第六章 帰る場所(後編)
まだ夏の熱気が残る中、朝の空気にほんの少しだけ秋の気配が混じり始めていた。
カラン、カラン――。
栞堂の扉が開く。
「おはようございます。」
「おはよう、琴葉ちゃん。」
澪はいつもの笑顔で迎えた。
紙の匂い。
木の床を歩く音。
窓から差し込む柔らかな朝日。
実家から戻って数日が過ぎても、この空気は変わらない。
そして、その変わらなさが心地よかった。
「昨日、お父さんの話を聞いてからね。」
開店の準備をしながら、澪が静かに口を開く。
「昔の道具を少し見返してた。」
「何か分かりましたか?」
「うん。」
澪は作業机の引き出しから、小さな革張りの手帳を取り出した。
表紙は日に焼け、角は丸く擦り切れている。
「おじいちゃんの修理記録。」
「修理記録……。」
琴葉はそっとページをめくる。
年月日。
品名。
修理内容。
そして、お客さんの名前。
どれも祖父の丁寧な字で書かれていた。
「こんなに細かく……。」
「全部残してたみたい。」
さらにページをめくる。
二十年以上前の記録。
そこで、澪の指が止まった。
「……あった。」
「え?」
琴葉も身を乗り出す。
『腕時計 革ベルト交換・内部調整』
その下には。
『小宮山様』
琴葉は思わず息をのんだ。
「父です……。」
澪も静かに頷く。
「間違いないね。」
さらに横には、小さな一文が添えられていた。
『まだ十分使える。長く大切に。』
ほんの短い言葉。
けれど、その一行に祖父らしさが詰まっているようだった。
琴葉は自然と笑みを浮かべる。
「父が話していた言葉、そのままですね。」
「うん。」
澪も優しく笑った。
「おじいちゃんらしい。」
*
その日の昼過ぎ。
子どもたちが次々と栞堂へ集まってきた。
「琴葉ちゃーん!」
「宿題終わったよ!」
「ぼくも終わった!」
「見てほしくて持ってきた!」
机の上には、算数のプリントや読書感想文、自由研究が並ぶ。
「ちゃんと頑張ったんだね。」
「うん、昨日ちゃんとやった!」
琴葉は一人ずつ丁寧に目を通していく。
「漢字、きれいになったね。」
「ほんと?前より上手?」
「うん。」
「やった!」
その様子を見ていた澪が、ふと周りを見渡した。
店の中には、いつの間にか子どもたちがぎゅっと集まっている。
机の周りだけでなく、本棚の前やソファにも。
「……増えたね。」
澪がぽつりと呟く。
「え?」
琴葉が顔を上げる。
「子どもたち。」
澪は少し驚いたように笑った。
「前はこんなに来なかった。」
「そうなんですか?」
「うん。」
「常連の子はいたけど、こんなに毎日集まることはなかった。」
澪は店内を見渡す。
笑い声。
ノートを広げる音。
「琴葉ちゃんが来てからだね。」
その言葉に、子どもたちが一斉に反応する。
「だって楽しいもん!」
「ここ来ると安心するし!」
「宿題もちゃんと終わるし!」
「みんなでやると早いんだよ!」
口々に言う声に、店内がさらに賑やかになる。
琴葉は少し驚いたように目を瞬かせた。
「私……ですか?」
「うん。」
澪は優しく頷く。
「みんな、琴葉ちゃんに会いに来てる。」
琴葉は少し照れながら笑った。
「そんなことないですよ。」
「あるよ!」
男の子が元気よく言う。
「琴葉ちゃんいると、なんか楽しいんだよ。」
「そうそう!」
「わかりやすく教えてくれるし!」
「一緒にやってくれるし!」
「先生みたい!」
「先生じゃありません!」
琴葉は慌てて否定するが、子どもたちは楽しそうに笑う。
その様子を見て、澪もくすっと笑った。
「でも、本当にすごいと思う。」
「え?」
「こんなに人が集まる場所にしてくれた。」
澪の言葉は静かだったが、どこか感心したような響きがあった。
琴葉は少しだけ言葉に詰まる。
「私は……ただ一緒にいるだけです。」
「それができるのがすごいんだよ。」
澪は穏やかに言った。
その言葉に、琴葉は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
*
「ねえ琴葉ちゃん!」
一人の男の子がふと思い出したように顔を上げる。
「大学っていつまで休みなの?」
「え?」
琴葉は少し考えてから答える。
「えっとね……九月の下旬くらいまでかな。」
その瞬間。
店内の空気が一瞬止まった。
「え、そんなに長いの?」
「いいなあ……!」
「ぼくたち、もうすぐ終わるのに。」
「なんでそんなに違うの?」
一気にざわざわとした声が広がる。
「いいなあ、大学って。」
「いっぱい休めるんだね。」
「でもその分、勉強も大変なんじゃない?」
少し年上の子が首をかしげる。
琴葉は慌てて手を振る。
「そうそう、その分授業も大変なんだよ?」
「ほんとに?」
「ほんとほんと!」
「レポートとかいっぱいあるし……」
