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第九章 秋色のキャンパス(後編)



学園祭当日。


朝から大学は、いつもとはまるで違う場所になっていた。


校門をくぐった瞬間、まず鼻をくすぐるのは油の匂いだった。


焼きそばの焦げたソース、たこ焼きの出汁の香り、揚げ物の熱気。


その奥に、クレープの甘いバターと砂糖の匂いが混ざる。


秋の少し冷たい風がそれらを運び、キャンパス全体に“祭りの空気”を広げていた。


遠くからは、マイクのハウリング。


「いらっしゃいませー!」


「こちら焼きたてでーす!」


笑い声と呼び込みの声が重なり、どこを向いても人の気配が途切れない。


靴音、紙皿の擦れる音、風船のきしむ音。


すべてが混ざって、ひとつの大きなざわめきになっていた。


「琴葉!」


教室の前から友人が手を振る。


「もうお客さん来てるよ!」


「今行く!」


琴葉はエプロンの紐をきゅっと結び直し、息を吸った。


胸の奥が少しだけざわつく。


けれど、それは嫌な緊張ではなかった。


むしろ、少しだけ高揚に近い。


(今日だけは)


(大学の私でいい)


「いらっしゃいませ!」


教室に入った瞬間、空気が変わる。


人の熱気、紙コップの匂い、コーヒーの香ばしさ。


最初の声は少しだけ硬かった。


けれど、返ってくる「ありがとう」が耳に触れるたびに、肩の力が抜けていく。


「こちら空いてます!」


「ご注文はお決まりですか?」


声が、少しずつ自分のものになっていく。


紙のメニューをめくる音。


コインの触れ合う音。


椅子が床をこする音。


そのすべてが、なぜか心地よかった。


「ありがとうございました。」


「またどうぞ。」


友人が横で笑う。


「琴葉、めちゃくちゃ慣れてるじゃん。」


「そう?」


「うん。ほんと店員さんみたい。」


その言葉に、琴葉は小さく笑った。


(栞堂と、同じだ)


その瞬間、木の匂いが一瞬だけよぎる。



昼前。


少しだけ休憩時間になった。


外に出た瞬間、空気が変わる。


さっきまでの熱気が嘘のように、秋の風が頬を撫でた。


遠くで太鼓の音。


スピーカーから流れる音楽。


笑い声が風に乗って流れていく。


琴葉はキャンパスを見回した。


人、人、人。


その中に。


見覚えのある姿があった。


「あ……。」


胸の奥が、ひとつ跳ねる。


少し離れた場所。


澪が立っていた。


その隣には子どもたち。


さらに後ろには商店街の人たち。


一瞬、周囲の音が遠のく。


(来てくれた)


その事実だけで、胸の奥が熱くなる。


けれど同時に、足が少しだけ重くなる。


大学の自分を見られる。


そのことが、少しだけ怖い。


そのときだった。


澪が、気づく。


視線が合う。


澪は手を振らない。


ただ、ほんの少しだけ目元を緩める。


それだけだった。


その静かな合図に、琴葉の緊張がほどける。


(……いいんだ)


足が動く。


人混みを抜ける。


靴音が少し速くなる。


「澪さん!」


声がわずかに揺れる。


澪はその場から動かない。


距離も詰めない。


ただ、そこにいる。


その“間”が、琴葉にはちょうどよかった。


「来たよ。」


「本当に来てくれたんですね。」


言葉が少し詰まる。


澪は小さく頷く。


「約束したから。」


それだけ。


その一言が、やけに重く残る。


(この人は、言葉より先に来る)


その後ろから。


「琴葉ちゃーん!」


子どもたちの声。


空気が一気に明るくなる。


「大学って広い!」


「人いっぱい!」


「迷子になる!」


その無邪気さに、琴葉は思わず笑う。


「みなさんまで……。」


「そりゃ来るよ。」


八百屋の店主の声。


「頑張ってるんだからな。」


花屋の女性も頷く。


「応援しないわけないでしょう。」


琴葉は深く頭を下げる。


「ありがとうございます。」


その横で、澪は何も言わない。


ただ一度だけ視線を落とし、琴葉の姿を見る。


その視線は長くない。


けれど、離れない。


(見てる)


