ」

「暇です。だから来ました」


素直な答えに、澪は少し驚いたように目を瞬かせる。


「迷惑ですか?」

「ううん、全然。毎日でもどうぞ」


琴葉は少し笑って、「じゃあ明日も来るかもしれません」と言う。


「どうぞ」

「明後日も」

「どうぞ」

「その次も」

「どうぞ」


「本当に毎日になりますよ」

「いいよ。栞堂だし」


その言葉に、琴葉は少し考える。栞堂だから、誰でも来ていい。何もなくてもいいし、ただ休むだけでもいい。


「じゃあ、遠慮しません」

「はい。いらっしゃいませ」



やがて小学校も夏休みに入り、ある日の午前十時過ぎ、勢いよく扉が開いた。


「琴葉ちゃーん!」


大声が店内に響く。顔を上げると、小学生の二人が大きなリュックと紙袋を抱えて立っていた。


「何それ」

「宿題!」

「持ってきた!」


時計を見ると午前十時十三分。


「夏休み初日だよね?」

「うん!」

「今日から?」

「うん!」


琴葉は少し笑う。


「早くない?」

「琴葉ちゃんに教えてもらう!約束!」


確かに約束した。二人はテーブルに宿題を広げる。国語、算数、漢字、読書感想文、自由研究。


「……多い」

「でしょ?だから教えて!」


「全部は教えないよ。自分で考えて、分からなかったら聞く」

「はーい!」


小さな勉強会が始まる。澪はカウンターからその様子を見て、「琴葉先生」とからかう。


「やめてください」

「でも先生みたい」

「違います」


子どもたちの笑い声が広がる。琴葉もつられて笑いながら、問題の解き方や漢字の書き方を丁寧に教えていく。


やがて「できた!」という声が上がり、店内に明るい空気が満ちる。いつの間にか来ていた年配の女性が、「いいわねえ、先生」と微笑む。


「先生じゃないです」

「琴葉先生」

「もう……」


笑いが広がった。



午後、子どもたちが帰ったあと、テーブルには消しゴムのかすがたくさん残っていた。片付けながら、琴葉は小さく息をつく。


「お疲れさま」

「疲れました」

「先生」

「違います」


澪は笑いながら言う。


「でも楽しそうだった」

「……そうですか?」


少し考えてから、琴葉は頷いた。


「まあ、楽しかったです」

「でしょ?」



翌日、栞堂の前には大量の段ボールが積まれていた。


「これは?」

「夏祭り」


思い出して「あ」と声を上げる琴葉に、澪が笑う。


「忘れてた?」

「忘れてません」


箱の中には色紙や紐、提灯などの飾りが入っていた。


「手伝います」

「いいの?」

「約束しましたから」


二人で飾りを作り始める。色紙を折り、切り、繋ぐ。輪飾りを作りながら、琴葉は「懐かしい」と呟く。


「小学校以来かも」

「私も」


ふと澪の作った輪を見て、「曲がってます」と指摘する。


「味だよ」

「失敗です」


そんなやり取りに笑いがこぼれる。


そこへ花屋の女性が現れ、紙袋を差し出した。


「浴衣よ」


祭りの日に着るためのものだという。着付けも髪もやってくれると言われ、琴葉は少し戸惑いながらも「お願いします」と頭を下げた。


「楽しみね」


女性が去ったあと、琴葉は紙袋を見つめる。


「浴衣、着るんだ」

「着ることになりました」

「似合いそう」

「澪さんも着るんですよね?」

「うん」


二人は顔を見合わせて笑った。



その翌日から、商店街の夏祭り準備は本格的に始まった。琴葉も朝から参加する。提灯を運び、飾りを作り、あちこちで声をかけられては手伝う。


澪が脚立に乗って提灯を取り付けると、琴葉は下で支えながら声をかける。


「気をつけてください」

「大丈夫」

「落ちないでくださいよ」

「大丈夫だって」

「本当に?」

「心配性?」

「違います」

「じゃあ手離していい?」

「ダメです」


笑いながら作業は進み、商店街には少しずつ祭りの形ができていく。赤い提灯が青空の下で揺れ、風に鳴る音が心地よい。


忙しく動き回りながら、琴葉はふと気づく。疲れているはずなのに、それが嫌ではない。むしろ楽しい。誰かに呼ばれ、応え、頼まれて手伝う。その中に自分がいる。



夕方、準備が一段落し、琴葉は栞堂の前に座り込んだ。


「疲れた……」

「お疲れさま」


隣に座った澪と並んで、提灯の並ぶ商店街を眺める。


「夏休み、忙しいね」

「誰のせいですか」

「みんな」

「ですよね」


「嫌?」と聞かれ、琴葉は少し考える。課題は終わり、バイトも少ない。だから毎日栞堂に来て、子どもたちに宿題を教え、祭りの準備を手伝っている。


「嫌じゃないです。むしろ、夏休みっぽいです」

「大学生なのに?」

「大学生でも夏休みです」


風が吹き、提灯が揺れる。夕方の空がゆっくりと色を変えていく。


今年の夏休みは、きっと暇になると思っていた。でも違った。毎日誰かに会い、誰かと話し、栞堂に来る。


「明日、何時来る?」


澪の問いに、琴葉は少し笑う。「来る?」ではなく「何時来る?」になっていることに気づいたからだ。


「十時くらい」

「開店から?」

「はい」


「毎日いるね」

「暇なので」


そんなやり取りを交わしながら、琴葉は思う。ここは、少し前まで知らなかった場所。知らなかった人たち。でも今は、毎日ここにいる。


「じゃあ、明日も来ます」

「うん、待ってる」


その一言に、胸が少し温かくなる。


夏祭りはまだ先で、約束もまだたくさん残っている。宿題、準備、浴衣、実家、弟。そしてきっと、まだ知らない出来事も。


それでも琴葉は思う。今年の夏は、きっと忘れない。その中心には、いつも栞堂がある。


夕方の風が吹き、頭上の提灯が揺れる。カラン、とベルの音が鳴る。その音を聞きながら、琴葉は明日もここへ来るのだと、当たり前のように思っていた。


(第四章中編に続く)

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