第五章 灯りのともる街(前編)
夏祭り当日。
琴葉は朝から落ち着かなかった。
やるべきことはすべて終わっている。
大学の課題も、掃除も、洗濯も、朝食も。
それでも、時間だけが妙にゆっくり進む。
午後三時、栞堂。
その約束が、頭から離れない。
スマートフォンを見ては、また伏せる。
――どうして、こんなに楽しみなんだろう。
初めての夏祭り。
子どもたちとの約束。
商店街のみんなと準備してきた時間。
それだけでも十分な理由のはずなのに。
昨日、澪と並んで見た提灯のない通り。
『琴葉ちゃんだから』
その言葉が、何度も思い出される。
特別な意味なんてないはずなのに。
なぜか、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「……もう」
琴葉は立ち上がった。
考えるのはやめる。
今日は夏祭りだ。
楽しめばいい。
それでいい。
*
午後一時半。
琴葉はアパートを出た。
少し早いが、花屋で着付けをしてもらう予定がある。
商店街へ近づくにつれて、景色が変わっていく。
入口の看板、頭上の提灯、並び始めた屋台。
まだ営業前なのに、焼きそばやたこ焼きの匂いが漂っている。
「琴葉ちゃん!」
振り返ると八百屋の店主。
「こんにちは」
「今日は早いな」
「着付けがあるので」
「おお、浴衣か。楽しみにしてるぞ」
「何でですか」
「祭りだから」
「絶対適当ですよね?」
「気のせいだ」
苦笑しながら歩き出すと、今度は和菓子屋。
「今日は浴衣でしょ?」
「そうです」
「あとで見に行くから」
「見に来なくても」
「楽しみだねえ」
さらに進むと、子どもたち。
「まだ浴衣じゃない!」
「今からです」
「何色?」
「見てからのお楽しみ」
「三時に栞堂でね」
「絶対!」
「覚えてます」
走っていく背中に思わず声をかける。
「走らない!」
返事だけが元気に返ってくる。
琴葉はため息をつきながら、少し笑った。
――いつからだろう。
この商店街で、こんなに名前を呼ばれるようになったのは。
少し前まで、ただの通りだった場所。
今は違う。
その変化が、少し嬉しい。
*
花屋に着くと、女性が迎えてくれた。
「待ってたわよ」
「少し早かったですか?」
「いいのよ。楽しみだったんでしょ?」
「……祭りが」
女性は何も言わず、ただ微笑んだ。
着付けが始まる。
帯を締め、襟を整え、胸元も丁寧に調整される。
「苦しくない?」
「少し」
「じゃあ、もう少し楽にしましょう」
指先が布を整えるたび、呼吸が少しずつ楽になる。
「どう?」
「大丈夫です」
そのとき、外から子どもたちの声。
「琴葉ちゃんいるー!?」
「まだ!」
「えー!」
「あとで!」
元気な声が遠ざかる。
「人気者ね」
「元気すぎます」
「好きなのよ、琴葉ちゃんのこと」
「そうなんですかね」
「そうよ」
女性は当然のように言った。
琴葉は少しだけ視線を落とす。
言葉を返さず、そのまま頷いた。
*
髪をまとめ、飾りをつける。
鏡に映る自分は、いつもと少し違う。
「どう?」
「……変じゃないですか?」
「すごく似合ってる」
「ありがとうございます」
「澪ちゃんも驚くわよ」
「……」
鏡越しに、自分の目を見る。
少しだけ、視線が揺れる。
「楽しみ?」
問いかけに、すぐには答えない。
ほんのわずかな間。
それから、小さく頷いた。
「はい」
*
午後二時五十分。
琴葉は花屋を出た。
慣れない下駄でゆっくり歩く。
人は増え、浴衣姿も目立つようになっている。
そして、栞堂が見えてくる。
提灯の下、澪が立っていた。
その手には、小さな古いカメラ。
通りを切り取るように、静かに構えている。
カシャ。
軽い音が、空気に溶ける。
琴葉は少し足を止める。
そのまま、数歩。
近づく。
澪が気づいて、カメラを下ろす。
「琴葉ちゃん」
「約束しましたから」
「まだ十分前だよ」
「……」
琴葉は時計を見る。
「本当だ」
「早いね」
「花屋さんが早く終わったので」
「……」
澪は少しだけ首を傾ける。
「楽しみだった?」
問いかけのあと、すぐには続かない。
琴葉は一瞬だけ視線を逸らす。
それから、戻す。
「……はい」
短く。
澪は小さく笑う。
カメラを持ち直す。
「一枚いい?」
「え?」
カシャ。
「……今の」
「記念」
「勝手に撮らないでください」
「似合ってるから」
琴葉は息をつく。
言い返そうとして、やめる。
視線だけが少し揺れる。
「……澪さんも、似合ってます」
澪は一瞬、言葉を止める。
「ありがとう」
そのあと、ほんのわずかに間が空く。
二人の視線が重なる。
逸らさないまま、数秒。
カシャ。
その瞬間だけ、音が割り込む。
琴葉はわずかに眉を寄せる。
でも、何も言わない。
*
子どもたちが駆け寄ってくる。
「かわいい!」
「髪も違う!」
「おっぱいも大丈夫?」
「……」
琴葉は一瞬固まる。
澪が肩を震わせる。
笑いをこらえながら、カメラを構える。
「はい、こっち」
カシャ。
笑い声ごと、切り取る。
琴葉は小さく息を吐く。
そのまま、少しだけ視線を横に流す。
澪と目が合う。
澪はまだ笑っている。
琴葉は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
*
夕方。
提灯に灯りがともる。
昨日までの準備が、祭りの景色に変わる。
「すごい」
「……」
澪はすぐには答えない。
琴葉の視線の先を、同じように見上げる。
それから、少し遅れて。
「当たり前じゃん」
「……でも」
琴葉は言葉を探す。
提灯の光を見つめたまま。
「嬉しいです」
カシャ。
「また撮りましたね」
「うん」
「何でも撮りますね」
「……」
澪は少しだけ視線を落とす。
カメラ越しではなく、直接。
琴葉を見る。
「残したいから」
その言葉のあと、少しだけ間がある。
琴葉は何も言わない。
ただ、視線を受け止める。
それから、ゆっくりと逸らす。
*
「行ってきていいですか?」
「いいよ」
澪はすぐに答えない。
一拍置いてから。
「あとで一緒に回ろう」
「……」
琴葉は一瞬だけ黙る。
それから、小さく頷く。
「約束です」
「うん」
短い返事。
でも、そのあとも視線は離れない。
ほんのわずかな時間。
それから、琴葉は子どもたちの方へ向き直る。
歩き出す前に、振り返る。
提灯の下、澪がカメラを構えている。
目が合う。
どちらも、すぐには動かない。
琴葉が先に、小さく手を振る。
澪も、少し遅れて手を上げる。
カシャ。
その音だけが、少し遅れて胸に残った。
――夏祭りの夜は、まだ始まったばかりだった。
(第五章中編に続く)




