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第六章 帰る場所(前編)



夏祭りが終わって数日。


商店街は、いつもの落ち着いた雰囲気に戻っていた。


昼間の強い日差しに照らされた舗道は白く乾き、屋台の跡にはまだかすかに焼きそばのソースや甘い綿菓子の匂いが残っている。風が吹くと、どこか遠くから鈴のような音が混じる気がして、祭りの余韻がふっと蘇る。


提灯は外され、屋台ももうない。


それでも、歩くとふと祭りの賑やかさを思い出す。


その朝。


琴葉は小さなバッグを持って栞堂へ寄った。


カラン、カラン――。


扉のベルが澄んだ音を立て、店内に静かな空気が広がる。紙とインクの匂い、木の棚の乾いた香りが、外の暑さとは違う落ち着きを運んでくる。


「おはようございます。」


「おはよう。」


澪が顔を上げる。


「今日は荷物あるね。」


「ちょっと実家に。」


「そっか。」


澪は軽く頷いた。


「気をつけて。」


「はい。」


少しだけ間が空く。


店の奥で時計の針がかすかに刻む音が聞こえる。


琴葉はバッグの持ち手を握り直した。


「……二日くらいです。」


「うん。」


「すぐ戻ります。」


澪は小さく笑った。


「待ってる。」


その一言に、琴葉も笑う。


「いってきます。」


「いってらっしゃい。」



昼過ぎ。


電車を降りると、懐かしい駅が見えた。


ホームには夏の熱気がこもり、アスファルトから立ち上る匂いと、遠くで鳴く蝉の声が重なる。


改札の向こうで、小さな影がぴょんぴょん跳ねている。


「お姉ちゃーん!」


「健。」


駆け寄ってきた弟が、そのまま抱きついてくる。


「重い。」


「うそだ!」


笑いながら頭を撫でる。


「背、伸びた?」


「一年生だから!」


胸を張る姿に、思わず笑った。



「ただいま。」


玄関を開けると、ひんやりとした空気と、出汁の香りがふわりと広がる。


「おかえり。」


台所から母の声。


包丁がまな板に当たる軽やかな音が続いている。


振り向いた顔が、ちょっと安心したように見えた。


リビングでは父が新聞を畳む。


紙の擦れる音が静かに響く。


「帰ったか。」


「うん。」


健はもう袋を覗き込んでいる。


「これなに?」


「あとでね。」


「えー。」


母が笑う。


「手、洗ってきなさい。」


「はーい!」


ばたばたと走っていく足音が廊下に響く。


その音を聞きながら、琴葉は靴を揃えた。



夕食。


湯気の立つ味噌汁の香り、焼き魚の香ばしさが食卓を満たす。


久しぶりに四人で囲む食卓。


「大学どう?」


父が味噌汁をすすりながら聞く。


「普通。」


「普通か。」


少し間があって。


琴葉はぽつぽつ話し始めた。


店のこと。


商店街のこと。


子どもたちのこと。


祭りの日のこと。


話しているうちに、どんどん言葉が出てくる。


健は口を開けたまま聞いている。


「それでね、祭りの日に――」


「いいなあ!」


健が身を乗り出す。


「行きたい!」


「来年ね。」


「ほんと?」


「うん。」


母がくすっと笑う。


「楽しそうね。」


琴葉は少し肩をすくめる。


「まあ。」


父が箸を止める。


「その店、名前なんだっけ。」


「栞堂。」


「……ああ。」


父の視線が止まる。


少し考えるようにしてから、ゆっくり顔を上げた。


「朝倉さんのとこか。」


琴葉の手が止まる。


「知ってるの?」


父はすぐには答えず、湯飲みに手を伸ばす。


湯気がゆらりと立ち上る。


「ああ。」


短く言って立ち上がる。


引き出しを開ける音。


戻ってきた手には、小さな箱と古いアルバム。


テーブルに置く。


父はアルバムを開いた。


ページをめくる紙の音が静かに響く。


一枚の写真。


色あせた店先。


若い父。


その隣に立つ老人。


腕の中に、小さな女の子。


琴葉は思わず見入る。


「……この子。」


父は小さく頷く。


それ以上は言わない。


写真の中の女の子は、どこか遠くを見ている。


その横で、老人が優しく笑っている。


父は静かにアルバムを閉じた。


今度は箱を開ける。


中には腕時計。


使い込まれた革ベルトと、小さな傷のあるケース。


父はそれを手に取る。


軽く振ると、秒針が動き出す。


チ、チ、と小さな音。


部屋の空気が、その音に合わせてゆっくり流れるようだった。


誰も何も言わない。


ただ、その音だけが続く。


父は時計をそっと戻した。


