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第九章 秋色のキャンパス(中編)



十月も終わりに近づいていた。


学園祭まで、あと一週間。


大学は普段とはまるで別の場所のように賑わっていた。


ひんやりとした秋の空気の中、キャンパスには金木犀の香りがほのかに漂っている。

風が吹くたび、落ち葉がアスファルトをかすかに擦る音を立てて舞い上がった。


教室には色とりどりの装飾。

画用紙や折り紙の鮮やかな色が、午後の光を受けてきらきらと揺れている。


廊下では大道具を運ぶ学生たちの足音が響き、木材がぶつかる乾いた音が何度も重なった。

中庭ではステージ発表のリハーサルが行われ、マイクのハウリング音と笑い声が混ざり合っている。


「琴葉!」


クラスメイトが大きく手を振る。


「こっちの看板できたよ!」


「ありがとう!」


琴葉も脚立に上がり、少しインクの匂いが残る看板に手を伸ばす。

指先に紙のざらつきが触れ、テープの粘着がわずかに指に残った。


画用紙を貼り、テープを切り、教室の入口を飾っていく。

はさみのカチカチという音と、誰かの笑い声が絶え間なく続く。


「あと少し!」


「頑張ろう!」


自然と笑顔になる。


忙しい。

けれど、教室に満ちる紙とインクの匂い、誰かの汗の匂い、そして窓から入る少し冷たい風が、すべてを心地よく感じさせていた。


――ああ、私、ちゃんとここにいる。


ふと、琴葉はそう思った。


ただ流されているだけじゃない。

自分の手で、この場所を作っている。


その実感が、胸の奥に小さな熱を灯していた。


みんなで一つのものを作る時間は、とても楽しかった。



その日も栞堂へ着いた頃には午後六時近くになっていた。


カラン、カラン――。


扉を開けると、古い木の扉が鳴らす澄んだ音とともに、店内の落ち着いた空気がふわりと流れ出てくる。

紙と革と木の匂いが混ざった、少し甘くて懐かしい香り。


「こんばんは。」


「おかえり。」


澪はいつものように笑顔で迎える。


その声を聞いた瞬間、琴葉の肩の力が少し抜けた。


大学では気づかないうちに張っていたものが、ここでは自然とほどけていく。


「今日も遅くなっちゃいました。」


「大学は順調?」


「はい。」


琴葉は荷物を置きながら頷く。

肩から下ろした鞄が床に触れると、少し重たい音がした。


「毎日準備です。」


「楽しそうだね。」


「忙しいですけど、すごく楽しいです。」


その言葉を口にした瞬間、自分でも少し驚いた。


“忙しい”のに、“楽しい”。


以前の自分なら、きっとどちらかしか言えなかった。


でも今は違う。


忙しさの中に、確かに手応えがある。


その表情を見て、澪は安心したように微笑んだ。


「それならよかった。」



仕事を始めようとすると、澪が小さな紙袋を差し出した。


「これ。」


「え?」


中を見ると、小さな焼き菓子が入っていた。

袋を開けた瞬間、バターの甘い香りがふわりと広がる。


「花屋さんが持ってきてくれたの。」


『琴葉ちゃん最近忙しそうだから』って。


思わず笑みがこぼれる。


「ありがとうございます……。」


その笑みは、さっき大学で浮かべていたものとは少し違っていた。

誰かに見せるためではなく、自然にこぼれたものだった。


「あとね。」


澪はさらに笑う。


「八百屋さんからは柿。」


「和菓子屋さんからはどら焼き。」


「みんな心配してた。」


琴葉は少し照れながら笑った。


「そんなに顔に出てましたか?」


「少しね。」


「疲れてる顔してた。」


その言葉に、琴葉は一瞬だけ黙る。


――疲れてる、か。


否定はできなかった。


でも同時に、以前のような“ただしんどいだけの疲れ”ではないことにも気づいていた。


「……気を付けます。」


そう言いながらも、声は少し柔らかかった。


「無理しないこと。」


澪は優しく言う。


その声は、店の静けさに溶けるように柔らかかった。


「学園祭も栞堂も、どっちも大事。」


「だからこそ、体が一番大事。」


琴葉は静かに頷いた。


「はい。」


その返事には、以前よりも少しだけ“自分で選んでいる”響きがあった。



しばらくすると、扉が開いた。


「こんばんはー!」


元気な声とともに、外の冷たい空気が一気に店内へ流れ込む。

少しだけ土の匂いと、夕方の湿った風の匂いが混ざった。


子どもたちだった。


「あっ!」


「琴葉ちゃん!」


「今日は会えた!」


一斉に駆け寄ってくる足音が床に響く。


「こんばんは。」


「久しぶり。」


「最近ずっと大学だった!」


「ごめんね。」