それだけで十分だった。



「琴葉ちゃん!」


子どもたちが手を引く。


「お店見たい!」


「案内して!」


「走らないでね。」


「はーい!」


そのやり取りの中で、琴葉は自然に笑っていた。


その笑顔を見て、澪はわずかに目を細める。


言葉はない。


ただ、その一瞬だけ視線が柔らかくなる。


(大丈夫だな)


その気配だけが、琴葉に届く。


大学の友人が近づく。


「琴葉。」


「なに?」


「この子たちって……?」


「栞堂に来てくれる子たち。」


「へえ。」


その声には、少しだけ納得が混ざる。


「こんにちは!」


子どもたちの声が重なる。


大学と商店街と栞堂が、同じ空気に並ぶ。


その中心に琴葉がいて。


少し離れた場所に澪がいる。


その距離が、琴葉には心地よかった。



喫茶店の前。


コーヒーの香りと焼き菓子の匂い。


「いらっしゃいませ。」


琴葉の声はもう揺れない。


「何名様でしょうか?」


「大人五人と子ども……。」


「七人!」


笑いが起きる。


その中で、澪は一歩後ろに立つ。


前に出ない。


ただ、そこにいる。


琴葉がふと視線を向ける。


澪は気づく。


目が合う。


澪は何も言わない。


ただ、小さく頷く。


それだけで、琴葉の呼吸が整う。


(大丈夫)


注文を受ける。


紙に書く。


皿を運ぶ。


そのすべてが自然に流れていく。



夕方。


片付けの音が増える。


人の声が少しずつ減る。


琴葉は校門へ向かう。


「お疲れ様。」


澪の声。


変わらない静けさ。


その一言で、肩の力が抜ける。


「……。」


言葉がすぐ出ない。


澪は待つ。


急かさない。


その沈黙が優しい。


「ありがとうございました。」


やっとそれだけ言う。


澪は小さく笑う。


「楽しかったよ。」


「ちゃんと見えた。」


琴葉は少し目を伏せる。


(見てくれてた)


「どうでした?」


冗談のように聞く。


澪は少し間を置く。


「立派だった。」


迷いのない声。


琴葉はすぐに返せない。


ただ息を吐く。


「……ありがとうございます。」


それだけ。


澪はそれ以上言わない。


ただ視線を外し、夕暮れを見る。


その横顔が、琴葉には安心だった。



帰り道。


並んで歩く。


会話は少ない。


けれど沈黙は軽い。


「今日はありがとうございました。」


「こちらこそ。」


短いやり取り。


それで十分だった。


「ちょっと恥ずかしかったです。」


「何が?」


「大学の私を見られるの。」


澪は少し歩幅を緩める。


琴葉の隣に、ほんの少し寄る。


近すぎない距離。


けれど確かに“隣”。


「でも。」


声は静かだった。


「今日の琴葉ちゃんも、いつもの琴葉ちゃんだったよ。」


琴葉はすぐに返せない。


その言葉が、ゆっくり落ちる。


「大学でも。」


「栞堂でも。」


「ちゃんと琴葉ちゃんだった。」


琴葉は小さく笑う。


「……そうかもしれません。」


「私。」


「どっちも好きです。」


「大学も。」


「栞堂も。」


澪は頷く。


「うん。」


「それでいい。」


それだけ。


その受け止め方が、一番優しかった。



栞堂の前。


窓の灯り。


「ただいま。」


琴葉が言う。


少し遅れて。


「おかえり。」


澪が返す。


その声は静かで、でも確かに温かい。


琴葉は思う。


(この場所に戻ってこられる)


それだけでいい。


秋の夜は、静かに深くなっていく。


(第九章 完)

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