第五章 灯りのともる街(後編)
栞堂を出ると、商店街は祭りの熱気に包まれていた。
提灯の灯りが赤く揺れ、屋台から立ちのぼる湯気が夜の空気に溶けていく。
焼きそばのソースの香ばしい匂い、甘い綿あめの砂糖の匂い、油のはじける音。
遠くからは太鼓の低い響きと笛の高い音が重なり、足元には人の流れが絶えず続いている。
浴衣の袖が人とすれ違うたびにかすかに触れ、夏の湿った空気が肌にまとわりついた。
昼間とはまったく違う景色だった。
「やっぱり夜の方がきれいですね」
琴葉が見上げる。
提灯の赤い灯りが、ゆらゆらと風に揺れている。
その風はほんのりと温かく、どこか甘い匂いを運んできた。
澪も同じように空を見上げた。
「毎年見てるけど、やっぱり好きだな」
「毎年ですか?」
「うん」
澪は少しだけ笑う。
「小さい頃からずっと」
その言葉に、琴葉は澪の横顔を見つめた。
「おじいちゃんと?」
「そう」
澪はゆっくり頷く。
「屋台を回ってね。」
「最後はいつも栞堂の前でラムネを飲んでた。」
「『祭りは終わるから楽しいんだ』って、おじいちゃんが毎年言ってた。」
琴葉は静かに聞く。
遠くで鳴る太鼓の音が、言葉の合間にゆっくりと響く。
「終わるから……ですか。」
「終わらなかったら、特別じゃなくなるでしょ?」
「だから来年も楽しみになる。」
澪は少し照れたように笑う。
「子どもの頃は全然分からなかったけどね。」
琴葉も笑った。
「今は?」
「今は少し分かるかな。」
澪は首から下げたカメラに軽く触れる。
金属のひんやりした感触が指先に伝わる。
「これもね、おじいちゃんの形見なんだ。」
琴葉は少し驚いたように目を見開く。
「そうだったんですか。」
「うん。昔からずっとこれで写真を撮ってて。」
「私もそれを借りて、最初に撮ったのがこの祭りだった。」
澪は少しだけ遠くを見る。
「だから、ここで撮る写真は特別なんだ。」
琴葉は静かに頷いた。
「……大切なんですね。」
「うん。」
澪は優しく笑う。
「すごく。」
二人はゆっくり歩き続けた。
*
最初に立ち寄ったのは焼きそば屋だった。
鉄板の上でジュウッと音を立てて麺が炒められ、油がはじける。
ソースの焦げる匂いが鼻をくすぐり、思わずお腹が鳴りそうになる。
「二つください。」
「はいよ!」
大きな鉄板の上で麺が踊る。
「熱いから気を付けてね。」
受け取った焼きそばは、容器越しにもじんわりと熱が伝わってくる。
近くのベンチに座ると、木の表面がほんのりと温かかった。
「いただきます。」
「いただきます。」
琴葉が一口食べる。
湯気と一緒にソースの香りが広がる。
「……おいしい。」
「でしょ?」
澪も嬉しそうに笑う。
「祭りの焼きそばって、家で作るのと違うんですよね。」
「雰囲気もあるんだろうね。」
「そうかもしれません。」
遠くで子どもが笑い、近くで誰かが呼び込みの声を上げる。
そのざわめきの中で、二人はゆっくりと食べ進めた。
*
そのあとも。
たこ焼きの熱々の生地が口の中でとろけ、
じゃがバターのほくほくした温かさが手のひらに残り、
ラムネの瓶を開けると、シュワッと弾ける音とともに冷たい炭酸が喉を通る。
「もう食べられません。」
琴葉が苦笑する。
「私も。」
「最初はいっぱい食べるって言ってたのに。」
「言ったっけ?」
「言いました。」
「覚えてる?」
「もちろんです。」
澪は笑った。
「琴葉ちゃん、記憶力いいね。」
「澪さんほどじゃありません。」
「私は忘れるよ?」
「忘れてません。」
「そう?」
「今日だけでも何枚写真撮ったと思ってるんですか。」
澪は首から下げたカメラを軽く叩く。
「三十枚くらい?」
「そんなに。」
「もっとかも。」
「全部現像するんですか?」
「お気に入りだけ。」
「じゃあ、変な顔は消してください。」
「変な顔なんて一枚もないよ。」
琴葉は少しだけ照れた。
*
歩いていると、広場の中央で盆踊りが始まった。
太鼓の重い音が胸に響き、笛の音が夜空に伸びていく。
足元の地面は人の動きでわずかに振動しているように感じられた。
輪になって踊る人たち。
子どもも大人も混ざっている。
「入ります?」
琴葉が聞く。
「琴葉ちゃん踊れる?」
「踊れません。」
「私も。」
二人は顔を見合わせる。
そして笑った。
「見てるだけにしよう。」
「はい。」
ベンチに座り、踊る人たちを眺める。
風が吹く。
汗ばんだ肌に触れる風が、少しだけ涼しい。
浴衣の袖が揺れた。
「静かですね。」
琴葉が呟く。
「祭りなのに?」
「賑やかですけど……。」
少し考える。
「澪さんといると落ち着きます。」
澪は少し驚いた顔をした。
それから照れ隠しのように笑う。
「それ、褒めてる?」
「はい。」
「ありがとう。」
少しだけ沈黙が流れる。
でも、不思議と気まずくない。
太鼓の音と人のざわめきが、ちょうどいい距離で二人を包んでいた。
その静けさの中で、琴葉はふと気づく。
――この時間が、終わってほしくない。
そんなふうに思っている自分に。
*
「写真、撮ろうか。」
澪が立ち上がる。
「二人で?」
「うん。」