「レポートってなに?」
「えっと……宿題みたいなものかな。」
「じゃあやっぱり大変じゃん。」
「うん、けっこう大変。」
「じゃあちょっと安心した。」
「でも長い休みはうらやましいなあ。」
子どもたちはそれぞれ納得したように頷いたり、少し羨ましそうにしたりしている。
澪はその様子を見て、思わず笑った。
「ふふ……。」
「澪さん、笑ってないで助けてください!」
「ごめんごめん。」
澪は笑いながら子どもたちに言う。
「でもね、その分琴葉ちゃんは、みんなより長くここに来てくれるってことだよ。」
その一言で。
子どもたちの動きがぴたりと止まった。
「ほんと?」
「じゃあ、まだいっぱい来てくれるの?」
「毎日来る?」
澪が頷く。
「九月の終わりまで、できるだけ来てくれるって。」
子どもたちは顔を見合わせる。
そして。
「じゃあ楽しみ!」
「いっぱい来てね!」
「また宿題見てほしい!」
「次は自由研究も見て!」
さっきまでのざわめきが、今度は期待に変わる。
琴葉は思わず笑ってしまう。
「はいはい、できるだけ来るね。」
「約束だよ!」
「約束。」
指切りをする子どもたち。
その様子を見て、澪は優しく目を細めた。
*
そのときだった。
カラン――。
少し控えめに扉が開く。
昨日、琴葉に抱きついてきた女の子だった。
今日は両手で大事そうに何かを抱えている。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
琴葉が笑顔で迎える。
女の子は少し照れながら近づいてきた。
「これ。」
差し出したのは、小さな写真立てだった。
中には一枚の絵。
色鉛筆で描かれた栞堂。
本棚。
雑貨。
そして。
澪と琴葉。
子どもたち。
みんなが笑っている。
店の上には、大きくこう書かれていた。
『しおりどう だいすき』
琴葉はしばらく言葉が出なかった。
「描いてくれたの?」
女の子は小さく頷く。
「昨日。」
「琴葉ちゃん、いたから。」
その言葉だけで十分だった。
琴葉はしゃがみ込み、目線を合わせる。
「ありがとう。」
「宝物にするね。」
女の子は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、澪も静かに目を細める。
「……飾ろう。」
「え?」
「みんなが見える場所に。」
澪は写真立てを受け取り、本棚の横の小さな棚へ飾った。
店の入口からも見える場所。
「これで、栞堂の新しい宝物。」
「はい。」
琴葉も笑った。
*
夕方。
子どもたちが帰り、店内は静かになった。
窓の外では、ヒグラシが鳴いている。
「琴葉ちゃん。」
澪が写真立てを眺めながら言う。
「おじいちゃんがね。」
「はい。」
「『店は本や雑貨だけじゃない。人が帰ってこられる場所であればいい。』」
琴葉は静かに聞いていた。
「小さい頃は意味が分からなかった。」
「でも。」
写真立てを見る。
「最近、少し分かる。」
琴葉も同じ方向を見る。
描かれた笑顔。
小さな栞堂。
そして、自分。
「私もです。」
「最初は本を読む場所だと思っていました。」
「でも違いました。」
「うん。」
「ここは。」
少しだけ考える。
「帰ってきたくなる場所です。」
澪は穏やかに微笑んだ。
「ありがとう。」
その一言は、とても静かで。
とても温かかった。
*
店を閉める時間。
カラン、と最後のお客さんを見送り、澪が「本日は終了しました」の札を掛ける。
窓の外は茜色。
二人で店の前を掃きながら、澪が空を見上げた。
「もうすぐ九月だね。」
「早いですね。」
「でも、大学の夏休みはまだ続くんだよね。」
「はい。」
琴葉は少し笑う。
「九月の下旬まであります。」
澪はくすっと笑った。
「さっきの子たちに聞かれたら、また騒ぎになりそう。」
「きっとなりますね。」
二人は顔を見合わせて笑った。
琴葉はほうきを止めて栞堂を見つめる。
毎日通った夏の日々。
商店街。
子どもたち。
澪。
笑顔。
祭り。
実家。
そして帰ってきた場所。
すべてが、このひと夏で大切な思い出になっていた。
「明日も来ます。」
琴葉が笑う。
澪も笑う。
「うん。」
「待ってる。」
その言葉を聞いて、琴葉は自然に笑顔になった。
栞堂は今日も静かに一日を終える。
古い本も。
雑貨も。
祖父から受け継いだ工具も。
人と人との縁も。
すべてを優しく包み込みながら。
ここには、誰かがふと立ち寄り、また戻ってきたくなる理由がある。
扉を開ければ、変わらない空気と、変わらず迎えてくれる人がいる。
それだけで、人は安心して「ただいま」と言えるのかもしれない。
夏はやがて終わり、季節は巡っていく。
けれど、この場所だけは、いつでもそこにある。
誰かが帰ってくるのを、静かに待ちながら。
――第六章 完――




