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第七章 新しい季節(後編)



翌朝。


琴葉は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。


窓を開けると、爽やかな風が部屋へ吹き込んでくる。


夏の終わりを知らせるような風だった。


ベッドの横には、昨日受け取った木の名札。


「STAFF 琴葉」


琴葉はそっと手に取り、指で文字をなぞる。


木の感触は、昨日と変わらず温かかった。


(……ほんとに、私が“スタッフ”なんだ)


ただのアルバイトのはずなのに、その言葉が胸の奥にずしりと落ちる。


嬉しい、という気持ちだけではなかった。


少し怖い。


ちゃんとやれるのか。


迷惑をかけないか。


でもそれ以上に――


(ここにいていいって、言われた気がした)


その感覚が、何よりも嬉しかった。


「今日から、なんだ。」


自然と笑みがこぼれる。


大学生であることは変わらない。


でも。


今日からは栞堂のスタッフでもある。


その事実が、胸の奥をじんわりと温めていた。


(“手伝う”じゃない。“一緒にいる”なんだ)


その違いが、琴葉にはとても大きく感じられた。



午前九時。


カラン、カラン――。


「おはようございます。」


「おはよう。」


澪が笑顔で迎える。


琴葉は少し照れながら胸元に名札を付けた。


その瞬間、胸の奥がきゅっと引き締まる。


(ちゃんと見られてる)


(“栞堂の人”として)


ただの飾りじゃない。


この小さな木片が、自分の立場を形にしている気がした。


「どうでしょう。」


声が少しだけ震える。


澪は少し離れて眺める。


「うん。」


「すごく似合ってる。」


「本当ですか?」


「うん。」


「昨日から栞堂にいた人じゃなくて。」


少し笑う。


「ちゃんと栞堂のスタッフに見える。」


その一言で、胸の奥がふわっと軽くなった。


(……よかった)


ちゃんと“ここにいていい人”に見えている。


それだけで、昨日までの不安が少し溶けていく。


琴葉は照れ笑いを浮かべながら、小さく頭を下げた。


「今日もよろしくお願いします。」


「こちらこそ。」


その言葉が、ただの挨拶ではなく“始まりの合図”のように聞こえた。



開店からしばらくすると、子どもたちがやって来た。


「琴葉ちゃーん!」


「今日も来た!」


勢いよく店へ飛び込んできた男の子が、ふと立ち止まる。


「あれ?」


「どうしたの?」


「なんか付いてる!」


琴葉は名札を見せた。


その瞬間、少しだけ背筋を伸ばす。


(ちゃんと、言わなきゃ)


「昨日からね。」


「スタッフになりました。」


「えーーっ!」


店内に大きな声が響く。


「ほんと!?」


「お店の人?」


「そう。」


言いながら、少しだけ胸が熱くなる。


(“お店の人”って言われるの、こんなに嬉しいんだ)


「大学がお休みの日だけだけどね。」


子どもたちは顔を見合わせる。


そして次の瞬間。


「やったーー!」


「これから毎日いる?」


「毎日は無理かな。」


「でも来られる日は来るよ。」


「約束?」


「約束。」


その言葉を口にした瞬間、琴葉は自分でも驚くほど強く頷いていた。


(守らなきゃ)


ただの約束じゃない。


ここでの“信頼”そのものだと思った。


男の子が名札をじっと見つめる。


「かっこいい。」


「そう?」


「うん!」


女の子も嬉しそうに頷いた。


「琴葉ちゃん、お店の人になったんだ!」


その声を聞いて、澪はカウンターの向こうで静かに微笑んでいた。


琴葉はその視線に気づき、少しだけ背筋を伸ばす。


(見てくれてる)


(ちゃんと、ここに立ってる私を)


そのことが、何よりの支えだった。



昼頃。


昨日預かったオルゴールの持ち主である女性が店を訪れた。


「こんにちは。」


「いらっしゃいませ。」


琴葉が笑顔で迎える。


その“いらっしゃいませ”が、昨日より少しだけ自然に出た気がした。


(ちゃんと言えた……)


小さなことなのに、胸が温かくなる。


「今日はスタッフさんなのね。」


女性は名札を見て優しく笑った。


「はい。」


少し照れながら答える。


(見られてる)


(でも、嫌じゃない)


むしろ、その視線が嬉しい。


澪は作業机からオルゴールを持ってきた。


「お待たせしました。」


女性は少し緊張した様子で受け取る。


「……鳴りますか?」


「聴いてみましょう。」


澪がゆっくりとゼンマイを回す。


静かな店内。


次の瞬間。


♪――


澄んだ音色が、ゆっくりと栞堂いっぱいに広がった。


琴葉は思わず息を止める。


(……きれい)


ただの音じゃない。


誰かの時間が戻ってくる音だった。


女性は両手で口元を押さえた。


「……。」


目に涙が浮かんでいる。


その姿を見て、琴葉の胸もぎゅっと締め付けられる。


(私、今ここにいていいんだ)


