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第九章 秋色のキャンパス(前編)


十月中旬。


大学のキャンパスは、学園祭の準備で一気に色づき始めていた。立て看板が並び、金づちの音やペンキの匂いがあちこちから漂う。


「琴葉!」


講義後、クラスメイトが駆け寄ってくる。


「今日、実行委員の打ち合わせあるから!」


「あ、そうだった。」


「忘れてた?」


「少しだけ。」


琴葉は苦笑した。最近は授業と栞堂のことで頭がいっぱいだ。


教室ではすでに準備が本格化していた。飾り付け、ポスター制作、企画の相談——それぞれが忙しなく動いている。


「琴葉、字きれいだからこっちお願い!」


「分かった。」


「こっちの色塗りも!」


「はいはい。」


気づけば時計は午後五時を回っていた。


窓の外を見て、琴葉は小さく息をのむ。


(もう、こんな時間……。)


本来なら栞堂に着いている頃だ。


胸の奥に、わずかな焦りが沈む。


最近ずっと、同じ感覚だった。


大学の予定が延びるたびに、栞堂が遠ざかっていく。


子どもたちの声も、澪の「おかえり」も、少しずつ“遅れて届くもの”になっていく。


そしてその遅れは、ただ時間の問題だけではなかった。


(私がいない間に、みんなの時間も進んでる。)


(置いていかれてるんじゃなくて、すれ違ってるだけなのに。)


そう分かっていても、胸の奥のざわつきは消えなかった。



急ぎ足で大学を出ると、空はすでに茜色に染まっていた。


カラン、カラン——。


「こんばんは。」


「おかえり。」


澪の穏やかな声に、琴葉の緊張がふっとほどける。


「遅くなりました。」


「学園祭?」


「はい。今日から本格的に準備が始まって。」


エプロンをつけながら答える琴葉の声には、わずかな疲れが混じっていた。


「思った以上に忙しいです。」


「大学祭ってそういうものだよ。」


澪はお茶を差し出す。


「まずは一息。」


「ありがとうございます。」


湯飲みの温かさが、ようやく肩の力を抜いてくれる。


(ここに来ると、ちゃんと戻ってこられる。)


その安心感だけは、変わらずそこにあった。



「今日はね。」


澪が受付台帳を開く。


「時計を二つ、写真立てを一つ。それからランプも修理完了。」


「順調ですね。」


「うん。」


修理棚を見ると、以前ぎっしりだった品が少しずつ減っている。


「気づいたら減ってましたね。」


「毎日少しずつだからね。」


琴葉は頷く。


その一方で、ふと視線を落とす。


(私も、ここに来る時間が減ってる。)


そしてもう一つ。


(子どもたちと会う時間も、少しずつずれてる。)


以前は当たり前だった“同じ時間にいること”が、少しずつ難しくなっていた。


それでも、それを不満だとは思いたくなかった。


ただ——うまく言葉にできないだけの違和感だった。



午後六時を過ぎると、店は静かになる。


「今日は静かですね。」


「子どもたちはもう帰ったから。」


その言葉に、琴葉の手が止まる。


「……そっか。」


いつもなら会えていた時間。


今日は誰にも会えなかった。


胸の奥に、小さな空白が生まれる。


「少し寂しい?」


澪が尋ねる。


「少しだけ。」


琴葉は笑う。


「最近、みんなと会えてないなって。」


澪は頷いた。


「昨日もね、『琴葉ちゃんまだ?』って言ってたよ。」


「本当ですか?」


「うん。『頑張ってって伝えて』って。」


琴葉は思わず笑顔になる。


(待ってくれてる。)


その事実が、確かに救いだった。


同時に、胸の奥で別の思いが小さく揺れる。


(この“待つ時間”が長くなったら、どうなるんだろう。)


すぐにその考えを打ち消した。


まだ考えるには早い気がした。



それから数日。


大学では準備が加速していく。


看板制作、飾り付け、備品確認、模擬店の練習。


気づけば、栞堂に着く頃にはいつも夕方を過ぎていた。


「また遅くなっちゃったな……」


そう呟くことが増えた。


けれどそのたびに思い直す。


(でも、どっちも大事だから。)


(どっちかを選ぶ話じゃない。)


そう言い聞かせるようにして、琴葉は両方の場所を行き来していた。


ただ、その“行き来”が少しずつ自分の中で重さを持ちはじめていることには、まだ気づかないふりをしていた。



ある日、澪が静かに言った。


「子どもたちね。」


「最近、少しだけ待つ時間が長くなったって言ってた。」


琴葉は手を止める。


「……そうですか。」


「でもね。」


澪は続ける。


「ちゃんと待ってるよ。」


その言葉に、琴葉は小さく息を吐いた。


(待たせてる。)


その事実だけが、胸に残る。


それでも澪は責めることはしない。


ただ、いつも通りそこにいる。


そのことが、余計に琴葉の心を揺らした。



ある夕方。


店の前に一人の男の子が立っていた。


「あっ!」


「琴葉ちゃん!」


「こんばんは。」


「まだいたの?」


「うん!」


駆け寄る笑顔に、琴葉の胸が少し軽くなる。


「今日も大学?」


「そう。学園祭の準備。」


「がくえんさい?」


「もうすぐだよ。」


「楽しみ!」


「僕たちも行くからね!」


「え?」


「みんなで約束した!」


琴葉は目を丸くする。


「本当に?」


「うん!」


「でもね。」


男の子は少しだけ真剣な顔になる。


「ちゃんと会える?」


その一言に、琴葉は言葉を詰まらせた。


(会えるよ。)


そう言いたかった。


でも、その確信を持てるほど、最近の自分は余裕がなかった。


「……会えるよ。」


ようやくそう答えると、男の子は安心したように笑った。


「じゃあ、絶対ね!」


「うん。」


その約束は軽いようでいて、琴葉の胸に深く残った。



店の中から澪が静かに見守っている。


「気づいたらそういう話になってて。」


琴葉は笑った。


「なんだか緊張します。」


「どうして?」


「大学の友達に、みんなを紹介することになるかもしれないから。」


その瞬間、琴葉は気づく。


(ああ、繋がるんだ。)


大学と栞堂。


別々だったはずの場所が、同じ一日に重なろうとしている。


その想像は嬉しいはずなのに、胸の奥には小さな影も落ちていた。


(ちゃんと繋がれるのかな。)


(どちらかが無理をすることにならないかな。)


澪は穏やかに笑う。


「それも琴葉ちゃんらしいね。」


琴葉は静かに頷いた。


大学にも大切な仲間がいる。


栞堂にも大切な人たちがいる。


その二つが、もうすぐ同じ時間を共有する。


秋の夕暮れ。


栞堂の灯りは今日も変わらず温かい。


少し遅い「ただいま」を迎えてくれる澪がいて。


会えなくても待ってくれる子どもたちがいて。


その“待つ時間”が、少しずつ形を変えながら続いている。


琴葉は静かに息を吐いた。


(忙しいけれど、この毎日は続いている。)


その先で何が起きるのか。


まだ誰も知らないまま、秋は静かに深まっていく。


(第九章中編へ続く)

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