第七章 新しい季節(中編)
翌日。
九月とは思えない強い日差しが商店街を照らしていた。
栞堂の扉を開けると、澪がいつも通りの笑顔で迎える。
「おはよう、琴葉ちゃん。」
「おはようございます。」
昨日の話には触れない。
それが澪らしかった。
短い挨拶のあと、二人は店先の植木に水をやる。
水の音だけが、静かに落ちていく。
言葉は少ないのに、不思議と落ち着く時間だった。
*
午前中。
琴葉は本棚の整理や値札の付け替え、店内の掃除を黙々とこなしていく。
紙の擦れる音、木の床を踏む小さな足音。
その一つひとつが、少しずつ「ここにいる」という実感に変わっていく。
「ありがとう。」
「助かる。」
「まだお手伝いですから。」
「十分助かってるよ。」
澪のその一言に、琴葉は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
“役に立てている”という感覚は、思っていたよりずっと嬉しかった。
*
昼になると、商店街の人たちが自然と顔を出し始める。
「琴葉ちゃん、これ運ぶの手伝って!」
「ちょっとこれ見てくれる?」
「味見してみて!」
声はあちこちから飛んでくるが、どれもどこか親しげだった。
琴葉は八百屋で箱を持ち上げ、花屋でリボンを結び、和菓子屋で栗菓子を口にする。
ほのかな甘さと、秋の香り。
「おいしいです。秋らしくて好きです。」
「ほんと?よかった!」
笑い声が返ってくる。
少し前まで“通りすがり”だった場所が、今は自然と名前で呼んでくる。
その変化が、琴葉の胸の奥に静かに積もっていく。
嬉しいのに、少しだけくすぐったい。
*
午後。
栞堂に戻ると、子どもたちが待っていた。
「琴葉ちゃーん!」
「今日は何読む?」
「絵本!」
「ぼく冒険!」
「私は動物!」
「じゃあ順番ね。」
読み聞かせが始まると、子どもたちはすぐに物語の世界へ入り込んでいく。
その途中、昨日抱きついてきた女の子が、そっと琴葉の隣に座った。
今日は抱きつかない。
代わりに、袖を小さくつまんでいる。
その小さな指先の温度が、布越しに伝わる。
「どうしたの?」
「ここ、好き。」
「栞堂が?」
「うん。」
少し間を置いて、女の子は小さく続けた。
「琴葉ちゃんも。」
その言葉に、琴葉の胸がふわりと緩む。
「ありがとう。」
そっと頭を撫でると、女の子は安心したように目を細めた。
*
夕方。
子どもたちが帰り、店内は静けさを取り戻す。
澪はオルゴールの修理を続けていた。
カチ、カチ、と小さな金属音だけが響く。
その規則的な音が、時間をゆっくりにしていくようだった。
琴葉はその背中を見つめながら、小さく息をつく。
「澪さん。」
「ん?」
澪は手を止めない。
「昨日の返事なんですけど。」
「うん。」
琴葉は店内を見渡した。
本棚、雑貨、ソファ、子どもたちの机。
入口に飾られた「しおりどう だいすき」の絵。
どれも、もう“知らない場所”ではなかった。
むしろ、少しずつ自分の記憶に馴染んできている。
「ここに来ると、落ち着くんです。」
「商店街の人たちも、子どもたちも。」
「気づいたら、帰ってきたって思っていて。」
言葉にするたび、その実感がはっきりしていく。
澪は静かに聞いている。
その沈黙が、急かさない優しさだった。
「大学が始まったら、毎日は来られません。」
「でも。」
琴葉はまっすぐ澪を見る。
「来られる日は、このお店の役に立ちたいです。」
一度、息を吸う。
胸の奥が少しだけ熱い。
「だから。」
「栞堂で働かせてください。」
数秒の静けさ。
時計の音さえ、遠く感じる。
澪は工具をそっと置き、ゆっくりと立ち上がった。
その動作が、やけに丁寧に見えた。
そして琴葉の前に来る。
「ありがとう。」
それだけだった。
けれど、その一言は不思議なくらい重くて、あたたかかった。
琴葉の胸の奥に、静かに沈んでいく。
「こちらこそ。」
声が少しだけ震えた気がした。
「よろしくお願いします。」
澪は右手を差し出す。
その手は少しだけ油の匂いがして、でも温かかった。
琴葉は一瞬だけその手を見つめる。
“ここにいていいんだ”という実感が、指先まで広がる。
そして、その手を握った。
「はい。」
握手の瞬間、ほんの少しだけ力がこもる。
それは契約ではなく、約束のようだった。
離したあとも、手の温度が残っている気がした。
栞堂に、新しい時間が静かに流れ始める。
*
閉店後。
澪は奥から小さな木の名札を持ってきた。
「STAFF 琴葉」
「これ……。」
琴葉は思わず息をのむ。
木の表面には、丁寧に刻まれた文字。
指で触れると、わずかに凹凸がある。
「おじいちゃんが作ってた名札。」
「新しい人が来たら使おうって、ずっとしまってあったの。」
その言葉に、琴葉の胸が静かに揺れる。
“ここに来ることは、もう決まっていたみたいだ”と、ふと思う。
琴葉は両手で受け取る。
木のぬくもりが、じんわりと掌に広がる。
軽いのに、なぜか落とせない気がした。
「私が……。」
声が少しだけ小さくなる。
「うん。」
澪はただ頷く。
その肯定が、背中を押す。
「今日から栞堂のスタッフ。」
琴葉は名札を胸元に当てる。
布越しに、木の感触が心臓の近くに触れる。
“ここにいる”という証が、体の内側に落ちていく。
「……写真、撮ろっか。」
澪がふとそう言った。
「写真?」
琴葉は少し驚く。
澪は奥からカメラを取り出し、レンズを軽く拭いた。
その動作が、少しだけ特別な儀式のように見えた。
琴葉は店の中央に立つ。
胸には「STAFF 琴葉」。
その文字が、少し誇らしく感じる。
澪はカメラを構える。
ファインダー越しに、琴葉を静かに見つめる。
「じゃあいくよ。」
「はい。」
シャッターの音を待つ間、時間が少しだけ伸びる。
「もうちょっと笑って。」
「笑ってます。」
「それ、ちょっと固い。」
「難しいです……。」
澪が小さく笑う。
その笑い声に、琴葉の肩の力がふっと抜ける。
“ちゃんとしなきゃ”という緊張が、少しだけほどけた。
「じゃあ、いつもの琴葉ちゃんで。」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
“いつもの”と言われる場所が、ここにあること。
それが、少し嬉しかった。
「……はい。」
自然に、柔らかい笑顔になる。
澪はシャッターに指をかける。
カシャ。
軽い音が、静かな店内に落ちる。
その一瞬が、確かに切り取られた気がした。
「撮れた。」
澪はカメラを下ろし、フィルムを巻き上げる。
「見ますか?」
「うん。」
ただし、すぐには見られない。
現像されるまで、それはまだ“記憶の途中”だ。
それでも琴葉は頷く。
「楽しみです。」
澪は小さく笑う。
「いい顔してたよ。」
「そうですか?」
「うん。」
少し間を置いて、澪は続ける。
「ちゃんと“ここにいる人”の顔だった。」
その言葉に、琴葉は一瞬だけ目を伏せる。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……嬉しいです。」
窓の外では、秋の風が静かに揺れていた。
季節は少しずつ変わる。
そしてその中で、琴葉の居場所もまた、確かに形を持ちはじめていた。
(第七章後編へ続く)




