第六章 帰る場所(前編)
夏祭りが終わって数日。
商店街は、いつもの落ち着いた雰囲気に戻っていた。
昼間の強い日差しに照らされた舗道は白く乾き、屋台の跡にはまだかすかに焼きそばのソースや甘い綿菓子の匂いが残っている。風が吹くと、どこか遠くから鈴のような音が混じる気がして、祭りの余韻がふっと蘇る。
提灯は外され、屋台ももうない。
それでも、歩くとふと祭りの賑やかさを思い出す。
その朝。
琴葉は小さなバッグを持って栞堂へ寄った。
カラン、カラン――。
扉のベルが澄んだ音を立て、店内に静かな空気が広がる。紙とインクの匂い、木の棚の乾いた香りが、外の暑さとは違う落ち着きを運んでくる。
「おはようございます。」
「おはよう。」
澪が顔を上げる。
「今日は荷物あるね。」
「ちょっと実家に。」
「そっか。」
澪は軽く頷いた。
「気をつけて。」
「はい。」
少しだけ間が空く。
店の奥で時計の針がかすかに刻む音が聞こえる。
琴葉はバッグの持ち手を握り直した。
「……二日くらいです。」
「うん。」
「すぐ戻ります。」
澪は小さく笑った。
「待ってる。」
その一言に、琴葉も笑う。
「いってきます。」
「いってらっしゃい。」
*
昼過ぎ。
電車を降りると、懐かしい駅が見えた。
ホームには夏の熱気がこもり、アスファルトから立ち上る匂いと、遠くで鳴く蝉の声が重なる。
改札の向こうで、小さな影がぴょんぴょん跳ねている。
「お姉ちゃーん!」
「健。」
駆け寄ってきた弟が、そのまま抱きついてくる。
「重い。」
「うそだ!」
笑いながら頭を撫でる。
「背、伸びた?」
「一年生だから!」
胸を張る姿に、思わず笑った。
*
「ただいま。」
玄関を開けると、ひんやりとした空気と、出汁の香りがふわりと広がる。
「おかえり。」
台所から母の声。
包丁がまな板に当たる軽やかな音が続いている。
振り向いた顔が、ちょっと安心したように見えた。
リビングでは父が新聞を畳む。
紙の擦れる音が静かに響く。
「帰ったか。」
「うん。」
健はもう袋を覗き込んでいる。
「これなに?」
「あとでね。」
「えー。」
母が笑う。
「手、洗ってきなさい。」
「はーい!」
ばたばたと走っていく足音が廊下に響く。
その音を聞きながら、琴葉は靴を揃えた。
*
夕食。
湯気の立つ味噌汁の香り、焼き魚の香ばしさが食卓を満たす。
久しぶりに四人で囲む食卓。
「大学どう?」
父が味噌汁をすすりながら聞く。
「普通。」
「普通か。」
少し間があって。
琴葉はぽつぽつ話し始めた。
店のこと。
商店街のこと。
子どもたちのこと。
祭りの日のこと。
話しているうちに、どんどん言葉が出てくる。
健は口を開けたまま聞いている。
「それでね、祭りの日に――」
「いいなあ!」
健が身を乗り出す。
「行きたい!」
「来年ね。」
「ほんと?」
「うん。」
母がくすっと笑う。
「楽しそうね。」
琴葉は少し肩をすくめる。
「まあ。」
父が箸を止める。
「その店、名前なんだっけ。」
「栞堂。」
「……ああ。」
父の視線が止まる。
少し考えるようにしてから、ゆっくり顔を上げた。
「朝倉さんのとこか。」
琴葉の手が止まる。
「知ってるの?」
父はすぐには答えず、湯飲みに手を伸ばす。
湯気がゆらりと立ち上る。
「ああ。」
短く言って立ち上がる。
引き出しを開ける音。
戻ってきた手には、小さな箱と古いアルバム。
テーブルに置く。
父はアルバムを開いた。
ページをめくる紙の音が静かに響く。
一枚の写真。
色あせた店先。
若い父。
その隣に立つ老人。
腕の中に、小さな女の子。
琴葉は思わず見入る。
「……この子。」
父は小さく頷く。
それ以上は言わない。
写真の中の女の子は、どこか遠くを見ている。
その横で、老人が優しく笑っている。
父は静かにアルバムを閉じた。
今度は箱を開ける。
中には腕時計。
使い込まれた革ベルトと、小さな傷のあるケース。
父はそれを手に取る。
軽く振ると、秒針が動き出す。
チ、チ、と小さな音。
部屋の空気が、その音に合わせてゆっくり流れるようだった。
誰も何も言わない。
ただ、その音だけが続く。
