第七章 新しい季節(後編)
翌朝。
琴葉は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。
窓を開けると、爽やかな風が部屋へ吹き込んでくる。
夏の終わりを知らせるような風だった。
ベッドの横には、昨日受け取った木の名札。
「STAFF 琴葉」
琴葉はそっと手に取り、指で文字をなぞる。
木の感触は、昨日と変わらず温かかった。
(……ほんとに、私が“スタッフ”なんだ)
ただのアルバイトのはずなのに、その言葉が胸の奥にずしりと落ちる。
嬉しい、という気持ちだけではなかった。
少し怖い。
ちゃんとやれるのか。
迷惑をかけないか。
でもそれ以上に――
(ここにいていいって、言われた気がした)
その感覚が、何よりも嬉しかった。
「今日から、なんだ。」
自然と笑みがこぼれる。
大学生であることは変わらない。
でも。
今日からは栞堂のスタッフでもある。
その事実が、胸の奥をじんわりと温めていた。
(“手伝う”じゃない。“一緒にいる”なんだ)
その違いが、琴葉にはとても大きく感じられた。
*
午前九時。
カラン、カラン――。
「おはようございます。」
「おはよう。」
澪が笑顔で迎える。
琴葉は少し照れながら胸元に名札を付けた。
その瞬間、胸の奥がきゅっと引き締まる。
(ちゃんと見られてる)
(“栞堂の人”として)
ただの飾りじゃない。
この小さな木片が、自分の立場を形にしている気がした。
「どうでしょう。」
声が少しだけ震える。
澪は少し離れて眺める。
「うん。」
「すごく似合ってる。」
「本当ですか?」
「うん。」
「昨日から栞堂にいた人じゃなくて。」
少し笑う。
「ちゃんと栞堂のスタッフに見える。」
その一言で、胸の奥がふわっと軽くなった。
(……よかった)
ちゃんと“ここにいていい人”に見えている。
それだけで、昨日までの不安が少し溶けていく。
琴葉は照れ笑いを浮かべながら、小さく頭を下げた。
「今日もよろしくお願いします。」
「こちらこそ。」
その言葉が、ただの挨拶ではなく“始まりの合図”のように聞こえた。
*
開店からしばらくすると、子どもたちがやって来た。
「琴葉ちゃーん!」
「今日も来た!」
勢いよく店へ飛び込んできた男の子が、ふと立ち止まる。
「あれ?」
「どうしたの?」
「なんか付いてる!」
琴葉は名札を見せた。
その瞬間、少しだけ背筋を伸ばす。
(ちゃんと、言わなきゃ)
「昨日からね。」
「スタッフになりました。」
「えーーっ!」
店内に大きな声が響く。
「ほんと!?」
「お店の人?」
「そう。」
言いながら、少しだけ胸が熱くなる。
(“お店の人”って言われるの、こんなに嬉しいんだ)
「大学がお休みの日だけだけどね。」
子どもたちは顔を見合わせる。
そして次の瞬間。
「やったーー!」
「これから毎日いる?」
「毎日は無理かな。」
「でも来られる日は来るよ。」
「約束?」
「約束。」
その言葉を口にした瞬間、琴葉は自分でも驚くほど強く頷いていた。
(守らなきゃ)
ただの約束じゃない。
ここでの“信頼”そのものだと思った。
男の子が名札をじっと見つめる。
「かっこいい。」
「そう?」
「うん!」
女の子も嬉しそうに頷いた。
「琴葉ちゃん、お店の人になったんだ!」
その声を聞いて、澪はカウンターの向こうで静かに微笑んでいた。
琴葉はその視線に気づき、少しだけ背筋を伸ばす。
(見てくれてる)
(ちゃんと、ここに立ってる私を)
そのことが、何よりの支えだった。
*
昼頃。
昨日預かったオルゴールの持ち主である女性が店を訪れた。
「こんにちは。」
「いらっしゃいませ。」
琴葉が笑顔で迎える。
その“いらっしゃいませ”が、昨日より少しだけ自然に出た気がした。
(ちゃんと言えた……)
小さなことなのに、胸が温かくなる。
「今日はスタッフさんなのね。」
女性は名札を見て優しく笑った。
「はい。」
少し照れながら答える。
(見られてる)
(でも、嫌じゃない)
むしろ、その視線が嬉しい。
澪は作業机からオルゴールを持ってきた。
「お待たせしました。」
女性は少し緊張した様子で受け取る。
「……鳴りますか?」
「聴いてみましょう。」
澪がゆっくりとゼンマイを回す。
静かな店内。
次の瞬間。
♪――
澄んだ音色が、ゆっくりと栞堂いっぱいに広がった。
琴葉は思わず息を止める。
(……きれい)
ただの音じゃない。
誰かの時間が戻ってくる音だった。
女性は両手で口元を押さえた。
「……。」
目に涙が浮かんでいる。
その姿を見て、琴葉の胸もぎゅっと締め付けられる。
(私、今ここにいていいんだ)
ただ隣に立っているだけなのに。
それでも、この瞬間の一部になれている。
