第八章 実りの季節(前編)
九月も半ばを過ぎると、朝晩の空気は涼しくなり、商店街の街路樹もわずかに色づき始めていた。季節だけが静かに前へ進んでいる。
大学の後期が始まった。
琴葉は久しぶりのキャンパスへ向かいながら、少しだけ背筋を伸ばす。夏休みの間に通い慣れた商店街とは違う空気が、足元に広がっていく。
「おはよう、琴葉!」
講義棟の前で友人に声を掛けられ、琴葉は笑顔を返す。
「おはよう。」
「夏休み、何してたの?」
「ほとんど商店街にいたかな。」
言いながら、琴葉は少しだけ自分でも意外そうに瞬きをする。
“ほとんど”という言葉が、もう嘘ではないことに気づいていた。
「え?旅行とかじゃなくて?」
「うん。バイトもまた始めたし。」
「どこで?」
「古書店と雑貨屋さん。」
友人は目を丸くしたあと、笑った。
「やっぱり琴葉らしいね。」
その言葉に、琴葉は少しだけ胸の奥が温かくなる。
“らしい”と言われることが、いつの間にか嬉しくなっていた。
やがて講義が始まると、教室の空気は一気に切り替わった。レポート課題の説明が進むにつれ、夏休みの気配は薄れていく。
「いきなりレポートかぁ……。」
小さくこぼすと、友人が肩をすくめた。
「頑張るしかないね。」
「うん。」
琴葉は頷きながらも、頭の片隅で別の時間を思い出していた。
栞堂の静けさ。澪の背中。木の匂い。
“あっちも、もうすぐ忙しくなるんだろうな。”
その予感は、なぜか確信に近かった。
授業が終わる頃には午後三時を回っていた。
琴葉は教科書をしまいながら立ち上がる。
「もう帰るの?」
「うん。バイト。」
「頑張ってね。」
「ありがとう。」
教室を出ると、足は自然と商店街へ向かった。
大学から歩いて十分。
見慣れた通りが見えた瞬間、琴葉は小さく息を吐く。
「ただいま。」
その言葉は、もう誰に向けたものでもないのに、確かに意味を持っていた。
*
カラン、カラン――。
扉のベルが鳴ると、澪が顔を上げた。
「こんにちは。」
「おかえり。」
その一言で、琴葉の肩の力がふっと抜ける。
“ただいま”が、ちゃんと返ってくる場所。
それに気づいた瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
「授業どうだった?」
「レポートが増えました。」
「大変だね。」
澪は苦笑するが、その目はどこか安心したようでもあった。
琴葉が“日常に戻ってきた”ことを、静かに受け止めているようだった。
琴葉はエプロンをつけ、名札を胸に留める。
『STAFF 琴葉』
その小さな木片に触れた瞬間、気持ちが切り替わる。
「今日もよろしくお願いします。」
「こちらこそ。」
澪の返事はいつもと同じなのに、少しだけ間があった。
その一瞬に、言葉にしない信頼が混ざっていることを琴葉は感じていた。
“もう、任せても大丈夫だって思ってくれてるのかな。”
そう思うと、嬉しさと同時に、背筋が少し伸びた。
その直後、再び扉が開いた。
「すみません。」
大きな木箱を抱えた男性が入ってくる。
「修理をお願いしたいんですが……。」
澪が応じ、箱を開ける。
中には帆船の模型が入っていた。マストは折れ、帆も裂けている。
「祖父が作ったものなんです。」
男性は視線を落とす。
「地震で壊れてしまって……。」
その声には、諦めきれない痛みが混じっていた。
澪はしばらく黙ってから、静かに言った。
「細かい修理になりますが、できる限り直します。」
その言葉は軽くない。
“できる限り”の重さを、琴葉はもう知っていた。
「お願いします。」
男性は深く頭を下げて帰っていった。
扉が閉まったあと、琴葉は小さく息を吐く。
“また、大事なものが来た。”
それは責任の重さでありながら、不思議と怖さだけではなかった。
続いて年配の女性が入ってくる。
「こんにちは。」
布に包まれたぬいぐるみを差し出す。
