第八章 実りの季節(中編)
九月も終わりに近づいていた。
大学の後期が始まってから二週間。
琴葉の毎日は、目まぐるしいほど忙しくなっていた。
午前中は大学。
講義を受け、レポートを書き、図書館で調べ物をする。
午後になると急いで商店街へ向かい、栞堂で閉店まで働く。
夜はアパートへ戻って課題を進める。
気づけば日付が変わっている日も少なくなかった。
「ふぅ……。」
講義が終わった帰り道。
琴葉は小さく息を吐いた。
(……また一日終わったのに、全然終わった気がしない)
バッグの中には教科書とレポート。
頭の中には授業の内容。
そして。
栞堂で覚えなければならない仕事。
「……修理。」
琴葉は小さく呟く。
今の彼女の中心にあるのは、それだった。
受付や事務作業はまだ澪がほとんどを担っている。
琴葉が任されているのは、主に修理の補助と、簡単な作業。
それでも。
覚えることは山ほどあった。
壊れ方の見分け方。
素材ごとの扱い。
工具の名前。
接着剤の種類。
研磨の順番。
(さっき教わったばかりなのに、もう曖昧になってる……)
「これも覚えなきゃ……。」
「でも、さっきのやつもまだ曖昧だし……。」
思わず苦笑する。
(頭、いっぱいだなぁ……。ほんとに入るのかな、これ全部)
それでも足は自然と栞堂へ向かっていた。
(でも、不思議だな)
(こんなに大変なのに、行きたくないって思わない)
(むしろ、行かないと落ち着かない)
*
「こんにちは。」
カラン、カラン――。
「おかえり。」
澪が笑顔で迎える。
しかし。
その笑顔の下には、はっきりと疲れが滲んでいた。
(……やっぱり)
琴葉は一瞬で気づく。
目の下の影。
少し遅い瞬き。
動きのわずかな重さ。
「澪さん。」
「ん?」
「ちゃんと寝てます?」
澪は一瞬だけ視線を逸らす。
「……寝てるよ。」
(今の間、絶対寝てない)
「本当ですか?」
「たぶん。」
「たぶんじゃないです。」
琴葉は思わず笑ってしまう。
(もう……この人は)
「昨日、何時まで修理してたんですか?」
「二時くらい。」
「夜中の?」
「うん。」
「駄目です。」
即答だった。
(やっぱり)
澪は困ったように笑う。
「でも修理品がね。」
作業机を見る。
船の模型。
万年筆。
ランプ。
ぬいぐるみ。
時計。
そして、その横に新しく増えた小さな箱たち。
(こんなに……)
「待ってくれてる人がいるから。」
「分かります。」
琴葉も頷く。
(分かるから、余計に止められないんだよね)
「でも。」
少しだけ言葉を選ぶ。
「澪さんが倒れたら、もっと待たせちゃいます。」
その言葉に。
澪は少しだけ黙った。
(言いすぎたかな……)
琴葉の胸が少しだけ不安になる。
「……そうだね。」
小さく笑う。
「気を付ける。」
「約束ですよ。」
「約束。」
(よかった……ちゃんと届いた)
*
その日も次々と修理品がやってくる。
「いらっしゃいませ。」
琴葉は澪の横で、修理品を受け取る手伝いをする。
壊れた懐中時計。
祖母の形見のブローチ。
木製の小物入れ。
海外旅行で買ったオルゴール。
初めて見るものばかりだった。
(また増えた……)
(覚えること、また増えた……)
「これ、どうなってるんだろう……。」
琴葉が小さく呟くと、澪が覗き込む。
「これは歯車がずれてるね。」
「こっちは木が乾燥で割れてる。」
「これは……かなり繊細だな。」
澪の手が動くたびに、物の状態が少しずつ言葉になっていく。
(すごい……)
(同じもの見てるのに、見えてる世界が違う)
琴葉は必死にメモを取る。
(置いていかれないようにしなきゃ)
(でも……もう頭が追いつかない)
情報は次々と積み重なっていく。
「……。」
閉店後。
作業台の前で。
琴葉は小さくうなだれた。
「難しいです……。」
「頭が追いつかないです。」
(悔しいな……)
(ちゃんとやりたいのに)
澪が笑う。
「私も最初そうだった。」
