第七章 新しい季節(前編)
九月。
朝の空気に、少しだけ涼しさが混じってきた。
琴葉は窓を開けて伸びをする。
「もう九月かぁ……。」
後期はまだ始まっていない。あと二週間ほど休みがある。
軽く朝食を済ませてスマホを見ると、母からメッセージ。
『健が今日も「学校めんどくさい」って言ってたよ。』
思わず笑う。
『ちゃんと行きなさいって言っといて(笑)』
すぐ返事が来た。
『言ったら「琴葉お姉ちゃんも頑張ってるなら行く」だって』
「ふふっ。」
健らしい。
自然と笑顔になる。
*
午前九時。
カラン、カラン――。
「おはようございます。」
「おはよう。」
澪が店先で振り返る。
「今日も暑いね。」
「でも朝はちょっと涼しかったです。」
「だね。」
「開けようか。」
「はい。」
今日も栞堂の一日が始まる。
*
開店してすぐ。
「おはよう!」
八百屋の店主が顔を出した。
「梨持ってきた!」
「ありがとうございます。」
紙袋いっぱいの梨。
「子どもたち来たら切って食べな。」
「いいんですか?」
「いいのいいの。」
「琴葉ちゃんにもな。」
「ありがとうございます。」
澪が笑う。
「またもらっちゃった。」
「ほんと優しいですね。」
「昔からこうなんだ。」
「いいですね。」
「うん。」
*
午後。
「こんにちはー!」
子どもたちが元気に入ってくる。
「琴葉ちゃん!」
「今日も来た!」
「もちろん。」
「学校どうだった?」
「疲れた!」
「宿題も出た!」
「もうやった!」
「えらい。」
「だから遊びに来た!」
「本も読む!」
「ゲームは?」
「ありません。」
琴葉が笑う。
「ここ本屋さんだから。」
「そうだった!」
店内に笑い声が広がる。
一人の男の子が本棚の前で立ち止まる。
「琴葉ちゃん。」
「なに?」
「この本読める?」
少し難しそうな児童文学。
「一緒に読もうか。」
「うん!」
琴葉はソファに座る。
子どもたちも集まり、読み聞かせが始まった。
ページをめくる音と、時々こぼれる笑い声。
澪はカウンターから静かに見守り、小さく微笑んだ。
*
読み聞かせが終わる頃、年配の女性が入ってきた。
「こんにちは。」
「いらっしゃいませ。」
店内を見回して、穏やかに笑う。
「ずいぶん賑やかになったのね。」
「ありがとうございます。」
「いい賑やかさ。」
澪は軽く頷く。
女性はバッグから小さな木箱を取り出した。
「お願いがあって。」
中には古いオルゴール。
「主人にもらった大事なものなの。」
「最近、動かなくて。」
澪は手袋をはめて、そっと手に取る。
ゼンマイを回すが、音は鳴らない。
「……。」
琴葉も隣に立つ。
「直りそうですか?」
澪は中を確認して頷く。
「たぶん。」
「時間はかかるけど。」
女性はほっとした顔になる。
「よかった。」
「また聴けるのね。」
「絶対とは言えませんけど。」
澪は静かに言う。
「できるだけやってみます。」
女性は深く頭を下げた。
「お願いします。」
琴葉はそのやり取りを見つめる。
澪の真剣な表情が印象に残った。
*
閉店後。
作業机にオルゴールが置かれている。
澪は工具を並べながら言う。
「久しぶりに難しそう。」
「そんなにですか?」
「部品がかなり古いから。」
琴葉は少し考えて笑う。
「でも、澪さんなら直せます。」
澪は少し照れて笑った。
「そう言われるとね。」
工具を手に取る。
「頑張らないと。」
少しの沈黙。
外から虫の声が聞こえる。
澪がふと手を止めた。
「……ねえ、琴葉ちゃん。」
「はい?」
「後期始まったら忙しくなる?」
「そうですね。」
「授業も増えますし、レポートもあります。」
少し考えて続ける。
「毎日は来られないかもしれませんけど……」
「時間がある日は来たいです。」
澪は小さく頷く。
「そっか。」
少し迷うように視線を落とす。
「……あのさ。」
「はい?」
澪は少し照れたように笑った。
「よかったら、栞堂でバイトしてみない?」
「え?」
思わず声が出る。
「無理にとは言わないよ。」
「大学優先でいいし、来られる日だけでも。」
少し言葉を探す。
「今もすごく助かってるけど……」
「ちゃんとお願いしたくて。」
琴葉はしばらく黙る。
バイト。
栞堂で。
ただ通う場所じゃなくなる。
でも。
ここで過ごした時間。
子どもたちの笑顔。
澪の隣で見てきたもの。
全部が浮かぶ。
「……私でいいんですか?」
澪はすぐ頷いた。
「琴葉ちゃんがいい。」
まっすぐな言葉だった。
琴葉は少し俯いて、ゆっくり顔を上げる。
「少し考えてもいいですか?」
「もちろん。」
澪は優しく笑う。
「急がなくていいよ。」
店の中は静かだった。
でも、その静けさの中で、新しい何かが動き始めている。
琴葉はオルゴールを見る。
まだ音は鳴らない。
でも、きっと直る。
時間をかけて向き合えば。
それは、自分の気持ちも同じかもしれない。
新しい季節。
新しい選択。
栞堂での時間は、少しずつ形を変えていく。
(第七章中編へ続く)