「いい店だよ。」


ぽつりと一言。


それだけだった。


琴葉は顔を上げる。


父はもう普通に食事に戻っている。


その横顔を少し見てから、琴葉も箸を持ち直した。



翌日。


昼は家族で近くの公園へ。


蝉の声が降り注ぎ、草の匂いが風に乗る。


健は走り回って、「見て!」を何度も繰り返す。


母はベンチで笑いながら見ていて、


父はその隣で空を見上げていた。


四人でアイスを食べて、


溶けかけた甘さを舌で感じながら、


他愛ない話をして、


ゆっくり時間が流れる。


特別なことはないけど、それが心地よかった。



夜。


玄関。


外は少し涼しくなり、虫の声が静かに響いている。


「もう帰るの?」


健が少し寂しそうに見上げる。


「うん。」


「また来る?」


「来るよ。」


「ほんと?」


「ほんと。」


指を絡める。


「約束。」


「約束。」


健がようやく笑う。


外に出ると、父と母が並んでいた。


街灯の柔らかい光が二人を照らす。


「気をつけて。」


「うん。」


父は軽く手を上げる。


琴葉も同じように返す。


それだけで十分だった。



夜の商店街。


昼の熱気が引き、少し湿った夜風が通り抜ける。


店先の灯りがぽつぽつと並び、暖色の光が路地をやわらかく照らしている。


遠くで風鈴が鳴り、どこかの店からは出汁の香りが漂ってくる。


「琴葉ちゃん!」


八百屋の声。


「おかえり!」


「ただいま。」


自然に返していた。


花屋でも。


和菓子屋でも。


同じやり取りが続く。


歩くたびに、胸が少しずつ軽くなる。


カラン、カラン――。


栞堂の扉を開ける。


夜の店内は昼よりも静かで、ランプの柔らかな光が本棚を照らしている。


紙の匂いと、ほんのりとした木の温もり。


「ただいま。」


澪が顔を上げる。


少し目を細めて。


「おかえり。」


その声が、なんだかやわらかい。


琴葉は小さく息を吐く。


「戻りました。」


「うん。」


澪がカウンター越しに見る。


「どうだった?」


「実家ですか?」


「うん。」


琴葉は少し考える。


「変わってなかったです。」


「いい意味で?」


「はい。」


少し笑う。


「でも、なんか……」


言葉を探す。


「ちょっと違う感じもしました。」


「違う?」


「前より落ち着いて見えたというか。」


澪は頷く。


「琴葉が変わったからかもね。」


琴葉は少し驚く。


「そうですか?」


「うん。」


澪は穏やかに笑う。


「帰る場所が増えると、見え方も変わるよ。」


琴葉はゆっくり頷く。


「……そうかも。」


少し静かな時間。


外から虫の声が聞こえる。


店の奥では、時計が静かに時を刻んでいる。


「あと。」


琴葉が続ける。


「ちょっと寂しかったです。」


「え?」


「ここ来ないの。」


澪は一瞬驚いて、それから笑う。


「私も。」


短いけど、それで十分だった。


琴葉も笑う。


「よかった。」


「子どもたちも聞いてたよ。」


「なんて?」


「『琴葉ちゃんまだ?』って。」


思わず吹き出す。


「ちゃんと宿題やってました?」


「一応ね。」


「一応なんですね。」


二人で軽く笑う。


その空気が、すっと戻ってきた感じがした。


琴葉はバッグを置く。


少し迷ってから口を開く。


「……そういえば。」


「うん?」


「実家で、ちょっとびっくりしたことがあって。」


澪が首を傾げる。


「なに?」


琴葉はゆっくり言う。


「父が、昔ここに来てたみたいで。」


澪の手が止まる。


「え?」


「時計、直してもらったって。」


静かな間。


琴葉は続ける。


「あと、写真もあって。」


「おじいさんと……小さい子が写ってて。」


澪は何も言わない。


ただ、少しだけ視線を落とす。


店の奥。


古い工具。


その向こうにある、触れられない時間を見つめるように。


やがて、澪はゆっくりと顔を上げた。


「……そう。」


それだけだった。


けれど、その声には、どこか確かめるような響きがあった。


琴葉はそれ以上言葉を続けなかった。


言葉にしなくても、何かが静かに動き始めている気がしたから。


店の奥で、時計がひとつ、わずかに音を立てる。


チ、と。


ほんの一瞬。


それが、ただの音なのか、それとも――


琴葉には分からなかった。


(第六章中編へ続く)

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