「澪さんも?」
「うん。」
「おじいちゃんに毎日『焦るな』って言われてた。」
「今の琴葉と同じだね。」
(……同じ、か)
琴葉は少しだけ笑う。
「じゃあ、私も言われてる気分です。」
「そうかもね。」
二人は顔を見合わせて笑った。
(少しだけ、軽くなる)
*
そんな忙しい日でも。
午後四時になると。
カラン、カラン――。
「琴葉ちゃーん!」
子どもたちがやって来る。
(あ……来た)
その声を聞いた瞬間、琴葉の肩の力が少し抜ける。
「こんにちは。」
「今日も来た!」
「本読みに来た!」
「宿題終わった!」
店の空気が一気に変わる。
(さっきまでの重さ、どこいったんだろう)
澪も工具を置いて顔を上げる。
「いらっしゃい。」
「澪ちゃん!」
「今日のおやつある?」
「ありますよ。」
(この時間だけは、ちゃんと息ができる)
和菓子屋からもらった小さな栗まんじゅうを切り分ける。
「いただきます!」
一気に店の中が明るくなる。
(ああ……戻ってきた)
さっきまでの緊張が、少しずつほどけていく。
「琴葉ちゃん!」
「これ見て!」
自由帳いっぱいの絵。
栞堂。
澪。
琴葉。
子どもたち。
みんなが笑っている。
(……こういうの、ずるい)
(疲れてても、嬉しくなる)
「すごい。」
「上手だね。」
「ほんと?」
「うん。」
琴葉は自然と笑顔になった。
(まだ頑張れるって思っちゃうんだよね)
*
その頃。
八百屋の店主が顔を出す。
「忙しそうだな。」
(見られてる……)
「こんにちは。」
「これ置いとくぞ。」
袋いっぱいの梨。
「ありがとうございます。」
「ちゃんと休めよ。」
(休めって言われても……)
花屋の女性もやって来る。
「コーヒー淹れたから。」
「二人とも飲みなさい。」
和菓子屋の店主は栗ようかんを持ってくる。
「糖分補給!」
(もう、完全に見透かされてる)
気づけば。
栞堂のテーブルには差し入れが並んでいた。
澪は苦笑する。
「ほんと、みんな優しすぎる。」
(優しさが重いくらいある)
八百屋の店主が笑う。
「無理してるの分かるからな。」
琴葉はその言葉に胸が温かくなる。
(……バレてるんだ)
「ありがとうございます。」
*
夕方。
修理の手を止め。
みんなでお茶を飲む。
たった十五分。
それだけの時間。
(たった十五分なのに、こんなに違うんだ)
子どもたちは絵本を読む。
商店街の人は雑談をする。
澪はコーヒーを飲みながら肩の力を抜く。
琴葉も湯飲みを両手で包む。
(……やっと呼吸できる)
「この時間。」
琴葉がぽつりと言う。
「好きです。」
(本音だな、これ)
澪も頷く。
「私も。」
「忙しいからこそ。」
少し笑う。
「こういう時間が必要なんだよね。」
八百屋の店主も笑う。
「だから栞堂はいい。」
「修理屋だけど。」
「本屋でも雑貨屋でもあるけど。」
花屋の女性が続ける。
「一番は。」
「人が休める場所。」
その言葉に。
店の中のみんなが静かに頷いた。
(ここは、逃げ場じゃない)
(ちゃんと戻ってこれる場所なんだ)
琴葉は改めて店内を見回す。
修理途中の品々。
工具。
本。
雑貨。
子どもたち。
商店街の人。
澪。
(全部バラバラなのに、ちゃんと繋がってる)
「そうですね。」
琴葉は微笑む。
「ここは。」
「ひと息つける場所ですね。」
澪は優しく笑った。
「おじいちゃんも。」
「きっと喜んでる。」
(……そうだといいな)
夕暮れの光が窓から差し込み、作業台を柔らかく照らしていた。
忙しさは増していく。
覚えることも、修理も、まだまだ終わらない。
(正直、怖いくらい)
(でも……)
それでも。
栞堂には変わらない時間が流れている。
焦りをほどく時間。
誰かと笑う時間。
ひと息つく時間。
(ここがあるから、まだ大丈夫って思える)
その時間があるからこそ。
また明日も、手を動かせる。
琴葉はそう思った。
(第八章後編へ続く)