「この曲……。」
小さく呟く。
「主人が、毎年結婚記念日に鳴らしてくれた曲なんです。」
店内は静まり返っていた。
女性はオルゴールを胸に抱きしめる。
「もう二度と聴けないと思っていました。」
その言葉に、琴葉は喉の奥が熱くなる。
(“戻ってきた”んだ)
壊れたものが直ることは、ただの修理じゃない。
誰かの時間を、もう一度つなぐことなんだ。
澪は静かに微笑む。
「歯車を洗浄して調整しました。」
「古い部品はそのまま使えたので。」
「よかった。」
女性は深く頭を下げる。
「本当にありがとうございます。」
そして琴葉にも笑いかける。
「あなたもありがとう。」
「え?」
「隣で見守ってくれていたでしょう?」
琴葉は少し驚く。
(見てたんだ……)
ただ立っていただけなのに。
それでも“そこにいたこと”を見てくれている。
「修理ってね。」
女性は優しく言った。
「直す人だけじゃなくて、その時間を一緒に待ってくれる人も大切なの。」
その言葉が、胸の奥にまっすぐ落ちてくる。
(私、ちゃんと“ここにいた”んだ)
琴葉は何も言えなかった。
ただ、小さく頭を下げた。
その動作には、感謝と同時に――
“ここでやっていく”という決意が混ざっていた。
*
女性が帰ったあと。
店内にはオルゴールの余韻だけが残っていた。
「澪さん。」
「うん?」
「私、今日分かりました。」
澪が振り返る。
琴葉は少しだけ拳を握る。
(ちゃんと言葉にしなきゃ)
(この気持ち、逃したくない)
「栞堂って、物を直すお店じゃないんですね。」
「……。」
「思い出を。」
少し考える。
「もう一度、大切な人のところへ戻すお店なんですね。」
澪は少し驚いたように目を見開いた。
その反応を見て、琴葉は少しだけ不安になる。
(間違ってたかな)
でも次の瞬間。
澪は静かに笑う。
「うん。」
「おじいちゃんも、たぶん同じことを言うと思う。」
その笑顔を見て、琴葉の胸の奥がじんわりと熱くなる。
(ああ、合ってたんだ)
安心と同時に、少しだけ誇らしさが生まれた。
*
夕方。
商店街へ秋の風が吹き始める。
八百屋の店主が梨を届けに来る。
「お、琴葉ちゃん。」
「その名札、似合ってるじゃないか。」
その言葉に、琴葉は少しだけ胸を張る。
(ちゃんと見てもらえてる)
花屋の女性も笑う。
「本当に栞堂の人になったのね。」
和菓子屋の店主は新しい栗まんじゅうを差し出した。
「スタッフ就任祝い!」
「ありがとうございます。」
気付けば。
商店街のみんなが笑顔で声を掛けてくれる。
その一つ一つが、琴葉の中に積み重なっていく。
(私、ここに“所属してる”んだ)
ただの手伝いじゃない。
ただの通りすがりでもない。
“栞堂の人”として、ここにいる。
その実感が、静かに胸を満たしていった。
*
閉店後。
二人で店の前を掃除していると、空には赤く染まった夕焼けが広がっていた。
「今日は疲れた?」
澪が尋ねる。
「少しだけ。」
琴葉は笑う。
でもその笑顔には、朝とは違う落ち着きがあった。
「でも。」
ほうきを止め、栞堂を見上げる。
「すごく楽しかったです。」
その言葉は、心からだった。
(疲れたのに、嬉しい)
(こんな気持ち、初めてかもしれない)
「それならよかった。」
澪も笑う。
「大学が始まったら忙しくなるけど。」
「無理だけはしないでね。」
「はい。」
「ちゃんと両立します。」
琴葉は力強く頷いた。
「勉強も。」
「栞堂も。」
「どっちも頑張りたいです。」
その言葉には、もう迷いはなかった。
澪は安心したように微笑む。
「琴葉ちゃんらしいね。」
その言葉に、琴葉も笑った。
「そうですか?」
「うん。」
「真面目で、一生懸命。」
「だからみんな応援したくなる。」
(応援してもらえる場所があるって、すごいことだ)
琴葉は静かにそう思った。
*
店を閉める。
カラン、と扉に鍵を掛ける音が響く。
琴葉は店の前で一度振り返った。
昼間は子どもたちの笑い声で賑わっていた店。
今は静かに夜を迎えている。
それでも。
ここには温かさが残っていた。
(今日も、ちゃんとここにいられた)
その事実が、胸の奥に静かに積もる。
「じゃあ。」
澪が笑う。
「また明日。」
「はい。」
琴葉も笑顔で答える。
「また明日。」
その言葉は、もう特別ではなかった。
でも――
(特別じゃないのに、すごく大事)
そう思えることが、何より嬉しかった。
秋の夜風が商店街を優しく吹き抜ける。
新しい季節。
新しい立場。
新しい毎日。
そのすべてが、琴葉の未来へとゆっくり続いている。
そして栞堂もまた。
今日と変わらず、明日も誰かを迎える。
「おかえり。」
その一言を、いつでも言える場所であり続けるために。
――第七章 完