ただ隣に立っているだけなのに。


それでも、この瞬間の一部になれている。


「この曲……。」


小さく呟く。


「主人が、毎年結婚記念日に鳴らしてくれた曲なんです。」


店内は静まり返っていた。


女性はオルゴールを胸に抱きしめる。


「もう二度と聴けないと思っていました。」


その言葉に、琴葉は喉の奥が熱くなる。


(“戻ってきた”んだ)


壊れたものが直ることは、ただの修理じゃない。


誰かの時間を、もう一度つなぐことなんだ。


澪は静かに微笑む。


「歯車を洗浄して調整しました。」


「古い部品はそのまま使えたので。」


「よかった。」


女性は深く頭を下げる。


「本当にありがとうございます。」


そして琴葉にも笑いかける。


「あなたもありがとう。」


「え?」


「隣で見守ってくれていたでしょう?」


琴葉は少し驚く。


(見てたんだ……)


ただ立っていただけなのに。


それでも“そこにいたこと”を見てくれている。


「修理ってね。」


女性は優しく言った。


「直す人だけじゃなくて、その時間を一緒に待ってくれる人も大切なの。」


その言葉が、胸の奥にまっすぐ落ちてくる。


(私、ちゃんと“ここにいた”んだ)


琴葉は何も言えなかった。


ただ、小さく頭を下げた。


その動作には、感謝と同時に――


“ここでやっていく”という決意が混ざっていた。



女性が帰ったあと。


店内にはオルゴールの余韻だけが残っていた。


「澪さん。」


「うん?」


「私、今日分かりました。」


澪が振り返る。


琴葉は少しだけ拳を握る。


(ちゃんと言葉にしなきゃ)


(この気持ち、逃したくない)


「栞堂って、物を直すお店じゃないんですね。」


「……。」


「思い出を。」


少し考える。


「もう一度、大切な人のところへ戻すお店なんですね。」


澪は少し驚いたように目を見開いた。


その反応を見て、琴葉は少しだけ不安になる。


(間違ってたかな)


でも次の瞬間。


澪は静かに笑う。


「うん。」


「おじいちゃんも、たぶん同じことを言うと思う。」


その笑顔を見て、琴葉の胸の奥がじんわりと熱くなる。


(ああ、合ってたんだ)


安心と同時に、少しだけ誇らしさが生まれた。



夕方。


商店街へ秋の風が吹き始める。


八百屋の店主が梨を届けに来る。


「お、琴葉ちゃん。」


「その名札、似合ってるじゃないか。」


その言葉に、琴葉は少しだけ胸を張る。


(ちゃんと見てもらえてる)


花屋の女性も笑う。


「本当に栞堂の人になったのね。」


和菓子屋の店主は新しい栗まんじゅうを差し出した。


「スタッフ就任祝い!」


「ありがとうございます。」


気付けば。


商店街のみんなが笑顔で声を掛けてくれる。


その一つ一つが、琴葉の中に積み重なっていく。


(私、ここに“所属してる”んだ)


ただの手伝いじゃない。


ただの通りすがりでもない。


“栞堂の人”として、ここにいる。


その実感が、静かに胸を満たしていった。



閉店後。


二人で店の前を掃除していると、空には赤く染まった夕焼けが広がっていた。


「今日は疲れた?」


澪が尋ねる。


「少しだけ。」


琴葉は笑う。


でもその笑顔には、朝とは違う落ち着きがあった。


「でも。」


ほうきを止め、栞堂を見上げる。


「すごく楽しかったです。」


その言葉は、心からだった。


(疲れたのに、嬉しい)


(こんな気持ち、初めてかもしれない)


「それならよかった。」


澪も笑う。


「大学が始まったら忙しくなるけど。」


「無理だけはしないでね。」


「はい。」


「ちゃんと両立します。」


琴葉は力強く頷いた。


「勉強も。」


「栞堂も。」


「どっちも頑張りたいです。」


その言葉には、もう迷いはなかった。


澪は安心したように微笑む。


「琴葉ちゃんらしいね。」


その言葉に、琴葉も笑った。


「そうですか?」


「うん。」


「真面目で、一生懸命。」


「だからみんな応援したくなる。」


(応援してもらえる場所があるって、すごいことだ)


琴葉は静かにそう思った。



店を閉める。


カラン、と扉に鍵を掛ける音が響く。


琴葉は店の前で一度振り返った。


昼間は子どもたちの笑い声で賑わっていた店。


今は静かに夜を迎えている。


それでも。


ここには温かさが残っていた。


(今日も、ちゃんとここにいられた)


その事実が、胸の奥に静かに積もる。


「じゃあ。」


澪が笑う。


「また明日。」


「はい。」


琴葉も笑顔で答える。


「また明日。」


その言葉は、もう特別ではなかった。


でも――


(特別じゃないのに、すごく大事)


そう思えることが、何より嬉しかった。


秋の夜風が商店街を優しく吹き抜ける。


新しい季節。


新しい立場。


新しい毎日。


そのすべてが、琴葉の未来へとゆっくり続いている。


そして栞堂もまた。


今日と変わらず、明日も誰かを迎える。


「おかえり。」


その一言を、いつでも言える場所であり続けるために。


――第七章 完

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