第六章 帰る場所(中編)
翌日。
カラン、カラン――。
「おはようございます。」
「おはよう。」
澪が顔を上げる。
「昨日は遅かったね。」
「はい、夜に帰ってきたので。」
琴葉は少し照れながら笑った。
「昨日、少しだけ話しましたけど……」
「うん。」
澪は手を止める。
「ちゃんと聞かせて。」
琴葉は小さく頷いた。
「父が、昔ここに来ていたみたいで。」
澪はしばらく何も言わなかった。
店内には静かな空気が流れる。
壁に掛かった古時計が、ゆっくりと時を刻んでいた。
「……びっくりした。」
澪がようやく小さく笑う。
「私もです。」
琴葉はバッグを椅子の横へ置いた。
「父は仕事で商店街に来ていて、おじいさんに時計を直してもらったそうです。」
「時計……。」
澪は懐かしそうに呟く。
「腕時計?」
「はい。」
「革のベルトの。」
「銀色のケースでした。」
澪は少し考えてから、小さく頷いた。
「覚えてる。」
「え?」
琴葉が思わず声を上げる。
「そんな昔のことなのに?」
「時計じゃなくて。」
澪は笑う。
「おじいちゃんがね。」
少し遠くを見る。
「『今日は腕時計のお客さんが来るから、一緒に見てる?』って。」
琴葉は静かに聞いていた。
「小さかったから。」
「私は工具を渡すくらいしかできなかったけど。」
「でも。」
澪は微笑む。
「革ベルトを布で磨いたの、覚えてる。」
「それ。」
「琴葉ちゃんのお父さんの時計だったのか。」
琴葉は驚いたまま言葉が出なかった。
二十年以上前。
小さな澪。
そして、自分の父。
まさかそんなところで繋がっていたなんて。
「縁って不思議ですね。」
「本当にね。」
澪も優しく笑った。
*
夕方になる頃。
子どもたちがやって来た。
「琴葉ちゃーん!」
「おかえり!」
「宿題持ってきた!」
「今日は算数!」
「ぼくは漢字!」
「わたしは読書感想文!」
机いっぱいにノートが並ぶ。
「じゃあ順番ね。」
琴葉が椅子へ座る。
その時だった。
入口のドアが、少しだけ開いた。
カラン……。
でも、誰も入ってこない。
「……?」
琴葉が顔を上げる。
すると。
ドアの隙間から、小さな手がひょこっと見えた。
「……あ。」
見覚えのある手。
そして。
ゆっくりと、顔がのぞく。
「……琴葉ちゃん。」
小さな女の子だった。
いつも来ている、少し人見知りの子。
その声は、いつもよりもかすかに震えていた。
「どうしたの?」
琴葉が優しく声をかける。
女の子は少しだけ迷ってから。
そのまま、店の中へ入ってきた。
足取りはゆっくりで、どこか不安そうに揺れている。
そして。
まっすぐ琴葉のところまで歩いてきて――
ぎゅっ。
「……!」
突然、抱きついてきた。
小さな腕が、思いきり琴葉の体に回される。
その力は思ったよりも強くて、必死さが伝わってきた。
「え、どうしたの?」
琴葉は驚きながらも、そっと背中に手を回す。
女の子は顔を埋めたまま、小さな声で言った。
「……昨日、来たの。」
「うん。」
「いなかった。」
その言葉は、ぽつりと落ちるようにこぼれた。
でも、その奥には、ずっと我慢していた気持ちが詰まっているのが分かった。
「……ごめんね。」
琴葉は優しく頭を撫でる。
女の子の体は、ほんの少しだけ震えていた。
「実家に帰ってたの。」
女の子は少しだけ顔を上げる。
目が、少し潤んでいる。
「……さみしかった。」
その一言は、とても小さかったけれど。
胸の奥にまっすぐ届いた。
琴葉の胸が、きゅっと締めつけられる。
この子は、昨日ここに来て。
いつもの場所に自分がいなくて。
それでも何も言えずに帰ったのだろう。
その時間を想像すると、胸が痛くなった。
「そっか。」
琴葉は、もう一度しっかりと抱きしめ返す。
「ごめんね。」
そして、少しだけ声を柔らかくして言った。
「でも、もういるよ。」
その言葉に。
女の子の体の力が、ほんの少しだけ抜けた。
ぎゅっとしていた腕が、少しだけ緩む。
でも、離れはしない。
むしろ、安心したように、さらに体を預けてくる。
「……うん。」
小さく頷く声は、さっきよりも少しだけ落ち着いていた。
琴葉はその変化を感じながら、ゆっくりと背中を撫で続ける。
最初は固くこわばっていた体が、少しずつ柔らかくなっていく。
呼吸も、少しずつ整っていく。
寂しさでいっぱいだった心が、今ここで、安心に変わっていくのが分かった。
その様子を、少し離れたカウンターから見ていた澪が、そっとカメラを取り出した。
音を立てないように、静かに構える。
夕日の光が差し込む中で、琴葉と女の子の姿がやわらかく浮かび上がる。
ぎゅっと抱きしめる腕。
安心して身を預ける小さな背中。
その一瞬を、澪はそっと切り取った。
カシャ、と小さな音が鳴る。
誰にも気づかれないほどの、やさしい音だった。
澪は撮った写真を確認して、少しだけ微笑む。
「……いい写真。」
小さく呟く。
それは、ただの記録ではなく。
この場所に流れる時間そのものを残したような一枚だった。
「……あの。」
琴葉は少し困ったように笑う。
「宿題、やる?」
女の子は首を横に振る。
でも、その動きはさっきよりも素直で、どこか甘えるようだった。
「……あとで。」
「そっか。」
その声には、もうさっきの不安はほとんど残っていなかった。
その様子を見ていた子どもたちが、くすくす笑う。
「甘えてるー!」
「いいなー!」
「ぼくも!」
「だめ!」
女の子がすぐに言い返す。
その声は、さっきよりもずっとはっきりしていて、元気だった。
店内に笑いが広がる。
澪もカウンターからその様子を見て、静かに微笑んでいた。
「人気者だね。」
「……ですね。」
琴葉は少し照れながら答える。
腕にしがみついたままの女の子の頭を、もう一度優しく撫でた。
「じゃあ、ここに座ろうか。」
「うん。」
ようやく少しだけ離れて、隣の椅子に座る。
それでも、袖をぎゅっとつかんだまま。
その手は、もう不安でしがみつくものではなく。
安心を確かめるように、そっと触れているようだった。
「離れないんだ。」
澪が小さく笑う。
「はい。」
琴葉も笑う。
「今日は特別です。」
「いいね。」
澪は頷いた。
「そういう日も必要。」
夕日が栞堂の窓から差し込み、本棚をやさしく照らしている。
古い本も。
雑貨も。
工具も。
そして、人のぬくもりも。
すべてが、この店に静かに息づいている。
琴葉はふと思う。
ここは、壊れたものを直すだけの場所ではない。
人の心がほどけ、また戻ってこられる場所。
その時間を受け継ぎながら、栞堂は今日も、誰かの「帰る場所」であり続けている。
(第六章後編へ続く)