うさぎのぬいぐるみは耳がほつれ、片目が取れていた。
「娘が大事にしていたものなんです。」
女性は微笑む。
「孫が使いたいと言ってくれて。」
「もう一度抱っこできるようにしたくて。」
その言葉に、琴葉は胸の奥が少しだけ締め付けられる。
“思い出を、次の誰かへ渡すための修理。”
澪は状態を確かめる。
「直せると思います。」
その声は迷いがないようでいて、ほんの少しだけ優しかった。
「本当?」
「はい。」
女性は安心したように笑った。
その笑顔を見て、琴葉は気づく。
澪は“直す”と言うとき、いつも相手の未来まで見ている。
*
その後も来客は途切れなかった。
懐中時計、写真立て、オルゴール、万年筆、宝石箱、ブリキのおもちゃ、革の財布、ランプ。
店内は少しずつ埋まっていく。
「こんなに……。」
琴葉は受付ノートを見て驚く。
「今までで一番かもね。」
澪も少し笑うが、その目はすでに次の段取りを考えている。
琴葉は一つずつ丁寧に記録していく。
「お名前をお願いします。」
「ご連絡先は?」
「思い出もよろしければ。」
やり取りはすっかり自然になっていた。
けれど琴葉は時々思う。
“私はただ書いているだけじゃないか”と。
そのたびに、澪の声が思い出される。
『それが栞堂の仕事かもしれないね』
その言葉の意味が、少しずつ自分の中に沈んでいく。
澪が小さく言う。
「もう立派なスタッフだね。」
「まだまだです。」
琴葉は照れながら答えるが、その声には以前より迷いがない。
「でも、お客さんの話を聞くのが好きになりました。」
「どうして?」
「物じゃなくて、その人の思い出を聞いているみたいで。」
言いながら、琴葉は自分でも気づく。
それは“仕事”というより、“誰かの時間に触れている感覚”だった。
澪は少しだけ目を細めた。
「それが栞堂の仕事かもしれないね。」
その言葉は説明ではなく、確認のようだった。
琴葉の感じているものを、否定しないための。
*
閉店前。
机の上には修理品が並んでいた。
「本当にいろいろありますね。」
琴葉が言うと、澪は一つずつ見ながら答える。
「初めて扱うものも多いよ。」
「不安じゃないんですか?」
琴葉は、ふと本音をこぼす。
澪は少しだけ手を止めた。
「不安はある。」
その一言に、琴葉はなぜか安心する。
“完璧じゃないんだ”と分かることが、逆に信頼になる。
澪は続ける。
「でも、“直したい”気持ちは同じだから。」
「分からなければ調べる。」
「足りなければ学ぶ。」
「無理なら正直に伝える。」
その言葉は、誰かに向けた説明ではなく、自分に言い聞かせるようでもあった。
「それがおじいちゃんとの約束。」
その瞬間、琴葉は気づく。
澪はずっと一人で背負っているわけじゃない。
“約束”という形で、誰かと一緒に立っている。
だからこそ、強く見えるのだと。
琴葉は静かに頷いた。
「……私も、その約束の中にいていいですか。」
小さな声だった。
澪はすぐには答えなかった。
けれど、その沈黙は拒絶ではなかった。
やがて、ほんの少しだけ笑う。
「もう、入ってるよ。」
その一言だけで十分だった。
*
閉店後、二人で棚に修理品を並べる。
「忙しくなりそうですね。」
「うん。今までで一番かも。」
琴葉は並んだ品を見つめる。
それぞれに思い出がある。
願いがある。
そして、それを預かる自分たちがいる。
「私も、もっと勉強します。」
今度は迷いなく言えた。
澪は少し驚き、そして静かに笑った。
「じゃあ、一緒に頑張ろう。」
「はい。」
その返事は、もう“仕事の返事”ではなかった。
夜風が商店街を通り抜ける。
大学と栞堂。
二つの時間が、琴葉の中で自然に重なっていく。
言葉にしなくても伝わる信頼が、少しずつ形になっていく季節だった。
そして栞堂の扉は、今日も新しい「大切なもの」を迎える。
その物語は、まだ続いていく。
(第八章中編へ続く)




