第九章 秋色のキャンパス(前編)
十月中旬。
大学のキャンパスは、学園祭の準備で一気に色づき始めていた。立て看板が並び、金づちの音やペンキの匂いがあちこちから漂う。
「琴葉!」
講義後、クラスメイトが駆け寄ってくる。
「今日、実行委員の打ち合わせあるから!」
「あ、そうだった。」
「忘れてた?」
「少しだけ。」
琴葉は苦笑した。最近は授業と栞堂のことで頭がいっぱいだ。
教室ではすでに準備が本格化していた。飾り付け、ポスター制作、企画の相談——それぞれが忙しなく動いている。
「琴葉、字きれいだからこっちお願い!」
「分かった。」
「こっちの色塗りも!」
「はいはい。」
気づけば時計は午後五時を回っていた。
窓の外を見て、琴葉は小さく息をのむ。
(もう、こんな時間……。)
本来なら栞堂に着いている頃だ。
胸の奥に、わずかな焦りが沈む。
最近ずっと、同じ感覚だった。
大学の予定が延びるたびに、栞堂が遠ざかっていく。
子どもたちの声も、澪の「おかえり」も、少しずつ“遅れて届くもの”になっていく。
そしてその遅れは、ただ時間の問題だけではなかった。
(私がいない間に、みんなの時間も進んでる。)
(置いていかれてるんじゃなくて、すれ違ってるだけなのに。)
そう分かっていても、胸の奥のざわつきは消えなかった。
*
急ぎ足で大学を出ると、空はすでに茜色に染まっていた。
カラン、カラン——。
「こんばんは。」
「おかえり。」
澪の穏やかな声に、琴葉の緊張がふっとほどける。
「遅くなりました。」
「学園祭?」
「はい。今日から本格的に準備が始まって。」
エプロンをつけながら答える琴葉の声には、わずかな疲れが混じっていた。
「思った以上に忙しいです。」
「大学祭ってそういうものだよ。」
澪はお茶を差し出す。
「まずは一息。」
「ありがとうございます。」
湯飲みの温かさが、ようやく肩の力を抜いてくれる。
(ここに来ると、ちゃんと戻ってこられる。)
その安心感だけは、変わらずそこにあった。
*
「今日はね。」
澪が受付台帳を開く。
「時計を二つ、写真立てを一つ。それからランプも修理完了。」
「順調ですね。」
「うん。」
修理棚を見ると、以前ぎっしりだった品が少しずつ減っている。
「気づいたら減ってましたね。」
「毎日少しずつだからね。」
琴葉は頷く。
その一方で、ふと視線を落とす。
(私も、ここに来る時間が減ってる。)
そしてもう一つ。
(子どもたちと会う時間も、少しずつずれてる。)
以前は当たり前だった“同じ時間にいること”が、少しずつ難しくなっていた。
それでも、それを不満だとは思いたくなかった。
ただ——うまく言葉にできないだけの違和感だった。
*
午後六時を過ぎると、店は静かになる。
「今日は静かですね。」
「子どもたちはもう帰ったから。」
その言葉に、琴葉の手が止まる。
「……そっか。」
いつもなら会えていた時間。
今日は誰にも会えなかった。
胸の奥に、小さな空白が生まれる。
「少し寂しい?」
澪が尋ねる。
「少しだけ。」
琴葉は笑う。
「最近、みんなと会えてないなって。」
澪は頷いた。
「昨日もね、『琴葉ちゃんまだ?』って言ってたよ。」
「本当ですか?」
「うん。『頑張ってって伝えて』って。」
琴葉は思わず笑顔になる。
(待ってくれてる。)
その事実が、確かに救いだった。
同時に、胸の奥で別の思いが小さく揺れる。
(この“待つ時間”が長くなったら、どうなるんだろう。)
すぐにその考えを打ち消した。
まだ考えるには早い気がした。
*
それから数日。
大学では準備が加速していく。
看板制作、飾り付け、備品確認、模擬店の練習。
気づけば、栞堂に着く頃にはいつも夕方を過ぎていた。
「また遅くなっちゃったな……」
そう呟くことが増えた。
けれどそのたびに思い直す。
(でも、どっちも大事だから。)
(どっちかを選ぶ話じゃない。)
そう言い聞かせるようにして、琴葉は両方の場所を行き来していた。
ただ、その“行き来”が少しずつ自分の中で重さを持ちはじめていることには、まだ気づかないふりをしていた。
*
ある日、澪が静かに言った。
「子どもたちね。」
「最近、少しだけ待つ時間が長くなったって言ってた。」
琴葉は手を止める。
「……そうですか。」
「でもね。」
澪は続ける。
「ちゃんと待ってるよ。」
その言葉に、琴葉は小さく息を吐いた。
(待たせてる。)
その事実だけが、胸に残る。
それでも澪は責めることはしない。
ただ、いつも通りそこにいる。
そのことが、余計に琴葉の心を揺らした。
*
ある夕方。
店の前に一人の男の子が立っていた。
「あっ!」
「琴葉ちゃん!」
「こんばんは。」
「まだいたの?」
「うん!」
駆け寄る笑顔に、琴葉の胸が少し軽くなる。
「今日も大学?」
「そう。学園祭の準備。」
「がくえんさい?」
「もうすぐだよ。」
「楽しみ!」
「僕たちも行くからね!」
「え?」
「みんなで約束した!」
琴葉は目を丸くする。
「本当に?」
「うん!」
「でもね。」
男の子は少しだけ真剣な顔になる。
「ちゃんと会える?」
その一言に、琴葉は言葉を詰まらせた。
(会えるよ。)
そう言いたかった。
でも、その確信を持てるほど、最近の自分は余裕がなかった。
「……会えるよ。」
ようやくそう答えると、男の子は安心したように笑った。
「じゃあ、絶対ね!」
「うん。」
その約束は軽いようでいて、琴葉の胸に深く残った。
*
店の中から澪が静かに見守っている。
「気づいたらそういう話になってて。」
琴葉は笑った。
「なんだか緊張します。」
「どうして?」
「大学の友達に、みんなを紹介することになるかもしれないから。」
その瞬間、琴葉は気づく。
(ああ、繋がるんだ。)
大学と栞堂。
別々だったはずの場所が、同じ一日に重なろうとしている。
その想像は嬉しいはずなのに、胸の奥には小さな影も落ちていた。
(ちゃんと繋がれるのかな。)
(どちらかが無理をすることにならないかな。)
澪は穏やかに笑う。
「それも琴葉ちゃんらしいね。」
琴葉は静かに頷いた。
大学にも大切な仲間がいる。
栞堂にも大切な人たちがいる。
その二つが、もうすぐ同じ時間を共有する。
秋の夕暮れ。
栞堂の灯りは今日も変わらず温かい。
少し遅い「ただいま」を迎えてくれる澪がいて。
会えなくても待ってくれる子どもたちがいて。
その“待つ時間”が、少しずつ形を変えながら続いている。
琴葉は静かに息を吐いた。
(忙しいけれど、この毎日は続いている。)
その先で何が起きるのか。
まだ誰も知らないまま、秋は静かに深まっていく。
(第九章中編へ続く)