琴葉が少し申し訳なさそうに笑う。


すると女の子が首を振った。


「いいの。」


「学園祭なんでしょ?」


「うん。」


「頑張って!」


その一言に、琴葉は思わず目を丸くした。


――頑張って、って。


その言葉が、こんなにもまっすぐ届くものだっただろうか。


「応援してる!」


「僕たちも行くから!」


「約束!」


子どもたちは口々に言う。


その声は店の木の壁に反響して、少しだけ大きく聞こえた。


琴葉はしゃがみ込み、一人ひとりの顔を見る。

小さな手の温かさが、指先に触れる。


その温度が、胸の奥にじんわりと広がっていく。


――ああ、私、ちゃんと見てもらえてるんだ。


ただ“バイトの人”じゃなくて。

ただ“大学生”でもなくて。


ここで過ごした時間ごと、見てくれている。


「じゃあ、いっぱい楽しんでもらえるように頑張るね。」


その言葉は、さっき大学で言った“頑張る”よりもずっと重みがあった。


「うん!」


元気いっぱいの返事が店中に響いた。



その日の閉店後。


外はすっかり暗くなり、窓の外には冷えた夜気が広がっていた。

街灯の光がガラスにぼんやりと反射している。


澪は修理品を片付けながら尋ねた。


「何をやることになったの?」


「学園祭ですか?」


「うん。」


琴葉は嬉しそうに話し始める。


「私たちのクラスは喫茶店をやることになりました。」


「喫茶店?」


「はい。」


「接客担当なんです。」


澪は少し笑う。


「ぴったりだね。」


「そうですか?」


「うん。」


「栞堂で毎日接客してるから。」


その言葉に、琴葉はふと気づく。


――ああ、そうか。


私はここで、もう“練習”していたんだ。


ただ働いているだけだと思っていた時間が、いつの間にか自分の中に積み重なっていた。


人の話を聞くこと。

相手の表情を見ること。

言葉にならない気持ちを汲み取ろうとすること。


それは全部、ここで澪や子どもたちと過ごす中で身についていた。


琴葉は少しだけ息を吐く。


「大学のみんなにも同じこと言われました。」


「きっと大丈夫。」


澪は穏やかに頷く。


「琴葉ちゃんらしくやればいい。」


その言葉に、不思議と緊張が少し和らいだ。


“頑張らなきゃ”ではなく、“できるかもしれない”。


そう思えたのは、初めてだった。



数日後。


大学では最後の準備が進んでいた。


教室には紙コップの軽い音や、椅子を引きずる音が絶えず響いている。

コーヒーの試作の匂いが漂い、少し焦げた香ばしさが鼻をくすぐった。


机を並べ替え。


メニュー表を作り。


エプロンの確認をする。


「琴葉、接客お願いね!」


「任せて。」


自然に返事ができた。


その瞬間、琴葉は気づく。


――怖くない。


以前なら“失敗したらどうしよう”が先に来ていた。


でも今は違う。


栞堂での経験が、自分の中に“やってきたことの積み重ね”として残っている。


お客さんの話を聞くこと。

笑顔で迎えること。

相手の立場になって考えること。


それは全部、ここで学んだことだった。


そしてそれは、ちゃんと自分の力になっている。



その日の夜。


栞堂へ着くと、カラン、と扉の音が静かに響いた。


カウンターの上に一枚の封筒が置かれていた。

紙の質感が少しざらついていて、指先にその感触が残る。


「これ。」


澪が差し出す。


「学園祭の招待状。」


琴葉は目を丸くする。


「私に?」


「大学から届いたんじゃなくて。」


澪は笑う。


「『日にちを忘れないように』って、自分で書いて置いておいた。」


「え?」


「ちゃんと行く約束したから。」


琴葉は思わず吹き出した。


「澪さんらしいです。」


「忘れっぽいからね。」


「知ってます。」


二人は顔を見合わせて笑った。


その笑い声は、木の壁に柔らかく吸い込まれていく。


その様子を見ていた子どもたちが言う。


「ぼくたちも忘れてないよ!」


「絶対行く!」


「琴葉ちゃんのお店!」


「楽しみ!」


その言葉を聞いた瞬間、琴葉の胸の奥に、また小さな熱が灯る。


――見てもらえている。


――期待されている。


それはプレッシャーではなく、支えだった。


栞堂には、応援してくれる人がいる。


大学にも、一緒に頑張る仲間がいる。


二つの場所は違っても。


どちらも琴葉にとって大切な居場所だった。


そしてその両方が、今の自分を作っている。


学園祭まで、あと三日。


秋空の下、新しい思い出が生まれようとしていた。


(第九章後編へ続く)

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