近くを歩いていた和菓子屋の店主が声をかけてきた。
「撮ってあげようか?」
「お願いします。」
カメラを渡す。
「そこ並んで。」
二人は提灯の下に立った。
提灯の灯りが柔らかく顔を照らし、ほんのりと紙の匂いが漂う。
「もう少し近く。」
「はい。」
琴葉が少しだけ澪に近づく。
肩と肩の間に、ほんの少しだけ隙間が残る。
「もうちょっと。」
店主が笑う。
「そんな遠慮しなくても。」
琴葉は少しだけ照れながら、もう半歩近づいた。
浴衣の布がかすかに触れ合う。
その一瞬、心臓がわずかに跳ねる。
理由は分からない。
でも、離れたくないと思った。
「いいね。」
「撮るよー!」
二人は同時に笑う。
カシャ。
シャッターの音が響く。
「もう一枚!」
カシャ。
「はい、できた。」
「ありがとうございます。」
カメラを受け取る澪。
画面を見る。
「いい写真。」
琴葉も覗き込む。
提灯の灯り。
浴衣姿の二人。
自然な笑顔。
その中に、今この瞬間の空気まで閉じ込められているようだった。
「……本当ですね。」
琴葉も笑った。
「この写真、ください。」
「もちろん。」
「現像したら一枚渡す。」
「約束ですよ。」
「うん。」
澪は頷く。
「約束。」
その言葉が、思っていたよりも深く胸に残る。
ただの写真の約束なのに。
それ以上の意味を持っているような気がした。
*
祭りも終わりに近づく。
屋台が少しずつ片付けを始める。
鉄板の音が静まり、油の匂いも少しずつ薄れていく。
代わりに夜の涼しい空気がゆっくりと戻ってきた。
提灯だけが、まだ優しく灯っていた。
さっきまでの賑わいが、少しずつ遠ざかっていく。
「終わっちゃいますね。」
琴葉がぽつりと呟く。
その声には、ほんの少しだけ名残惜しさが混じっていた。
「うん。」
澪も静かに答える。
言葉は短いのに、その中に同じ気持ちがあるのが分かる。
少しの沈黙。
遠くで最後の太鼓が鳴る。
その音が、祭りの終わりを告げているようだった。
「でも。」
琴葉がゆっくりと顔を上げる。
迷いながら、それでも言葉を選ぶように。
「来年も、また来ましょう。」
澪は琴葉を見る。
その言葉の意味を、確かめるように。
ただの提案ではない。
ただの未来の話でもない。
――一緒にいることを、前提にした言葉。
「うん。」
澪は小さく頷く。
少しだけ間を置いてから、続ける。
「来年も、ここで。」
その声は、どこか優しかった。
「一緒に。」
琴葉はしっかり頷いた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「約束です。」
「約束。」
二人の間に、静かに言葉が落ちる。
それは軽いものではなくて。
でも重すぎるものでもなくて。
ただ、確かにそこに残るものだった。
祭りが終わるからこそ。
この約束が、特別になる。
*
栞堂へ戻る道。
商店街は静かになり始めていた。
提灯の灯りだけが、まだ夜を照らしている。
足音が少しだけ響くようになり、さっきまでの喧騒が嘘のようだった。
二人はしばらく何も話さなかった。
でも、その沈黙は心地よかった。
言葉にしなくても、同じ時間を共有していると分かるから。
「今日はありがとうございました。」
琴葉が言う。
少しだけ名残惜しさを隠すように。
「こちらこそ。」
澪が笑う。
「琴葉ちゃんと回れて楽しかった。」
「私もです。」
その一言に、いろんな気持ちが詰まっている。
歩幅を合わせながら歩く。
誰も急がない。
誰も黙ることを気にしない。
そんな時間だった。
栞堂の前まで戻る。
澪は店の看板を見上げる。
「また明日も開店。」
「私も来ます。」
即答だった。
言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。
でも、引っ込める気はなかった。
澪は思わず笑う。
「知ってる。」
「琴葉ちゃんだから。」
琴葉も笑う。
「もうその言葉、ずるいです。」
「どうして?」
「嬉しくなるので。」
澪は少し照れたように笑った。
ほんの一瞬、言葉が途切れる。
何かを言いかけて、やめたような間。
でも、それも悪くなかった。
「じゃあ、また明日。」
「はい。」
「また明日。」
カラン――。
栞堂の扉が静かに閉まる。
その音が、今日という一日の終わりを優しく区切った。
*
琴葉はアパートへの帰り道を歩きながら、スマートフォンを取り出した。
家族のグループチャットを開く。
『今日は商店街の夏祭りだったよ。すごく楽しかった。来年もまた行く約束したんだ。』
送信すると、すぐに母から返信が届く。
『楽しそうでよかったね。写真も見せてね。』
弟からは短く一言。
『屋台いいな!』
琴葉は思わず笑った。
「うん。」
小さく呟く。
今日撮った写真は、まだ手元にはない。
でも。
きっとあの一枚は、忘れられない。
澪と並んで笑った、今年の夏。
そして。
来年もまた、同じ場所で笑う約束。
その約束があるから、この夜は終わっても消えない。
胸の奥に、静かに灯り続ける。
提灯の灯りが消えたあとも。
その光だけは、ずっと残り続けるように。
(第五章 完)