父は時計をそっと戻した。
「いい店だよ。」
ぽつりと一言。
それだけだった。
琴葉は顔を上げる。
父はもう普通に食事に戻っている。
その横顔を少し見てから、琴葉も箸を持ち直した。
*
翌日。
昼は家族で近くの公園へ。
蝉の声が降り注ぎ、草の匂いが風に乗る。
健は走り回って、「見て!」を何度も繰り返す。
母はベンチで笑いながら見ていて、
父はその隣で空を見上げていた。
四人でアイスを食べて、
溶けかけた甘さを舌で感じながら、
他愛ない話をして、
ゆっくり時間が流れる。
特別なことはないけど、それが心地よかった。
*
夜。
玄関。
外は少し涼しくなり、虫の声が静かに響いている。
「もう帰るの?」
健が少し寂しそうに見上げる。
「うん。」
「また来る?」
「来るよ。」
「ほんと?」
「ほんと。」
指を絡める。
「約束。」
「約束。」
健がようやく笑う。
外に出ると、父と母が並んでいた。
街灯の柔らかい光が二人を照らす。
「気をつけて。」
「うん。」
父は軽く手を上げる。
琴葉も同じように返す。
それだけで十分だった。
*
夜の商店街。
昼の熱気が引き、少し湿った夜風が通り抜ける。
店先の灯りがぽつぽつと並び、暖色の光が路地をやわらかく照らしている。
遠くで風鈴が鳴り、どこかの店からは出汁の香りが漂ってくる。
「琴葉ちゃん!」
八百屋の声。
「おかえり!」
「ただいま。」
自然に返していた。
花屋でも。
和菓子屋でも。
同じやり取りが続く。
歩くたびに、胸が少しずつ軽くなる。
カラン、カラン――。
栞堂の扉を開ける。
夜の店内は昼よりも静かで、ランプの柔らかな光が本棚を照らしている。
紙の匂いと、ほんのりとした木の温もり。
「ただいま。」
澪が顔を上げる。
少し目を細めて。
「おかえり。」
その声が、なんだかやわらかい。
琴葉は小さく息を吐く。
「戻りました。」
「うん。」
澪がカウンター越しに見る。
「どうだった?」
「実家ですか?」
「うん。」
琴葉は少し考える。
「変わってなかったです。」
「いい意味で?」
「はい。」
少し笑う。
「でも、なんか……」
言葉を探す。
「ちょっと違う感じもしました。」
「違う?」
「前より落ち着いて見えたというか。」
澪は頷く。
「琴葉が変わったからかもね。」
琴葉は少し驚く。
「そうですか?」
「うん。」
澪は穏やかに笑う。
「帰る場所が増えると、見え方も変わるよ。」
琴葉はゆっくり頷く。
「……そうかも。」
少し静かな時間。
外から虫の声が聞こえる。
店の奥では、時計が静かに時を刻んでいる。
「あと。」
琴葉が続ける。
「ちょっと寂しかったです。」
「え?」
「ここ来ないの。」
澪は一瞬驚いて、それから笑う。
「私も。」
短いけど、それで十分だった。
琴葉も笑う。
「よかった。」
「子どもたちも聞いてたよ。」
「なんて?」
「『琴葉ちゃんまだ?』って。」
思わず吹き出す。
「ちゃんと宿題やってました?」
「一応ね。」
「一応なんですね。」
二人で軽く笑う。
その空気が、すっと戻ってきた感じがした。
琴葉はバッグを置く。
少し迷ってから口を開く。
「……そういえば。」
「うん?」
「実家で、ちょっとびっくりしたことがあって。」
澪が首を傾げる。
「なに?」
琴葉はゆっくり言う。
「父が、昔ここに来てたみたいで。」
澪の手が止まる。
「え?」
「時計、直してもらったって。」
静かな間。
琴葉は続ける。
「あと、写真もあって。」
「おじいさんと……小さい子が写ってて。」
澪は何も言わない。
ただ、少しだけ視線を落とす。
店の奥。
古い工具。
その向こうにある、触れられない時間を見つめるように。
やがて、澪はゆっくりと顔を上げた。
「……そう。」
それだけだった。
けれど、その声には、どこか確かめるような響きがあった。
琴葉はそれ以上言葉を続けなかった。
言葉にしなくても、何かが静かに動き始めている気がしたから。
店の奥で、時計がひとつ、わずかに音を立てる。
チ、と。
ほんの一瞬。
それが、ただの音なのか、それとも――
琴葉には分からなかった。
(第六章中編へ続く)




