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第五章 灯りのともる街(前編)



夏祭り当日。


琴葉は朝から落ち着かなかった。


やるべきことはすべて終わっている。


大学の課題も、掃除も、洗濯も、朝食も。


それでも、時間だけが妙にゆっくり進む。


午後三時、栞堂。


その約束が、頭から離れない。


スマートフォンを見ては、また伏せる。


――どうして、こんなに楽しみなんだろう。


初めての夏祭り。


子どもたちとの約束。


商店街のみんなと準備してきた時間。


それだけでも十分な理由のはずなのに。


昨日、澪と並んで見た提灯のない通り。


『琴葉ちゃんだから』


その言葉が、何度も思い出される。


特別な意味なんてないはずなのに。


なぜか、胸の奥が少しだけ温かくなる。


「……もう」


琴葉は立ち上がった。


考えるのはやめる。


今日は夏祭りだ。


楽しめばいい。


それでいい。



午後一時半。


琴葉はアパートを出た。


少し早いが、花屋で着付けをしてもらう予定がある。


商店街へ近づくにつれて、景色が変わっていく。


入口の看板、頭上の提灯、並び始めた屋台。


まだ営業前なのに、焼きそばやたこ焼きの匂いが漂っている。


「琴葉ちゃん!」


振り返ると八百屋の店主。


「こんにちは」


「今日は早いな」


「着付けがあるので」


「おお、浴衣か。楽しみにしてるぞ」


「何でですか」


「祭りだから」


「絶対適当ですよね?」


「気のせいだ」


苦笑しながら歩き出すと、今度は和菓子屋。


「今日は浴衣でしょ?」


「そうです」


「あとで見に行くから」


「見に来なくても」


「楽しみだねえ」


さらに進むと、子どもたち。


「まだ浴衣じゃない!」


「今からです」


「何色?」


「見てからのお楽しみ」


「三時に栞堂でね」


「絶対!」


「覚えてます」


走っていく背中に思わず声をかける。


「走らない!」


返事だけが元気に返ってくる。


琴葉はため息をつきながら、少し笑った。


――いつからだろう。


この商店街で、こんなに名前を呼ばれるようになったのは。


少し前まで、ただの通りだった場所。


今は違う。


その変化が、少し嬉しい。



花屋に着くと、女性が迎えてくれた。


「待ってたわよ」


「少し早かったですか?」


「いいのよ。楽しみだったんでしょ?」


「……祭りが」


女性は何も言わず、ただ微笑んだ。


着付けが始まる。


帯を締め、襟を整え、胸元も丁寧に調整される。


「苦しくない?」


「少し」


「じゃあ、もう少し楽にしましょう」


指先が布を整えるたび、呼吸が少しずつ楽になる。


「どう?」


「大丈夫です」


そのとき、外から子どもたちの声。


「琴葉ちゃんいるー!?」


「まだ!」


「えー!」


「あとで!」


元気な声が遠ざかる。


「人気者ね」


「元気すぎます」


「好きなのよ、琴葉ちゃんのこと」


「そうなんですかね」


「そうよ」


女性は当然のように言った。


琴葉は少しだけ視線を落とす。


言葉を返さず、そのまま頷いた。



髪をまとめ、飾りをつける。


鏡に映る自分は、いつもと少し違う。


「どう?」


「……変じゃないですか?」


「すごく似合ってる」


「ありがとうございます」


「澪ちゃんも驚くわよ」


「……」


鏡越しに、自分の目を見る。


少しだけ、視線が揺れる。


「楽しみ?」


問いかけに、すぐには答えない。


ほんのわずかな間。


それから、小さく頷いた。


「はい」



午後二時五十分。


琴葉は花屋を出た。


慣れない下駄でゆっくり歩く。


人は増え、浴衣姿も目立つようになっている。


そして、栞堂が見えてくる。


提灯の下、澪が立っていた。


その手には、小さな古いカメラ。


通りを切り取るように、静かに構えている。


カシャ。


軽い音が、空気に溶ける。


琴葉は少し足を止める。


そのまま、数歩。


近づく。


澪が気づいて、カメラを下ろす。


「琴葉ちゃん」


「約束しましたから」


「まだ十分前だよ」


「……」


琴葉は時計を見る。


「本当だ」


「早いね」


「花屋さんが早く終わったので」


「……」


澪は少しだけ首を傾ける。


「楽しみだった?」


問いかけのあと、すぐには続かない。


琴葉は一瞬だけ視線を逸らす。


それから、戻す。


「……はい」


短く。


澪は小さく笑う。


カメラを持ち直す。


「一枚いい?」


「え?」


カシャ。


「……今の」


「記念」


「勝手に撮らないでください」


「似合ってるから」


琴葉は息をつく。


言い返そうとして、やめる。


視線だけが少し揺れる。


「……澪さんも、似合ってます」


澪は一瞬、言葉を止める。


「ありがとう」


そのあと、ほんのわずかに間が空く。


二人の視線が重なる。


逸らさないまま、数秒。


カシャ。


その瞬間だけ、音が割り込む。


琴葉はわずかに眉を寄せる。


でも、何も言わない。



子どもたちが駆け寄ってくる。


「かわいい!」


「髪も違う!」


「おっぱいも大丈夫?」


「……」


琴葉は一瞬固まる。


澪が肩を震わせる。


笑いをこらえながら、カメラを構える。


「はい、こっち」


カシャ。


笑い声ごと、切り取る。


琴葉は小さく息を吐く。


そのまま、少しだけ視線を横に流す。


澪と目が合う。


澪はまだ笑っている。


琴葉は、ほんの少しだけ口元を緩めた。



夕方。


提灯に灯りがともる。


昨日までの準備が、祭りの景色に変わる。


「すごい」


「……」


澪はすぐには答えない。


琴葉の視線の先を、同じように見上げる。


それから、少し遅れて。


「当たり前じゃん」


「……でも」


琴葉は言葉を探す。


提灯の光を見つめたまま。


「嬉しいです」


カシャ。


「また撮りましたね」


「うん」


「何でも撮りますね」


「……」


澪は少しだけ視線を落とす。


カメラ越しではなく、直接。


琴葉を見る。


「残したいから」


その言葉のあと、少しだけ間がある。


琴葉は何も言わない。


ただ、視線を受け止める。


それから、ゆっくりと逸らす。



「行ってきていいですか?」


「いいよ」


澪はすぐに答えない。


一拍置いてから。


「あとで一緒に回ろう」


「……」


琴葉は一瞬だけ黙る。


それから、小さく頷く。


「約束です」


「うん」


短い返事。


でも、そのあとも視線は離れない。


ほんのわずかな時間。


それから、琴葉は子どもたちの方へ向き直る。


歩き出す前に、振り返る。


提灯の下、澪がカメラを構えている。


目が合う。


どちらも、すぐには動かない。


琴葉が先に、小さく手を振る。


澪も、少し遅れて手を上げる。


カシャ。


その音だけが、少し遅れて胸に残った。


――夏祭りの夜は、まだ始まったばかりだった。


(第五章中編に続く)

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